第七話(最終話) 十二年目の「好き」
結婚記念日の朝は、よく晴れていた。
「父上、母上。今日はフローラと王都の聖堂を見学する約束をしているのです。付き添っていただけませんか?」
朝食の席でセドリックがそう切り出すと、ディオールとモニカは顔を見合わせた。
「聖堂? 構わないが……今日は、その、記念日でな」
「まあ。ちょうどいいではありませんか。夕方には戻れますわよね?」
「ええ、もちろん」
セドリックは澄ました顔で答えた。
給仕をしていたメイが、銀のポットを持つ手をほんのわずかに震わせたことには、誰も気づかなかった。
◇
王都の聖堂は、十二年前と少しも変わらない姿でそこに建っていた。
白い石造りの尖塔。色とりどりのステンドグラス。馬車を降りたモニカは、その前でふと足を止める。
「……懐かしいわね」
「ああ。ここで、俺は声を裏返らせたわけだ」
「自覚はおありでしたのね」
軽口を叩き合いながら石段を上る両親の後ろで、セドリックはフローラと目配せを交わした。フローラは緊張で両手を胸の前でぎゅっと握っている。
重い扉を、セドリックが押し開けた。
――そこには、満席の参列席があった。
「よう、ディオール。十二年ぶりの晴れ舞台だな」
最前列で手を振っていたのは、すっかり貫禄のついたレオンだった。その隣では、ベアトリスが三人の子どもたちを膝に抱えて、扇の陰でくすくすと笑っている。
その後ろには、懐かしい学友たちの顔がずらりと並んでいた。皆、あの夜会の日より少しずつ歳を重ね、少しずつ丸くなっている。
祭壇のそばには、白髪の増えた二人の老紳士――メインサーリオ前公爵とベディラリーヌ侯爵が、揃って素知らぬ顔で天井を眺めていた。
壁際には杖をついた老執事セバスが控え、いつの間に先回りしたのか、その隣にメイが立っている。
そして祭壇の前では、髭がすっかり真っ白になった司祭が、やれやれといった顔で二人を待っていた。
「……また、か」
ディオールが呻くように言った。
「お父様方! これはいったいどういう――」
モニカが詰め寄ろうとすると、二人の老紳士は揃って首を横に振り、揃ってある一点を指差した。
その先にいたのは、セドリックだった。
「セドリック……あなたなの?」
「はい、母上」
少年は一歩前に出て、背筋を伸ばした。
「メイから、誓約書のことを全部聞きました。第三項、結婚記念日には互いに自分の言葉で想いを伝えること。――十二年間、一度も守られていないそうですね」
ディオールとモニカが、同時にメイの方を振り向く。メイは涼しい顔で一礼した。
「ですから今年は、僕がお膳立てをすることにしました。おじいさま方が十二年前になさったように」
参列席から、どっと笑いと拍手が起きた。
「さすがはお前たちの息子だ!」
「親より話が早いぞ、坊主!」
「ディオール! 今度こそ声を裏返らせるなよ!」
レオンの野次に、ディオールは額を押さえた。
隣のモニカは、耳まで真っ赤にして俯いている。逃げ道を探すように扉の方へ視線を走らせたが、その前にはいつの間にかフローラが、小さな体で精一杯に立ちはだかっていた。
「お、奥様、ごめんなさい! でも、セドリック様のお願いなので……!」
モニカは観念したように、深く息を吐いた。
祭壇の前で、二人は向かい合った。
十二年前と同じ場所。十二年前と同じ、何を言えばいいのかわからない顔。
沈黙が長く続いた。
やがて、ディオールが口を開く。
「モニカ。この前の、第一項の願いだが」
「……今、それを持ち出しますの?」
「今使う。そのために取っておいたんだ」
ディオールは、まっすぐにモニカを見た。
「俺の願いは一つだ。今から俺が話し終えるまで、何も言わずに最後まで聞いてほしい。茶化さず、逃げずに」
モニカは目を見開き、それから小さく、こくりと頷いた。
ディオールは一度だけ深呼吸をした。
「あの夜会の夜、俺は本当は、君に指輪を渡すつもりだった。でも怖くなったんだ。君が親の決めた婚約者だから隣にいてくれるだけなんじゃないかって。だから、あんな馬鹿な真似をした。君に言わせようとしたんだ。自分が言う勇気がなかったから」
参列席の野次が、いつの間にか止んでいた。
「その後も同じだった。毎年、記念日が来るたびに何か言わなきゃと思って、結局、誰かの書いた詩を写して渡してた。自分の言葉で言って、もし君が笑ったらと思うと、今でも怖い。十二年経っても、俺はあの夜会の夜から少しも成長してないんだ」
ディオールの声が、わずかに震えた。それでも彼は目を逸らさなかった。
