(8)逃亡者
もと情報局員、ナタリー・イエローライト巡査の持つ情報網は幅広く、アーネットやブルーがその存在を知っているのは、せいぜい古巣の情報局ぐらいである。
情報局といっても、結局はどこかから情報を持って来なくてはならない。その、「真の情報ルート」に関しては、ナタリーは絶対に口を割らないのだった。
「ご注文の品をお届けに上がりました」
明るいブラウンのスーツを着た、涼しげな目元の青年が、川沿いの公園のベンチに座るナタリーの前に立ってそう言った。ナタリーよりも若く、ともすれば少年と言ってもいいくらいである。
「ありがとう。早いわね、相変わらず」
「迅速、丁寧がモットーですので」
青年は、カフェのロゴが入った紙袋をナタリーに手渡した。
「サリタ・バンデラ氏の出身地はイエローライトさんの予想したグレイスリー町ではなく、南の港町エイブルでした」
「そう」
「ただし、グレイスリーには親友がいたようです」
「親友?」
「はい。チェルシー・フィンチという名で、リンドン市内在住です。詳細は資料にあります」
青年は、ブティックの店員が流行りの帽子を薦めるような仕草で紙袋を示した。
「例のガーデンとの関連は、私の調べでも出て来ませんでした。もし繋がりがあるとすれば…」
「その、親友以外にあり得ないという事ね」
青年はにこやかに頷く。柔らかい笑みを絶やさないが、周囲に常に気を配っているのがナタリーにはわかった。
「サリタ氏が死亡した件の真相については?」
「調べるまでもありません。アストンマーティン警部が動かれた事をきっかけに、事態が変化を見せています。いずれ、新聞に載るでしょう」
「なるほど」
つまり、誰もが知る事になる、ということだ。しかし、その真相を誰よりも早く、この青年は掴んでいるらしかった。
「わかったわ、ありがとう。代金はいつもの所に請求してちょうだい」
「ご利用ありがとうございます」
青年は恭しく頭を下げたあと、少しくだけた姿勢で言った。
「ビジネスの話とは無関係に、少々世間話をしてもいいですか、ナタリーさん」
「ええ、どうぞ」
「最近、警察手帳を持って聞き込みをして歩く少年がいる、と方々で耳にするんですが」
ナタリーは眉間にシワをよせて押し黙った。
「そちらの刑事さんですよね」
「うちでなきゃ、どこの誰なのか私が訊きたいわ」
その頃、メイズラントヤード重犯罪課の刑事たちは慌ただしく駆け回っていた。デイモン警部の署名で裁判所に提出された疎明資料が受理され、貿易商ドロテオ・バンデラ51歳への捜査令状が発行されたのである。
自殺で処理されるとの公式発表が覆された形になり、報道もにわかに加熱の様相を見せ始めた。つまり、上層部の誰かが重犯罪課の捜査結果をもみ消した事が、間接的に明らかになったからだ。
「まったく、警部はやらかしてくれたな」
「カッターさん、目が笑ってますよ」
「ばかやろう、無念の仏さんの前で笑えるかってんだ」
アーネット・レッドフィールドの同期で重犯罪課のチーフ、カッター刑事はジャケットを着こみ、ハットを被って室内にいる刑事達に叫んだ。
「お前ら、いいな!あの、お上に賄賂を渡せば黒も白だと言っても許されると思っている、ゲスな殺人鬼の貿易商に手錠をかける、千載一遇のチャンスだ!デイモン警部は職務を追われる事になるだろうが、その尊い犠牲を無駄にするな!」
「ばかもん!!わしが辞める時は自分で辞めるわ!!」
出入口から現れたデイモン警部は一喝した。
「おっと、これは警部、今のはちょっとした本音ですよ、お気になさらんで下さい」
「ふん、あのレッドフィールドと仲の良かった奴はみんな、揃いも揃ってへそ曲がりだ」
「警部、準備はできてますよ。いつでも出陣の号令をかけてください」
カッターはドンと胸を叩く。他の刑事たちも力強く笑った。
