(13)現れた影
魔狼犬ライトニングは、ブルーの前に脚を踏ん張り、レオと名乗った白いスーツの魔法使いを激しく威嚇した。その様子は今まで見せた事がないほどの怒りを感じさせ、主であるブルーまでもが怯むほどだった。
「ライトニング、どうしたんだ!」
ブルーは、ライトニングによって窮地を救われた事も忘れて問いかけた。ライトニングは、レオに向かって激しく吠える。
「ガオン!!」
いつでもその喉笛を噛み切ってやるぞ、と言わんばかりの勢いに、レオもまたそれまでの、どこか余裕を残した態度が消え失せていた。レオは、まじまじとライトニングの精悍な顔を凝視した。
「これは、まさか…本物なのか」
その、レオの呟きの意味がブルーにはわからなかった。
「もし本物であるなら、この少年はやはり…」
「何を言っている!」
ブルーは、杖を構えて間髪入れず、今度は神経を麻痺させる魔法を放った。ほんのわずかな油断を突かれたレオは、魔法の障壁を張るのが一瞬遅れ、左腕に魔法を受けてしまう。
「うっ!!」
レオの左腕は、力を失ってそのまま垂れ下がってしまう。ブルーは、遅れて張られた障壁に向かって、強烈な振動を伴う衝撃波を放った。
「うおおっ!」
レオが張った障壁は、ブルーの渾身の魔力の前では何の意味もなさず、地面に落ちた薄氷のように粉々に砕け散った。レオはその光景に目を瞠る。
「侮っていたのは私の方か…長居は無用だな」
レオは、感覚を失った左腕をかばいつつ、意外なほどの素早い身のこなしで割れた窓に向かって跳躍した。ブルーは、逃がすものかと杖を向ける。
「待て!」
ブルーとライトニングがすかさず追う姿勢を見せたが、レオは素早く杖を振るい、魔法で紫色の煙幕を張ってしまった。
「あっ!」
それは気管支に作用するものらしく、ブルーとライトニングは激しく咳き込んだ。レオは軽やかに窓の外に身を躍らせる。
「また会おう、…の末裔よ!」
レオの捨て台詞は、自分とライトニングの咳にかき消されて聴き取ることができなかった。窓の外に足音が遠ざかる。
「げほっ、げほん!」
ブルーは咳き込みながら、慌ててレオを追って窓から外に飛び出す。しかし外は真っ暗闇であり、すでに感覚強化魔法の効果も切れていたため、もはやレオの行方は追えそうになかった。
「ライトニング!追えるか!?」
「グルルル…」
ライトニングの魔狼犬としての嗅覚で追跡できる事を期待したブルーだったが、レオはすでに魔法で痕跡を消しているらしく、ライトニングは諦めの様子を見せて悔しそうに暗闇を睨んだ。
「くそ!」
ブルー自身も追跡魔法を唱えてみたものの、完璧なまでに痕跡は消されており、諦めたブルーは地面を蹴った。
そこへ、近付いてくる足音があった。
「逃げられましたか」
それは、聞き覚えのある少女の声だった。いつもの、グリーンの薄いコートと帽子を身に着けたフワフワの髪の少女は、モリゾ探偵社勤務、ミランダ・スカリー16歳である。
「ミランダ!」
「お久しぶりです」
「どっ、どうしてここにいるの?」
ブルーが驚いて訊ねると、ミランダは足元のライトニングを指差した。
「私の守護霊が、この屋敷で何かが起きていると知らせてくれたので、たいへん勝手で申し訳なかったのですが、あなたの使い魔さんをこちらに向かわせたのです」
突拍子もない事を普通に話し始めるのはいつもの事なので、ブルーは守護霊云々という話は聞き流す事にした。
「よくライトニングを呼び出せたね」
「その辺は、私の企業秘密ということでお願いします」
なんだそれは、とブルーは思った。私の、ということはブルーだけでなく、他の人達にも秘密という事なのか。そういえば、霊能力に関してはカミーユより上だ、とかいう話を以前ミランダは語っている。本当かどうかはわからない。
