第2話 出会い
二人が出会ったのは、一年半ほど前の晩秋の寒い夜だった。
まだ生後半年程度だったクロは、吹き荒ぶ風に、完全な猫型に戻り、夜の籠屋山をおっかなびっくり歩いていた。毛を逆立てて、少しでも身体を大きく見せつつ熱を保とうと試みる。
「保行さんと離れるんじゃなかった……。蝶々を追いかけてたら、ここがどこだか分からなくなっちゃった……」
親代わりの人間とはぐれた心細さが、空腹と疲労に拍車を掛ける。体力がなくなると、普段のケモ耳・尻尾付きの人型を保てなくなるのだ。特にまだ幼いクロは、猫型に戻りやすい。
「おい。お前、本物の猫か? 違うよな。猫獣人だろ?」
クロは数人の狼獣人に取り囲まれた。彼らは物珍しそうにクロの匂いを嗅ぎ始める。ただでさえ知らない場所で心細いのに、自分よりはるかに大きく逞しい身体と鋭い牙を持つ狼を前に、クロは恐怖でぶるぶる震え始めた。
「狼獣人の縄張りに一匹で入ってくるなんて、チビのイエネコの癖に図々しい奴だな」
「こいつ震えてるぜ。ハハハ!」
鼻先や前足でぞんざいに小突かれ、クロはおもらしをしてしまった。
「うわ! おしっこちびりやがった! きったねぇ」
わあわあと面白そうに騒ぐ彼らを前に、恥ずかしさと悔しさで涙がこぼれ落ちそうになった時、一匹の光る狼が、クロと他の狼たちとの間に飛び込んできた。
「やめろよ! こんな小さい子猫をいじめるなんて。道に迷って困ってるんじゃないのか? 弱い者いじめはしないのが、狼獣人の誇りじゃないか!」
「……別にいじめてないさ。ちょっとからかっただけだ。……ったく、銀斗、お前もまだガキのくせに一丁前言いやがって。……あーあ。おもんなくなった。帰ろうぜ」
年下の銀斗に正論で嗜められた兄狼たちは、白けた様子でくるりと背を向けて巣に戻っていく。
「ごめんな。あんな大きい狼に取り囲まれて怖かったろ。お前、普段は人間に飼われてるのか?」
心配げな面持ちで覗き込まれ、クロが遠慮がちに頷くと、目の前の彼は、すぐさま人型に変身した。所々、濃淡のある銀髪はうなじを隠すほどの長さで、たてがみのように背後に向けてたなびいている。すらりとした長身の青年だが、足元にかがみ込み、目の高さをなるべくクロに近づけると、活き活きとしたいたずらっ子のように藍色に近い濃青の瞳を輝かせる。
「うわぁ。真っ黒な毛が艶々してて綺麗だな! 俺、銀斗っていうんだ。お前の名前は?」
「クロ」
「黒猫だからクロか。誰が付けてくれた名前だ?」
「保行さんていう、僕を世話してくれてる人間。薬師なんだ。……僕は赤ん坊の頃、保行さんの家の前に置かれてたんだって」
なるべく哀れに聞こえないよう、さり気なく自分の身の上を説明したつもりだが、銀斗は、しまった、と眉をハの字に下げている。悪いことを聞いてしまったと言わんばかりの決まり悪げな表情を見て、クロは、銀斗は素直で優しいんだな、と思った。
「ねえ、銀斗は僕よりお兄ちゃんだよね? 僕、たぶん生まれて半年ぐらい」
「ああ、そうだな。俺は一歳半くらいだから、ちょうど一年上かな。……じゃあ、クロはまだまだ赤ちゃんだな。疲れたろ? 俺が抱っこしてやるから、そのまま猫型でいろよ」
クロを抱き上げる銀斗の手のひらは、クロの手足すらはみ出さないほど立派で、大人並みの大きさがある。ふにふにと顎や輪郭を優しく温かな指先で擽るように撫でられ、クロはホッとしてその身を銀斗に預けた。銀斗の胸に抱かれ、気が付いた時、クロは銀斗の家にいた。銀斗よりも更に明るい毛色の美しい母狼が、前足でクロを自分のお腹に引き寄せる。