「ようし、大将首を取ったら、わしとカッターの金で全員好きなだけ飲ませてやる!」
オオー、と重犯罪課に刑事達の雄たけびが響く。巻き添えで酒代を払わされる事になったカッターだけは、若干浮かない顔であった。
リンドン市内、アークロード通り。ここの一軒家の玄関前に、ナタリーは立っていた。表札には「フィンチ」とある。
「ここね」
ナタリーはひと呼吸置いて、ドアベルを鳴らす。ほどなくして、若い女性の声が聞こえてきた。
「はい」
ドアが開いて、ナタリーとあまり変わらないか、少し下くらいに見えるブロンドのストレートヘアの女性が現れた。
「フィンチさんのお宅でしょうか」
ナタリーは訊ねる。
「はい、そうですが」
「突然ごめんなさい。私、メイズラントヤード魔法捜査課のイエローライト巡査です」
ナタリーは警察手帳を見せる。警察と言われて緊張しない人間はそんなにいない。若い女性も、何事かという表情を見せた。
「け、警察の方ですか」
「ああ、安心して。単なる聞き込みです。チェルシー・フィンチさんはご在宅でしょうか」
「母ですか。はい、いま家におります。どうぞお上がりください」
そう大きくはないが立派な造りのフィンチ宅の居間に、チェルシー・フィンチは座っていた。ボリュームのあるブロンドを後頭部でまとめ、年齢のわりにはハリのある白い肌をしている。その表情には焦りとも緊張ともつかない色が浮かんでいた。
「突然の訪問、失礼します。わたくし、メイズラントヤード魔法捜査課のイエローライトと申します」
「警察の方?」
チェルシーは、突然目を輝かせて立ち上がった。
「はい。実は…」
「サリタの事で来られたんでしょう!?」
唐突にサリタという名を出されたので、ナタリーはビンゴだ、と心の中で拳を上げた。
「はい、その通りです。サリタ・バンデラ氏について」
「彼女は自殺なんかする子じゃないわ、絶対に殺されたのよ、あの悪徳の夫に!」
サリタ氏の剣幕に、ナタリーはたじろいだ。今まで溜め込んでいた鬱屈を吐き出したようにも見える。助け舟を出したのは娘だった。
「お母さん、落ち着いて。刑事さん、困ってるわよ」
「ああ、ごめんなさい…どうぞ、お座りになって。アビー、お茶をご用意して」
アビーと呼ばれた娘は、ナタリーにソファーを勧めると部屋を出て行った。
「申し訳ありません、取り乱してしまって」
「いいえ、お気になさらず。チェルシーさん、単刀直入にお聞きします。亡くなられた、サリタさんとはお友達でいらっしゃると伺いました」
そう言われて、チェルシーの目には涙が浮かんだ。
「ええ、ええ…私たちは十代のころ知り合ったの。それから今まで、ずっと親友でした」
「お察しいたします」
「世間では、彼女が自殺したような事を言われていますが…私は、あの子がそんな事するとは思えません。殺人の疑いで、デイモン警部は動いてらっしゃるんでしょう?」
一般市民の間にも、『デイモン』というファーストネーム」で親しまれているんだなと、ナタリーは改めて思った。アストンマーティンという姓で呼ぶ人はほとんどいない。
「その通りです」
「でも、新聞にはやはり自殺の線でと載っていて、私も何を信じていいのか」
「チェルシーさん、その事ですが。まだ知れ渡っていないので、内密に願います。私もついさっき知りましたが、ドロテオ・バンデラ氏への捜査令状が正式に発行されたそうです」
その言葉に、チェルシーの目が光を帯びた。
「本当ですの」
「そうです。デイモン警部率いる重犯罪課が、すでに動いていると聞きました」
「まあ、まあ、良かった。これでサリタの無念も晴らされるのね」
チェルシーは、両手を顔に当てて涙を流した。どうやら、本当に深い仲の親友だったようだ。親友を失った気持ちはどんなものなのだろうと、ナタリーは居たたまれない気持ちになった。しかし、あくまでも魔法捜査課の一員として、毅然と事件に取り組む事にした。