二人が話していると、そこへマリエを連れたジリアンが戻ってきた。ブルーは諦めたように、肩を落として出迎える。
「ジリアン、ありがとう。マリエちゃん、恐い思いさせたね」
ブルーは責任があるわけでもないが、申し訳なさそうな顔をした。
「ごめん、ジリアン。あいつ、逃しちゃった」
するとジリアンは、あっけらかんとした顔で言った。
「大丈夫だと思うよ」
ブルーはきょとんとした。何が大丈夫なのか。すると、ジリアンは魔法の杖を耳に当ててみせた。
「いま、ホシに逃げられたって慌てて連絡したら、任せておいてください、って」
「誰が?」
主語がなく抽象的なジリアンの返答を訝るブルーに、ジリアンはにんまりと笑ってみせた。
「初めて見たが、間違いない…まさか、あれが現代にまで生きていたとは…」
レオは、細い街道を歩きながら呟いた。遠くに、リンドンの弱い街明かりが見える。
「あの少年も、いささかこちらの予想を超えていた…これは、一筋縄ではいかないな」
そこまで呟いたとき、レオは突然足を止めた。街道の右手方向には、レンガ造りの古い廃倉庫がある。その陰から、背の高い人影が現れたのだ。
「そこまでだ。何者か知らんが、ちょいと取調べ室までご同行願おう」
月明かりに照らされて現れたのは、魔法の杖を構えたアーネット・レッドフィールドであった。レオは、まさかという表情で、掲示された警察手帳を睨む。
「魔法捜査課!?な、なぜ?」
「なぜ、お前がここを通るのをわかっていたかって?いやいや、具体的にここの通りを歩くなんて事までは、わかる筈はないさ」
「ぬ…」
「魔法の万年筆のバイヤーらしき男に逃げられた、って連絡を受けてな。本当はお前が現れた、あの屋敷に行く予定だったが、先回りして身柄を確保する事にした」
アーネットの説明に、レオはまだ納得がいかない様子だった。
「私が逃げ出したのを知ったとして、どうやって先回りできた?どのルートを通るかもわからないのに」
「刑事をなめるなよ、魔法使いさん。話を聞くに、お前は俺たちの事をよく知っているらしい。そうなると、俺たち警察の庭であるリンドン中心地を、わざわざ逃走ルートにするわけがない。当然、モリゾ探偵社があるスウォード通りも避けるはずだ」
アーネットは、空中に地図を描くような仕草で語った。
「そして、あの少女の住む屋敷と、リンドン市街地の位置関係を照らし合わせると、大まかな逃走ルートは絞り込める。俺は刑事のカンでその範囲を特定し、そこから先は頼れる魔法使いに、魔法で探知させたのさ。市街地から遠ざかるような動きをしている人物を」
アーネットが、レオの背後を指差した。すると、そこには月明かりに光る銀髪をなびかせた、妖しい女が銀の杖を携えて立っていた。
「お見事でした、アーネット」
その、蠱惑的で静かな威圧感を伴う声の主は、魔女カミーユ・モリゾであった。その隣には、魔法捜査課のナタリー・イエローライトも控えていた。
「カミーユ・モリゾ。なるほど、貴様か」
レオは、ようやく得心がいった様子でカミーユを睨んだ。カミーユは、見下すでも嘲るでもない、何とも言えない視線を向ける。
「お前など私は知らぬ。だが、尻尾を見せた狐は捕まえなくてはな」
「できるのですかな、掟に縛られた魔女に」
わざとらしい敬語でレオは嗤う。しかし、カミーユは鋭い視線を向けて言った。
「知らぬのか。掟とは、破るためにあるのだ」
「!」
カミーユは、銀の杖をかすかに動かした。すると先端から一瞬、鈍い輝きのオーラが弾けた。レオは、カミーユの杖から放たれた何かを防ぐために、咄嗟に風の魔法を放つ。
「ぐっ…!」
