(9)再会
死亡したサリタ・バンデラの親友であったチェルシー・フィンチと、その娘アビーを伴いルイン・ローズガーデンに向かうため、ナタリーは街に出て馬車を手配していた。
すると、何やら街の駐在員たちの動きが慌ただしい。馬車が到着するまで、ナタリーは一人の警官をつかまえて、手帳を掲示し訊ねた。
「何かあったの?」
「ああ、はい」
若い警官は近くに一般人がいないのを確認して、ナタリーだけに聞こえるように言った。
「例のドロテオ・バンデラが、逃亡しました」
「バカね」
ナタリーは素っ気なく言った。警官は、自分がバカと言われたのかと一瞬思ったようである。
ドロテオという男は大きな商社をやっているわりに案外、判断力がない男らしいとナタリーは思った。殺人の容疑をかけられて逃亡する時点で、自分は真相を知っていると白状しているようなものである。
「へたな自殺の偽装工作といい、色恋に目が眩むと頭が鈍るのかしらね。目撃情報はあるの?」
「今の所、ありません。ただ、例の愛人を伴って逃亡しているのは確かなようです」
「こういう状況でついて行くかしら、その愛人」
ナタリーは以前読んだ小説で、犯罪者に惚れ込んだ女が最後には愛想を尽かして逃げてしまう、という展開があったのを思い出していた。
「逃亡者は、用心棒を数名引き連れている可能性もあります。そちらも気を付けてください」
警官は敬礼をして、周囲を警戒しながら歩き去った。
少しして手配した馬車が到着したので、ナタリーは御者に指示してフィンチ母娘のもとへ向かった。
ナタリーから連絡をもらったブルーは、ルイン・ローズガーデンの外でナタリーとフィンチ母娘が到着するのを待っていた。
そこへ、地元の駐在所に行っていたアーネットが戻ってきた。
「やばいぞ、ブルー。例の、奥さん殺害疑惑の貿易商が、逃走したらしい」
「マジで?バカだねー。自分が犯人ですって自白したようなものじゃん」
ナタリーと同じ事を言って、ブルーは呆れた。
「ただのバカならいいが、殺人を犯した可能性がある人間だからな。追い詰められれば、何をするかわからない。俺たちも警察官である以上、ドロテオ・バンデラの身柄確保にも協力せにゃならん」
アーネットは街道の方角を睨む。
「逃走者がこっちに来る可能性も、あるといえばあるんだよな」
「どうして?」
ブルーは訊ねる。
「この辺は見てのとおり、リンドン市内からそんなに遠くないわりに、大きな都市がない。警官は、さっき俺が立ち寄って来た駐在所くらいのものだ。すでに港や駅は厳重警戒されているだろうし、比較的近くで、警官が少ない場所を逃走ルートに選ぶと思わないか」
「うーん。理屈は通ってると思うけど、なんか話を聞いてるとその逃走犯、思ったよりバカみたいだしなあ。まっすぐ港に向かう可能性もあるんじゃない?なんにも考えないで」
ブルーはあっけらかんと言ったが、アーネットはさすがにそこまで相手がバカだとも思えなかった。
「当人がバカでも、周りの人間がそうでないかも知れない。駐在所に回ってきた連絡によれば、用心棒を連れている可能性もあるようだ」
「なに?マフィアなの?その社長」
「少なくとも、まともな類の人間ではないようだな、世間の評判は。だから、どうも俺は引っかかってるんだ」
「引っかかってるって、何が?」
「いや、何でもない。俺の単なる思い込みかも知れん」
何だよそれ、とブルーは思った。アーネットは時々こういう事がある。突然『何かひっかかる』と言うものの、何にひっかかっているのかを言わないのだ。まだ、自分の中で論理が組み立てられていないという事なのだろう。
「殺人の容疑者は、重犯罪課に任せよう。俺たちは俺たちの仕事がある」
どうも、向こうとこっちの捜査内容の温度差が凄いなとブルーは思った。かたや殺人容疑、かたや幽霊である。
「その、こっちの仕事だけどさ。ナタリーからの連絡だと、あの幽霊、亡くなった例のサリタさんで確定かも知れないみたいだよ」
「なんだと?」
アーネットは、若干訝るような表情を見せた。かまわずブルーは続ける。
「いまナタリーと一緒にこっちに向かってる、サリタさんの若い頃からの親友だっていう人が昔描いたスケッチが、あの幽霊そっくりだったんだって」
「昔って、いつぐらいだ」
「スケッチブックの日付が24年前の6月。まさに、アーネットが推理した年数と一致したみたい」
「マジかよ」
あまりにも自分の推測が的中すると、それはそれで不安になるアーネットだった。出来過ぎた話には、たいがい落とし穴がある。