「チェルシーさん、ここからが私の訪れた本当の理由です」
「理由?」
「チェルシーさん、あなたは若い頃、サリタさんとよくルイン・ローズガーデンにお出かけになられておりましたね」
その地名を言われて、チェルシーの目からボロボロと涙がこぼれ始めた。
「ああ、はい!あの場所は、私と彼女の思い出の場所なのです。十代の頃、風景をスケッチしているサリタに声をかけたのが、私たちの出会いでした」
ナタリーは、やはりという思いでその話を聞いていた。もらった情報から、おそらく彼女たちの行動範囲の中にルイン・ローズガーデンが含まれている、それも重大な意味を持つ、と推理したのだ。
「チェルシーさん、思い出に土足で踏み込むような真似をして、本当に申し訳ありません。これからお話する事は、にわかには信じがたい、ともすれば大変失礼に聞こえる話かと思います。ですが、どうか私の話を聞いてください」
ナタリーの目は真剣そのものだったので、チェルシーは背筋を正してその話を聞く事にした。
「まさか、そんな事が…信じられない」
ルイン・ローズガーデンとその周辺で起きている事を説明されたチェルシーは、呆気に取られたような顔をしていた。
「これが、その目撃された幽霊のスケッチです」
ナタリーが差し出した、アーネットによって描かれた幽霊の人相書きを見て、チェルシーは雷にでも撃たれたように背筋をふるわせた。
「なんてこと!」
おもむろに立ち上がると、チェルシーは部屋を出て行った。何かを探しに行ったような雰囲気だった。
ほどなくして戻って来たチェルシーの手には、一冊のスケッチブックが抱えられていた。
「これ、私が若い頃にサリタに教わって、絵の練習をしていたスケッチブックです」
テーブルについたチェルシーは、そのスケッチブックを開いた。ナタリーと、娘のアビーも一緒にその内容を見る。それは、ルイン・ローズガーデンの風景やバラを描いたものだった。今と、植え込みの配置が異なっているのが素朴なタッチからもわかる。
何枚かめくっていくと、バラの植え込みの向こうに立つ、一人の若い女性のスケッチが現れた。それはまさに、アーネットが描いた幽霊の人相書きとそっくりの姿をしていた。フリルのついたハットにドレス、首の後ろでまとめた髪、ほっそりとした顔立ち。そして、こちらにはアーモンド型の美しい目と、形のいい唇が描かれていた。日付は24年前の6月である。
「これは…」
実のところ、室内の3人の中で一番驚いていたのはナタリーだった。2度も目撃した幽霊と同じ姿のスケッチが、推測したまさに24年前に描かれていたのだ。アーネットの推測が正しかった事も、これでほとんど証明されたようなものだった。霊、というものを信じるならの話だが。
「サリタは、彼女は今あのローズガーデンにいるの!?」
「私には、何も断定することはできません。幽霊という存在が真実なのかどうか」
ナタリーは、自分を落ち着かせるように言った。
「ですが、私にも思い出の場所はあります。もし自分が死んで、自分が何者なのか思い出せなくなった時、一番思い出に残っている場所を私も訪れるかも知れません」
そう語るナタリーの言葉を、チェルシーは頷きながら聞いていた。
「でも、私には信じられない…あの優しいサリタが、人を祟るなんてこと」
「落ち着いてください。私たちも、起きている事故が全て彼女のせいだなんて思っていません」
「でも、現実にそれが起きているのでしょう?」
チェルシーの顔は蒼白だった。親友が亡くなった事以上にショックを受けているようだ。
「チェルシーさん、事故に遭った人たちは自業自得です。橋から落ちたカップルも、気持ちを落ち着けて話し合っていれば、つかみ合いになどなる必要はなかったんです。例え何らかの影響があったとしても、サリタさんの責任ではありません」