「でも、セドリックを見ていて思った。あいつは毎日フローラ嬢に好きだと言ってる。怖くないのかと訊いたら、言わないで後悔する方が怖いって答えたよ。……十一歳の息子に教えられるなんて、情けない父親だな」
祭壇の脇で、セドリックが少しだけ照れくさそうに頬を掻いた。
「だから、言う。モニカ。君が怒る顔も、笑う顔も、拗ねて枕を投げる顔も、全部好きだ。八歳の頃から、ずっと君だけが好きだった。今も好きだ。たぶん、明日も、その先もずっと」
最後の言葉は、裏返らなかった。
「……これで終わりだ。もう喋っていいよ」
モニカは、しばらく何も言えなかった。
唇を噛んで、ぽろぽろとこぼれる涙をこらえようとして、全然こらえられていなかった。
「……ずるいわ」
ようやく絞り出した声は、ひどく掠れていた。
「そんなふうに言われたら、私、もう逃げられないじゃない」
モニカは涙を拭おうともせずに、ディオールを見上げた。
「あの夜会のドレス、覚えてる? 淡い青の。あれはね、あなたの瞳の色に合わせて、半年も前から仕立てていたの。あなたが気づいてくれたら、それを口実に、私から言おうと思っていたのよ」
ディオールが、はっと息を呑む。
「なのにあなたったら、真っ赤なドレスの人を連れてくるんだもの。だから、全部ワインと一緒に飲み込んでやったの。……あの晩、帰りの馬車でずっと、あなたの名前を呼んでいたわ。怒りながら、泣きながら」
モニカは一歩、前に出た。
「怖かったのは、私も同じ。好きだって言って、あなたに当たり前みたいな顔をされたら、どうしようって。だから毎年、手紙を押しつけて逃げていたの。中身なんて、本当は一行しか書いてないのよ。『好き』って。それだけ」
参列席のどこかで、誰かが鼻をすする音がした。
「ディオ。好きよ。昔から、ずっと。喧嘩するたびに、ああ、やっぱり好きだって思うの。悔しいくらいに」
次の瞬間、ディオールは十二年前と同じように、モニカを強く抱きしめていた。
今度はモニカも、その背中にしっかりと腕を回した。
「十二年越しかよ!」
レオンの叫びを合図に、聖堂が割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
ベアトリスは扇の陰でハンカチを目に当て、学友たちは口笛を吹き鳴らし、二人の老紳士は揃って顔を背けて肩を震わせている。壁際のセバスは杖に寄りかかったまま静かに目を閉じ、メイはそっと目元を拭っていた。
ごほん、と。
白髭の司祭が、わざとらしく咳払いをする。
「馬鹿騒ぎはこれぐらいにして……と、十二年前にも申し上げた気がいたしますな」
司祭は、皺だらけの顔をくしゃりと崩して笑った。
「まあ、今日ばかりは構いますまい。私どもも暇ではございませんが――このような馬鹿騒ぎなら、何度でも付き合いましょう」
◇
参列席の端で、フローラがそっとセドリックの袖を引いた。
「セドリック様のお父様とお母様、素敵ですね」
「……そうでしょうか。面倒くさいだけだと思いますけど」
そう答えながらも、セドリックの視線は祭壇の前の二人から離れなかった。
抱き合ったまま、もう泣いたことを互いのせいにして言い合いを始めている両親。けれど、つないだ手だけはしっかりと離さずにいる。
毎日好きだと言うことなんて、簡単だと思っていた。
けれど父の震える声を聞いて、少しだけわかった気がする。たった一言を口にするのに、十二年かかることもあるのだと。
セドリックは、隣のフローラに向き直った。
「フローラ」
「は、はい」
「やっぱり、毎日言います。父上みたいに十二年も待たせたくありませんから」
「……っ!」
フローラは真っ赤になって俯き、それから、蚊の鳴くような声で答えた。
「……わ、わたくしも。いつか、ちゃんと言いますから。待っていてくださいね」
今度は、セドリックの方が言葉に詰まる番だった。
耳まで赤くなった少年を見て、壁際のメイが小さく吹き出した。
◇
その夜。
メインサーリオ家の食卓では、いつものように両親の言い合いが始まっていた。
「聖堂で先に泣いたのは君だろう」
「あなたの方が先に声が震えていましたわ」
「震えてない」
「震えていました。セバスも見ていましたもの」
スープを口に運びながら、セドリックは小さく肩をすくめる。
テーブルの下で、二人の手がしっかりつながれていることを、彼はもう知っていた。
(どうせすぐに仲直りするのに……)
そう思いかけて、セドリックはふと口元を緩めた。
(――でも、父上と母上の考えることが、少しだけわかった気がする)
窓の外では、十二年前と同じ星が、静かに瞬いていた。
(完)




