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透目町の日常  作者: 四十九院紙縞
『名無しの名無花さん』(突如現れた正体不明の女性と同居することになった「私」の話)

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『名無しの名無花さん』5

 私が帰宅すると、名無花さんは当たり前のように、夕飯を作る母の手伝いをしていた。この主張の強いにおいは、カレーだろう。だけどそれは、先週末にも食べたはずだ。我が家の料理のレパートリーは、両親が二人とも調理スキルがあることもあり、多いほうだと思っている。だからこそ、今夜のカレーは、あまりに間隔が短すぎやしないだろうか。そう思うが、料理のできない人間が外から文句を言うのは、良くないことである。

 それに、私は母の作るカレーが好きだ。

 父の作る料理が、分量通りの正確性から作り出される、お店顔負けの料理なのであれば。

 母の作る料理は、長年の勘による目分量から作り出される、ほっとする料理なのである。

 私は夕飯ができるまでの時間は、自室で宿題を片づけていた。しばらくすると、階下から「ご飯だよ」と声がかかる。私と兄がそれぞれの部屋から出て、食卓につくと、家族全員で手を合わせて「いただきます」をした。

 この異常な食卓も、すっかり板についてきてしまったものだ。

 早く終わりが来れば良いのに。

 そんなことを考えながら食べるカレーは、いつも通りの味つけが施されていて間違いなく美味しいはずなのだろうけれど、普段と比べるとなんだか味気ないようにも感じられた。加えて、食事中の会話で、今夜の献立がカレーになったのは、名無花さんのリクエストによるものだったということが発覚し、我が家のカレーが(けが)されたような気分にさえなった。

 夕飯を終え、私が食器を洗って、それを兄が拭いて片づけている間に、名無花さんがお風呂掃除を済ませる。お風呂が沸くと、挙手制で順番に入浴を済ませ、終わった人から順番にリビングでの団欒に加わっていく。今日は私が生まれる前に公開した映画が放送されていて、CMが入る度に両親が当時の思い出を語ったり、映画の解説や舞台裏の話なんかをする。私たち兄妹はいつもそれを、ふうん、と生返事ばかりしているのだが、今夜は名無花さんが、それに熱心に相槌を打っていた。

 あっという間に映画が終わり、少々の感想戦を挟んだのち、寝支度を整えると、各々寝室へと消えていく。私も同じようにして寝る準備を整えると、階段を上って、自室のベッドに倒れ込んだ。

 この約一週間、精神的には参っているものの、身体のほうは特に異変はない。今日だって、スキメ様とお喋りをしていただけだから、平日よりも身体の疲労感は少ないくらいだ。家族がみんな床に就くから自分もそれに倣っただけで、電気を消して横になったところで、眠気が全く来ない。頭から布団を被って闇を深くしてみたところで、それは無駄に終わった。

 だが、明日は月曜日で、また新たに一週間が始まる。夜更かしをするわけにはいかない。早く寝ないと。寝ないと。寝ないと。そうやって自分に暗示をかけていた、そのとき。

 コン、コン、コン、と。

 私の部屋のドアをノックする音があった。

 力強さはない。あくまで控えめで、あわよくば起きてほしくないとさえ思っていそうなくらい、弱々しいノックだ。

 ノックの主が誰かは、なんとなくわかっていた。

 だからこそ、迷う。

 だが、私がノックに反応して良いものかどうか決めあぐねているうちに、かちゃり、とドアが開いた。部屋主の許可もなにもあったものじゃない。それなら最初からノックなんてしなければ良いのに、と思うが、ノックに返事をせず居留守をしようとしていた手前、文句を言いに身体を起こすのもばつが悪い。

「……詩帆ちゃん、寝てる?」

 消え入りそうなほど小さな声で私に話しかけてきたのは、名無花さんだった。

 逡巡に逡巡を重ねているうちに状況はどんどん進んでいき、その結果、私は寝たふりを続行することしかできなくなってしまった。

「わたし、今夜でさよならなの。だから、たぶんわたしがどういう存在か知っている貴女に、お別れを言いに来たのよ。一方的に喋ることになっちゃうけれど、ごめんなさいね」

 名無花さんは、私が寝ているからといって退出するわけでもなく、それどこか、枕元まで近づいて来て話し始めたではないか。いよいよもって、起きることができない。私は布団に(くる)まったまま、名無花さんの話に耳を傾ける。