カミーユの杖から放たれているのは、目に見えない重力の波だった。ブルーの魔法によって自由がきかない左腕のため、レオは体のバランスが取れず、しだいにカミーユの魔法に押されて行く。ブルーとの戦闘でわずかに消耗していた事を差し引いても、レオはその実力に戦慄を覚えていた。
「こっ、これが魔女の力か…!」
見えない力が、レオの魔力を圧倒する。カミーユはひと息に、その力を炸裂させた。
「ぐわあっ!!」
レオは、見えない魔力に弾き飛ばされて、街道わきの草むらに投げ出されてしまった。左腕が自由にならないため、受け身も取ることができない。
「ここまでのようだな」
カミーユが杖をわずかに動かすと、レオの体は魔法の細い糸によって縛り上げられてしまう。カミーユは冷徹に見下ろして言った。
「お前には訊きたい事が山ほどある」
「ぐっ…」
「私が尋問するわけにもいかんのでな。取調べは警察に任せるとしよう。さしあたり一般市民からの協力として、魔力は封じさせてもらう」
そう語るカミーユの隣でナタリーが杖をクルクル回し、魔法による容疑者の撮影を行っていた。杖に記録された画像は、あとでフィルムに転写できるのだ。
ナタリーは、ゆっくりと倒れるレオに近付くと、その白いハットを剥ぎ取って顔をまじまじと見た。
「年齢は30代後半から40代半ばの白人。身長179cm、骨格は比較的がっしりしているが、やや痩せ気味。体重は75kgくらいかしら。瞳は薄いブルーで、二重まぶた。整形しているような様子はないわね」
見ただけで相手の身体的特徴を言い当てながら、ナタリーはレオの手首をがっしりと掴んだ。
「指紋も採らせてもらうわよ」
そう言って、魔法の杖をレオの手の平に向ける。すると、黄色い光の筋がその手の表面を走査していった。これは、物体表面の模様などを高精度に記録できる魔法である。
「いいわよ、カミーユ」
「わかりました」
ナタリーがその場をどくと、カミーユは杖をレオの眼前に向けて仁王立ちした。
「お前が関わったという少女やその家族に、手を出すことは絶対に許さない。もし近付いたなら、お前とその組織は我々を敵に回す事になる。いいな」
カミーユが、その杖の先端に魔力を込めた、その時だった。
「!」
突然現れた気配に、カミーユは杖を構えて警戒した。人影が三つ、廃倉庫の屋根の上にあった。
「油断したな、レオ」
低い、女の声がした。人影は三つとも、女物の帽子と季節外れの長いコートをまとっている。暗闇で顔は見えないが、全員女性のようだった。アーネットとナタリーも杖を向けて警戒した。
「誰だ!この男の仲間か」
アーネットの問いに、人影は答えた。
「お前に答える義務などない」
「なくても聞き出すのが仕事なもんでな」
「ふん」
左端の女がわずかに腕を動かすと、レオを縛っていた魔法は一瞬で解かれてしまった。
「だから遊びはほどほどにせよ、と言ったのだ」
「は…はっ」
レオは、跪いて頭を下げた。どうやら、この3人はレオよりも格が上であるらしい。カミーユはレオなど眼中にない様子で、月光に照らされた謎の3人を見る。
「例の魔法の万年筆を流通させているのは、お前たちだな」
普段の柔らかな物腰がまるで嘘のような、カミーユの重く鋭い声が響く。3人の女は、それに答える事はなかった。
「何も言わぬのであれば、口を割らせるとしよう」
カミーユは、間髪入れず3人が立つ瓦屋根に向けて魔法を放った。瓦の1枚1枚が、頑丈な植物の蔓となってコートの女たちを捕縛する。しかし、すぐに女たちの姿はその場から消え去ってしまった。
「!」
カミーユは、即座に周囲に障壁を張る。すると次の瞬間、いつの間にかカミーユを取り囲んでいた3人の杖から魔法が放たれた。
「カミーユ!」
ナタリーが叫ぶ。カミーユに向けられた杖から発された魔力は、無数のナイフとなってカミーユに放たれた。だが、次に驚いたのは3人の女たちであった。