ほどなくして、ナタリーらが乗った馬車がガーデンに到着した。ブロンドのフィンチ母娘も一緒である。ナタリーも含め全員ブロンドで、背格好も似ているので、一瞬誰が誰だかわからなかった。
「お待たせ」
ナタリーが先に降りると、続いてフィンチ母娘も降りた。アーネットが進み出る。
「話はブルーから大まかにだが聞いた」
「そう。じゃあ聞いたと思うけど、こちらがサリタさんのご友人のチェルシーさん」
ナタリーが紹介すると、チェルシーは軽く頭を下げた。
「チェルシー・フィンチと申します」
「ご足労おかけします、魔法犯罪特別捜査課のレッドフィールドです」
「ブルーウィンドです」
アーネットに並んで、ブルーもフィンチ母娘に敬礼する。
「お話はナタリーさんから伺いました」
チェルシーは、まだどこか理解しきれていないような表情で言った。
「そうですか。おそらく、受け入れるのが難しい話だろうとは思います」
「今更、疑いを持っても仕方ありませんわ…ただ、それでも自分の理解を超えているもので」
「それで普通ですよ。俺自身、この目で見てもまだ幽霊というものが何なのかわかっていません」
アーネットは苦笑いを浮かべた。実際、その通りである。仮定に仮定を重ねた末に、今こうしてチェルシー・フィンチ氏という、幽霊の親友ではないかと思われる人物が招かれたのだ。まるで、あやふやな状況証拠だけで裁判所に乗り込んでいるような気分だった。
「それで、わたくしは一体どうすればよろしいのかしら」
チェルシーは訊ねた。実の所、それもハッキリしていないのだが、押し切るようにナタリーは言った。
「チェルシーさん、少々怖いかとは思いますが、ガーデンに現れる女性に、会って差し上げてください」
「どうすれば会えますの?」
「ガーデンに入れば、きっと会えます。私どもは二度も会っていますし、百件以上の目撃報告が駐在所に届いています。見ていない人間の方が、少ないかも知れません」
それを聞いたチェルシーは、不安そうに目の前にある、ロープを張られて閉園された、中世の修道院跡を利用したローズガーデンを見た。去年まで、親友のサリタとともに訪れていた場所である。
「ここに、サリタが…」
チェルシーはガーデンに一歩近寄った。ひとつ深呼吸をして、ナタリーたちの方を振り向く。
「ナタリーさん」
「はい」
「わたくし、一人で行って参ります」
チェルシーの目には、決意のようなものが感じられた。ナタリーが頷く。
「わかりました。我々は、ガーデンの周囲とアビーさんを警護いたします」
誰もいない、まるで貸し切りのローズガーデンをチェルシーは独りで歩いた。手には、24年前のスケッチブックが握られている。一歩ずつ歩くたびに、若い頃サリタと出会った事が思い起こされた。
『あなた、絵がお上手ね』
画板に張った紙にガーデンをスケッチしていたサリタに、斜め後ろから声をかけたのが出会いだった。そこから、絵の描き方についてサリタの講釈が始まったのだ。
『絵は誰でも描けるのよ。みんな描き方を間違えて覚えてしまうのがいけないの』
そのサリタの言葉に、軽く憤慨した事もチェルシーは思い出した。それは、描ける人間だから言えるのではないか。
『なら、あなたも画板を持っていらっしゃいな。私が証明してあげるわ、絵は誰でも描けるって』
その自信たっぷりな言葉を、声色を真似できるくらいチェルシーはよく記憶していた。
「あなた、ああ言ったけれど。なかなか上達しなかったわね、私」
チェルシーは誰もいないガーデンに向かって呟いた。昔とは配置が変わってしまった植え込みに、過去のスケッチを重ねてみる。
「まるっきり描けない時から見ると、描けるようにはなったわ。でも、あなたには及ばなかったわね」
過去の、フリルのついたドレスをまとったサリタのスケッチを、風景に重ねてみる。あの時、確かに自分たちはここにいたのだ。
そう思って、静かにスケッチブックを閉じて下げた、その時だった。
チェルシーは、信じられないものを目撃した。
「サリタ!」
チェルシーは叫んだ。
そこにいたのは、あのクリーム色のドレスを着た、若き日のサリタだった。
チェルシーの瞳から、涙がボロボロとこぼれ始めた。
「サリタ!あなたなのね、本当に」
『来てくれたのね、チェルシー』
その声は、まさしく親友のサリタの、説教好きな声色そのものだった。
『ありがとう、チェルシー。あなたが来てくれたおかげで、全てを思い出せた』
「サリタ」
