琴音の章 後日談
「なるほど、それは反魂香やと思います」
「はんごんこう、ですか?」
「焚くとその煙の中に亡くならはった方の姿が現れるという、伝説上のお香です」
「それですね。もうそれでしかないと思います」
「前世の僕がどこぞから手に入れて、前世の琴音さんに渡し、使われないまま他の方の手に渡り、琴音さんのお母様のご実家に眠っていた、と」
「百六十年近く、よく眠っていられましたね、このお香も……」
「前世の琴音さんから託された方が、大事にしたはったのでしょう」
「わたしのご先祖さまですかね。感謝しないと」
あれから数日。わたしは毎日彼――俊允さんの店舗兼住居に通い、古道具屋の仕事を手伝いながら、あの奇妙な出来事について話している。
と言っても、わたしは今まで俊允さんのように夢を見ていたわけでも、何かを察していたわけでもない。ただなぜだか急に京都に行かなければという気になっただけだから、話せる情報は少ない。
祖父母によると、先祖は江戸時代に島原花街で揚屋を営んでいたらしい。揚屋は時代の変わり目に廃業してしまったけれど、多くの人脈があったため、その後は呉服屋を始めたようだ。その呉服屋は現代まで続き、今は伯父夫妻が経営している。
俊允さんは学生時代から例の夢を見始めた。夢はいつも女性と話す「誰か」の視点で、他愛ない雑談のときも、声を潜めて物騒な話をしているときもあったという。
話の内容から、女性と「誰か」は幕末を生き、女性は花街で働きながら、「誰か」は京で商売をしながら、攘夷派の志士に協力していたということが分かったらしい。
そしてふたりは大変な任務の最中、お互いを想い合っていた。香炉とお香が贈られたのは、その頃のことだろう。
けれどそれは使われることなく人の手に渡り、祖父母宅の蔵で眠っていた。人の手が誰かと言えば、恐らく揚屋を営んでいたというわたしのご先祖さまに。
つまり幕末の動乱を生きたふたりの物語は、悲しい結末を迎えたということだ。
その悲しい結末の先に、わたしたちがいる。俊允さんとわたしは、あのふたりの生まれ変わりなのだろう。動乱の時代ではなく平和な時代に生まれて出会うため、百六十年近くの時間が必要だったのだろう。
そんな話を、俊允さんの家の居間で、畳の上に並んで寝転がりながらした。
古道具屋の仕事は多忙ではなく、たまに来るお客さんから買い取りをしたり接客をして販売したり。掃除や商品の手入れをしたり。ご近所さんがお裾分けを持って来て、しばらく話し込んでいることもある。ご近所さんは、突然店に出入りするようになったわたしを見て「あの俊允ちゃんが彼女を連れ込んだはる!」と次々に見物にやって来て、俊允さんは「騒がんといて!」と困り顔だった。
そんな俊允さんは、お祖父さんから引き継いだというこの店を、無くしたくないのだと言う。いくつもの時代を生きてきた道具には、その道具を使った人たちの想いが詰まっている。それを手離したとしても、必要としている人の手に渡っていく。その様子が好きなのだと言う。
確かにそうだと思った。想いは時を越える。百六十年近く前に、前世の俊允さんから前世のわたしへ、前世のわたしから揚屋のご主人に、そのご主人から長い時を経てわたしの手に渡り、俊允さんとわたしが出会うきっかけになった。
たくさん回り道をしたけれど、悲しい結末を迎えてしまったふたりも、喜んでいるだろうか。
考えていたら、こんな夢を見た。俊允さんにそっくりな髷の男性と、わたしにそっくりな煌びやかな着物の女性が、寄り添って笑っていた。
『えろう、遅なってしもて……』
『ええよ、ちょっとの間あんさんと会えへんかっただけ。なんべんか、あんさんが恋しくて仕方なかっただけや』
『この期に及んでいけずや!』
『いけずはあんさんの方や、あないに僕を往生させて』
『それは……堪忍しておくれやす……』
『ほな、そのかいらしい顔をよく見して、好きやと言うてください。来世で会えて嬉しいと、来世でも会いたかったと、あのとき言うてくれへんかったことを、言うてください』
『やっぱりいけずや……』
『しゃあけど僕は、あんさんを往生させたいんや』
『ほんに、わての恋しい人はなんぎやなあ……』
それはそれは、幸せな光景だった。見ているこちらまで幸せな気分になってくすくす笑う。できることならこのふたりをずっと見ていたいと思ったけれど、それは「俊允ちゃーん、いてはるー?」という近所のおばさんの大声によって阻止された。
意識が一気に浮上し目を開けると、ちょうど俊允さんも起きたところだった。どうやら寝転がって話をしているうちに、ふたりして眠ってしまっていたらしい。
勢い良く起き上がった俊允さんは、まだ横になっているわたしを見下ろして「夢を見ました」と言った。
「どんな?」
「幸せな。僕らの前世が、寄り添って言い争ってました」
そしてどうやらわたしたちは、同じ夢を見ていたらしい。
「あれは言い争ってたんじゃなくて、いちゃついてたんですよ」
言うと俊允さんは驚いて目を見開いたけれど、すぐに同意し頷いた。
「それより俊允ちゃん、呼ばれてますよ」
「……あなたまでそないにいけずを……」
「ふたりに倣って、往生させたいんです」
「なんぎな人や」
俊允さんは涼やかな目を細めて笑うと、立ち上がりながらわたしの頭を優しく撫でて、店へと出て行った。わたしは幸せを噛み締めながら、のろのろと起き上がる。
わたしは前世の記憶も夢の情報もないし、あの髷の男性のことも、煌びやかな着物の女性のこともよく知らない。なんなら数日前に出会ったばかりの俊允さんのことも、まだよく知らない。けれど確実に、彼に惹かれている。彼の日だまりのような優しさと穏やかさに、心が均されていくのを感じる。もっと彼のことが知りたいし、触れたい。
時代は変わった。もうあのふたりが生きた動乱の時代ではない。だからこうして平和な時代に生まれて、彼と出会えたからには、あのふたりができなかったことを何でもしていきたいと思った。
まずは立ち上がって、彼の元に駆けて行くところから始めよう。
(了)