「わたしは次元の旅人と言って、いろんな世界を渡り歩いているの。滞在期間は、いつもだいたい一週間くらい。世界に繋ぎ止めてくれる人が居なければ、また次の世界に飛ばされて、おんなじことの繰り返し。まあ、この世界については、初日にスキメ様とかいう上位存在が目の前に現れて、いきなり『この世界に御主にとっての鎹は居ないぞ』なんて言われてね。でも実際その通りだったから、後半はほとんど町の観光をしていたんだけれど。良い町ね、ここは」

 この一週間、名無花さんは聞き役になっていることのほうが多かった。

 不自然に思われない程度に、しかし絶対に自分のことは語らない。それを徹底していただろうに、もう別れ際だからだろうか、堰を切ったように名無花さんは話す。

 それはなんだか、子どもが親にその日のできごとを聞いて欲しくて堪らないように見えて、なんだか胃の辺りを握られたように切なくなる。

「旅人には魅了の魔力みたいなものがあって、どの世界へ行っても、みんなわたしを旧知の仲の人間のように接してくれるし、親切にしてくれるの。だけど貴女には、どういうわけかそれが効かなかった。わたしの長い旅路の中で、こんなこと初めてだったものだから、とても驚いたわ」

 常に警戒する態度。

 不気味なものを見る目。

 それはわざわざ言及するまでもなく、絶望的なまでに最悪な態度だ。

 けれど名無花さんにとってそれは新鮮だったからだろうか、その口調からは隠しきれない喜びが滲み出しているようにも聞こえる。

「だからわたし、貴女にお礼が言いたくって。直接言えないのは悲しいけれど、それでも言わせて頂戴ね」

 そうして名無花さんは言葉を区切り、深呼吸をする。

 それだけ念入りな前準備をして、一体どんなことを言うのかと思いきや。

「ありがとう。楽しかったわ」

 と。

 名無花さんの口から放たれたのは、ひどくシンプルなものだった。

 それが、心の底から思っていることなのだと。

 皮肉でもなんでもない言葉なのだと。

 その柔らかな声音で、わかってしまう。

「ふふ、気持ち悪がられておいて『ありがとう。楽しかった』は、我ながら変だと思うわ。だけどわたし、どれだけ周囲の人間を魅了できても、居もしないでっち上げの誰かにしかなれないのよ。そんな中、貴女はわたしをわたしとして見てくれた。突然現れた異物に対して、当然の反応を示してくれた。それが、途方もなく嬉しかったの。同時に、今までの自分があまりにも孤独だったのだと気づいたけれど、この世界では貴女が居たから、わたしは一人じゃなかった。だから、ありがとうね、詩帆ちゃん」

 孤独に気づかせてくれて、そして、孤独を癒やしてくれて。

 名無花さんはそう続け、そっと布団の上から私の頭を撫でた。その手つきがあまりに優しいものだから、心がくすぐったくなって、思わず身じろぎしてしまった。すると、あっという間に名無花さんの手は離れていく。

「……それじゃあ、ばいばい、詩帆ちゃん」

 そうしてベッドから足音が離れていき、ドアが開かれ、閉じる。夜中ということもあり気配を極力消そうとしている足音は、客間へと続いていくのだろう。

「……」

 私はというと、呆然としたまま動けずにいた。

 『次元の旅人』という存在とその能力については、事前にスキメ様から聞いていたから、いまさら驚きもなにもない。

 だから私がこれだけ放心状態に陥っているのは、そういった事実の羅列ではなくて。

 名無花さんからの感謝の言葉と、潔すぎる別れの言葉の所為だった。

 またね、と私なら口を突いて出そうな言葉もなかった。それだけ、彼女は別れに慣れているのだと、たったあれだけで思い知らされた。同時に、それを知ったところで、私にはなにもできない無力感に苛まれる。いや、私にはなにも特別な力なんて持ち合わせていないのだから、そもそもそんな悔しい思いをする必要だってないはずなのに。

 それなら、せめて私からも名無花さんに一言言うべきだろうか。それなら、なんて言えば良いだろう。

 そんなことを考えているうち、いつの間にか私は眠りに落ち。

 気がつけば、月曜日の朝を迎えていた。

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