やや暴論ぎみにナタリーは言った。それは、半分は彼女の本音だった。霊の影響など、自分を律する事ができるなら跳ねのける事ができる筈だ、という信念が彼女にはあった。
「お願いがあります。祟るのをやめるために、というのではなく、ただ彼女に会うために、ルイン・ローズガーデンに一緒に来ていただけませんか、チェルシーさん」
ナタリーは真剣な表情で言った。
「サリタに会うために?」
「そうです。彼女は今、自分が誰なのか思い出せない状態なのです。でも、このスケッチを見て確信しました。彼女にとって、人生で一番輝いていた時が、あなたとローズガーデンで過ごした時間だったんです」
チェルシーは、24年前の自分が描いた、下手くそなスケッチに向けられていた。
「私は、エクソシストでも何でもありません。でも、私にも親友と呼べる人間がいます。自分が誰なのかわからなくなった時、それは記憶を取り戻す、よすがになる筈なんです」
自分で言って、どこに根拠があるのだろうとナタリーは思った。しかし、言葉が不思議と口をついて出てくるのだった。
その時、チェルシーの背中を押したのは娘のアビーだった。
「お母さん、行ってあげなよ。早く行かないと、バラのシーズン終わっちゃうよ」
アビーは、チェルシーの肩をポンと叩いた。それで、チェルシーの気持ちは決まったようだった。
「今年も、彼女と一緒にあのガーデンを訪れる予定でした。でもこんな事になって、一人で行く気にはならなかったんです。けれど、私が行かなくては…サリタに会わなくてはならないようですね」
チェルシーの目に涙はなかった。
「イエローライトさん、勝手なお願いになりますが、一緒に来ていただけますか」
「もちろんです」
ナタリーはチェルシーの手を取り、力強く頷いた。
リンドン市の象徴であるテレーズ川に沿った高級住宅地、ベルガーラ。ここに、ドロテオ・バンデラの邸宅はあった。貴族と見まがう豪奢な佇まいの屋敷のドアベルを、重犯罪課の刑事が鳴らした。
「ドロテオ・バンデラ!メイズラント警視庁だ、捜査令状が発行されている。開けろ!」
若い刑事が、いきり立ってドアを鳴らす。しかしドアは開かない。
「開けないというなら、公務執行妨害罪で引っ立てるぞ!捜査令状を拒否することはできない!ドアを開けないという行為も、公務執行妨害と見做されるんだぞ!!」
「お前、懇切丁寧に解説してどうするんだ」
若い刑事に呆れたカッターが、隣で溜息をついた。
「いいか、教えてやる。こういう時は、こうするんだ」
カッターは胸元から拳銃を取り出すと、周りの刑事が唖然とする間もなく、悠然と撃鉄を起こして、いくら金がかかっているのかわからない豪華なドアの鍵に2発、3発と弾丸を撃ち込んだ。一瞬でその価値が目減りしたであろうドアは、観念したように静かに開いた。
「ドアが開いてるってことは、入っていいって事だ」
カッターは銃口の煙をフッと吹き付けると、ニヤリと笑った。
バンデラ邸に入ると、使用人やメイドたちが怯えるように廊下に出て来た。
「ドロテオ氏はどこだ?」
カッターが捜査令状を手に、最年長らしき使用人に詰め寄るものの、一向に口を開く様子がない。
「人が答えないなら、屋敷に訊くだけだ。いくぞ!」
カッターの号令で、刑事たちは広い邸内に拳銃を握って散らばった。重犯罪課の捜査はそこそこ悪名高いのだが、特に富裕層に対する捜査は容赦がない事でも知られている。実績が豊富で市民の信頼も厚いため、多少の無茶をしても上層部は口出ししにくいのだ。
しかし、バンデラ邸を調べても、ドロテオの姿はどこにもなかった。
「やられた」
カッターは、よく響く廊下に舌打ちした。
「緊急手配だ!ドロテオは逃亡した。各駐在所も総動員して、奴を網にかけろ!駅や港、それから他の都市の市警にも連絡を入れるんだ、急げ!」
デイモン警部が取り憑いたかのような剣幕で、カッターは指示を飛ばした。