「可哀想に。お腹空いたでしょう? お乳を飲んでちょうだい。銀斗の弟と同い年で良かったわ」
柔らかくて甘いお母さんの香り。物心つく前に拾い子になっていたクロには、母親の記憶はないが、本能的にうっとりして、うっく、うっく、と音を立てて必死にお乳を飲んだ。
「やっぱり小さい猫ちゃんだから、お乳を飲む量もそんなに多くないわね。……でもお腹はパンパンに膨らんでる」
まん丸なお腹になったクロを眺め、銀斗の母はうふふと小さく笑う。クロは、よろよろとよろけながらも銀斗へ向かって歩いていく。
「クロ。今日はうちに泊っていけ。もう遅いし、疲れただろ」
「……銀斗と一緒に寝る」
そう一方的に宣言するなり、狼型になっている銀斗にもたれかかり、意識を失うようにクロは眠りこけた。しゃあねぇなあ、と口では面倒くさそうに言いながらも、銀斗も、小さく弱弱しい子猫に頼られて悪い気はしないようだ。クロの背中に沿うように身体を丸め、柔らかい猫っ毛を丁寧に舐めて毛繕いしてやる。口元にはまだミルクすら付けたままだ。それも舐め取る。気持ち良いのか、クロは小さく笑みを浮かべて機嫌良さげに銀斗に顔をスリスリと摺り寄せてくる。
「こいつ乳臭いし、あったかい」
「そうね。赤ちゃんのほうが体温が高いのよね。狼の赤ちゃんも同じなのよ」
小さく弱い生き物に対して優しさを見せる息子を、母狼は満足そうに見つめた。
それ以来、クロはすっかり銀斗に懐いた。常に銀斗の後ろをついて回る。銀斗の小さな影のようだ。群れで下から二番目の弟だが、身体つきは大きく正義感が強い銀斗はガキ大将だ。その銀斗が可愛がっている弟分となれば、最初は意地悪をしてきた狼獣人たちも、全くクロにちょっかいを出さなくなった。単に銀斗にくっ付いていれば苛められないからというだけではない。獣の姿に戻って眠るのが本来の姿なのに、人間に飼われているクロは、幼いのにずっと本能的な欲求を我慢してきた。それを大らかに受け止めてくれる銀斗は、クロにとってはお兄ちゃんそのものだ。普段は親兄弟もなく寂しい分、受け止めてくれる銀斗には、思い切り甘えた。
「ねえ、銀斗。尻尾して!」
銀斗のモフモフの尻尾を振ってもらい、それにじゃれつくのがクロの大好きな遊びだ。時折、興奮しすぎて小さな爪や牙を立ててしまうことがあるが、銀斗は軽く片眉を引き上げて前足でポンとクロの頭を叩くくらいで、怒りもしない。
夜も、獣同士で身体を寄せ合い、温め合って寝たいことを、同じ獣人の銀斗は分かっている。だから、遅くなってもなかなか家に帰りたがらないクロに、「帰れ」と強く言うこともない。「眠くなっちゃった」「昨日怖い夢みたから、独りじゃ寝れない」と何やかんや理由を付けて銀斗の寝床に入り込んでくるのを、軽く苦笑するだけで黙って許す。クロは嬉しかった。
「銀斗は、自分の弟とすら一緒に寝ないのに、クロとは一緒に寝てあげるのね」
あまりの二匹の仲の良さを母狼がからかう。
「だって、クロにはお母さんもきょうだいもいないんだぜ。可哀想じゃんか」
「それにしたって、随分念入りに毛繕いしてあげたり、遊んであげたり、可愛がってるじゃない」
銀斗は耳を掻き、涼しい顔で知らんぷりを決め込んだ。