『私に何が起こったのか、全て思い出した。私は自分を見失っていたようだわ』
「どういうこと?」
チェルシーの問いに、サリタは静かに微笑んだ。
『チェルシー、私に起こった事は、生きている人達が全て明らかにしてくれるわ。だから、辛いと思うけれど、私を哀れまないで』
「どうして…」
『私に最後に起きた出来事や、人への憎しみはある。でも、それ以上のものが、今ここにあるから』
サリタは、ガーデンに向けて手を広げた。周りの森から差し込む陽の光に、色とりどりのバラが映える。それは、筆舌に尽くしがたい美しさだった。
『私、あなたと会えて幸せだったわ。あなたが絵を描いている私に、声をかけてくれたあの瞬間も』
「私もよ」
『チェルシー、もう一度、絵を描いてみて。あなた、鉛筆を握らなくなって何年も経つでしょう』
幽霊になってまで説教するサリタに、チェルシーはつい苦笑した。
「本当に、変わらないわね」
『変わらないわ。だって、私は生きているのだもの』
「生きている?」
『ええ。死なんてものはないの。私は今までどおり、いえ、今まで以上にあなたと共にある』
そう語るサリタの姿が、だんだん薄くなっていくのにチェルシーは気付いた。
「サリタ!」
『もう、時間が来たようね』
「行かないで、おねがい」
『チェルシー、私はいつでも居るわ。かたちを変えるだけ』
その言葉の意味は、チェルシーにはわからなかった。ただ、親友に行かないで欲しい、それだけだった。
『チェルシー、ありがとう。さようならは言わないわ。これからも親友でいましょう』
「サリタ、私も、ありがとう。私と出会ってくれて」
『ありがとう』
サリタの姿は、もうほとんど見えないくらいになっていた。しかし、それにつれてチェルシーは、サリタが確かにそこにいる、という気持ちになっていたのだった。
それは、不思議な感覚だった。親友が死んだという喪失感は消え去り、代わりに『共にある』という充実感が、心の底から湧き上がって来るのだった。
その時、チェルシーは確かに『声』を聞いた。はっきりとした声だった。
ガーデン正面の門で、アビーを警護しながら周囲を警戒するナタリーのもとへ、チェルシーが戻ってきたのは陽が少しかげりを見せ始めた頃だった。
「お母さん」
アビーが、チェルシーのもとに駆け寄った。チェルシーの表情は穏やかだった。
「もう大丈夫よ」
「どういうこと?」
「会えたわ、サリタに」
そう微笑むチェルシーに、アビーは驚いて訊ねた。
「サリタおばさまに会えたの!?」
「おばさまは失礼よ。若い頃の姿で現れたのだから」
そう言って、自分が昔描いたサリタのスケッチをチェルシーは眺めた。
「ナタリーさん、私には何の知識もありませんけど、もう大丈夫です。サリタは、全てを思い出した、と語っておりました」
「では…」
「はい。もう、サリタが事故を引き起こすなんて事はないでしょう。いいえ、最初からそんな事はなかったのかも知れません」
チェルシーは、涙のあとが見える顔で空を仰いだ。
「じゃあ、これで解決したってこと?」
アビーが訊ねる。答えたのはナタリーだった。
「ひとまず、チェルシーさんの仰った内容を信頼し、魔法捜査課として記録しておきます。そのうえで、我々がもう一度このガーデンの様子を確認し、何もないとわかれば、そこで事件は解決になります」
「私は、あとはどうすればいいのかしら」
「チェルシーさんにご協力いただいた件は、これで完了です。捜査のご協力、本当にありがとうございました」
ナタリーは敬礼した。チェルシーは小さく笑う。
「ほんとうに、不思議な部署があるものね。幽霊事件を解決する捜査課なんて、聞いた事がないわ」
「よく言われます」
「でも、こちらこそ貴女が引っ張り出してくれたおかげで、サリタに再会できたわ。ありがとう」
チェルシーは握手を求めた。ナタリーはその手をしっかりと握る。
「あとは、我々にお任せください」
そうナタリーが言うと、チェルシーは何かを思い出してナタリーの顔を見た。
「そうだわ、ナタリーさん。サリタが最後に、あなた方に伝言を残して行ったの」
「伝言?」
「ええ、おそらく事件に関する何かだと思うわ」
ナタリーは困惑した。幽霊から警察への伝言とは何だろう。ついに、幽霊からの捜査協力という前代未聞の事例が出来てしまうらしかった。
「その、伝言とは?」
ナタリーに、チェルシーは少し緊張した面持ちで言った。
「ドロテオ・バンデラの愛人アズーラ・エウスターチオ、彼女は魔女だ、と」