「なに」
カミーユが張った障壁はただの障壁ではなかった。放たれた無数のナイフは、障壁でピタリと動きを止めると、切っ先を女たちに向けたのだ。
「!」
カミーユを刺し貫くかと思われたナイフが、逆に女たちに襲いかかった。しかもそれは、さらに強力な魔力を帯びていた。3人は防ぐ事は不可能とみて、再び瞬間的に姿を消した。
女たちは再び、瓦が剥がれた屋根の上に降り立つとカミーユを睨む。真ん中の、リーダー格らしき女が忌々し気に吐き捨てた。
「魔女めが」
「お前たちの力で私を倒す事などできぬ。死ぬ覚悟があるなら向かってくるといい」
「ふっ。挑発には乗らん」
かすかに笑うと、いつの間にかレオの姿が3人の傍らにあった。レオは、月明かりでもはっきりとわかるほど、悔しそうな表情を見せていた。
「今宵はこれで失礼しよう。もとより、まだお前たちと事を構えるつもりはないのでな」
リーダー格の女が言ったか言わないかのタイミングで、カミーユは拘束魔法を放つ。しかし一瞬早く、レオを含めた4人の姿はその場から消え去ってしまったのだった。
「逃げ足だけは速いということか」
その時、アーネットとナタリーは初めてカミーユの舌打ちを聞いた気がした。カミーユは、しばし下を向いて思案したのち、二人を振り向いていつもの柔らかな笑顔を見せた。
「申し訳ありません。私としたことが、逃げられてしまいました」
本当に申し訳なさそうな表情を見せるので、ナタリーはその肩をポンと叩いた。
「あなたが捕らえられないなら、私達には確実に無理って事よ。気にしないで」
「そうだ。犯人が生きているかぎり、捕えるチャンスは常にある。師匠の受け売りだがな」
ナタリーとアーネットに励まされ、カミーユは少しだけ気持ちを落ち着けたようだった。意外に気負う性格なのだろうか、とナタリーは思った。
「しかし、逃しはしたものの、だいぶ収穫はあったな」
アーネットは、白いスーツの男やコートの女たちの足跡を入念に観察し、魔法でその記録を取った。
「やはり、敵は組織だったということだ。それも、あの様子からして構成員はもっといると見ていいだろう」
「そうね。そして、どうやら明確に上下関係もあったみたい。あのコートの女たちに、スーツの男は頭が上がらない様子だったわ」
おぼろげながら敵の姿が見えてきた事に、魔法捜査課の二人はそれなりに満足していた。その様子を、カミーユは感心するように見ていた。
「相手を逃がした事は、マイナスではないんですね、魔法捜査課にとっては」
「何言ってるんだ。マイナスだよ。でも、俺たちの仕事はそもそもマイナスの状態で始まるんだ。マイナスをゼロに近づける仕事だよ。マイナスがひとつふたつ増えた程度で慌てていたら、仕事にならん。な、ナタリー」
その返しが、何やらカミーユのツボにはまったらしかった。
「ふふ。ふふふふふ」
突然、カミーユは腰を折り曲げて、口元を隠しながら笑い出した。
「くっくっく」
「あなたもわからない人よね」
笑い声を出さないよう奮闘しているカミーユを、魔法捜査課の二人は不思議な目で見ていた。あと一押しすれば、カミーユの爆笑する顔が拝めるのではないかと期待したが、かわいそうなのでそれは見逃してやる事にした。
「やれやれ。レベッカの相談に乗るだけのはずが、大変な1日になっちまった」
アーネットが肩を回しながらぼやく。ナタリーも力なく笑った。
「何なら、明日休業にする?」
「いいとも。君がオハラ警視監にそう伝えておいてくれ」
「言い出しっぺがやる事でしょ」
ナタリーが言うと、その場の3人の笑い声が、冷たい夜の空気を震わせた。アーネットは、連絡を待って悶々としているであろう少年少女たちに伝えるため、魔法の電話をかけるのだった。




