(4)【禁帯出】ブライトコート事件
レストラン「アズライト」を出て、メイズラント警視庁本庁の地下室に戻ろうとナタリーと歩いている時、アーネットはふと視線のような何かを感じて振り向いた。
「どうしたの?」
ナタリーが訊ねる。
「いや。視線みたいなものを感じた気がしてな」
「職業病ね。勤務中以外は気を緩める習慣もつけた方がいいわよ」
そう言うナタリーは、そのへんの切り替えは器用そうに見えるなとアーネットは思った。
地下の魔法捜査課オフィスに戻ると、再び資料保管室という名の押し入れに戻って、過去の事件ファイルの整理を再開した。まだ全体の四分の一も終わっていないと思われる。
「こりゃ、ブルーにも手伝わせないと無理かな」
すでにサジを投げつつあるアーネットだったが、そもそもさっきまで整理という目的を忘れて、面白い事件ファイルを掘り返していたのだ。さすがに反省して、二人はまじめにファイルを整理する事にした。
改めて整理してみると二人は、規模の大小を抜きにすれば、自分達が思っている以上に多くの事件があったのだなと思い知らされた。そして中には例外的に、きっちりと他の事件とキャビネットを分けてある事件群が存在する。
それが、「未解決事件」と呼ばれるファイルである。
アーネットはその中のひとつを取り出して、ファイル名を確認した。
「こいつらはどう扱えばいいんだろうな」
赤字で【禁帯出】と判が押されたそのファイルは、
<ブライトコート事件>
と題されていた。
それは、魔法犯罪特別捜査課が発足する4年も前に起きた事件だった。場所は首都リンドンではなく、南の海岸沿いの都市ブライトコートでの出来事である。
その夏は海流などの影響で例外的な猛暑となり、熱中症で倒れる老人が続出する一方で、ビーチが有名なブライトコートは海水浴客でごった返していた。日差しは強く、運河や港の舗装は熱され、油を引けばそのままステーキが焼けそうだった。
事件が起きたその日も朝から、連日に違わず凶悪なまでの暑さを記録した。市内に住むチャベスという釣りを趣味にする男が早朝からの釣りを終えて、熱い風が吹く中、運河沿いの舗道を歩いている時だった。
気温はとうに30℃を越えている中、舗道に立ったまま片腕を斜め上に伸ばし、静止している人影があった。流行のドレス姿で、若い女性だとわかった。
こんな時間に若い女が、何もない運河沿いにいるとはどういう事だろうかと思いつつ、日傘も差していないので、身を心配したチャベスは女に近寄った。
しかし、何かがおかしい。風が吹いているというのに、ドレスも、髪も、スカーフも、全く動いていないのだ。よもや、誰かが悪戯で等身大の人形でも置いたのだろうか、はた迷惑な、と思ったチャベスは、それが人形である事を確認しようと足早に駆け寄った。
そこでチャベスは、肝が凍り付くかと思うほどの恐怖を覚えた。
それは人形などではなく、立ったまま凍死している若い女だったのだ。
チャベスは腰を抜かし、その場に尻をついて悲鳴をあげた。それに気付いた付近の海運業者の人間が数名やってきて、同じように声を上げた。
女は、着ているドレスも含めて完全に凍結していた。しかも、よくよく見ると、足元の石の舗装までもが凍結しており、驚くべきことに、それは太陽に熱されても全く融ける様子がない。靴底は完全に凍って張り付いているらしく、風が吹こうともびくともしなかった。
海運業者の迂闊な若者が、手袋でその女のドレスに触れてしまった。一瞬で冷気が手に伝わって、慌てて手を引き抜いたのが幸いしたが、手袋は凍結してそのままドレスに張り付いてしまい、落ちる様子もなかった。これは只事ではない、と居合わせた全員が悟り、すぐに警察に連絡したのだった。
地元の警察が現場に到着しても、凍結した女は少しも融ける様子がない。発見者たちの忠告により、触れる者はいなかった。野次馬が増えるのを危惧して、とりあえず女の凍死体は角材と布で急場にこしらえたテントで覆い隠される事となった。テントの中は凍死体の冷気で寒いくらいになっており、現場検証や検死にあたる人間は、炎天下のなかコートを持って来なければならなかった。
現場検証と検死の結果わかったのは、「何もわからない」という事実だけだった。事故の線で考えても、どういう事故が起きればこんな凍死体が出来上がるのか。といって殺人と仮定しても、どうすれば人間をこんな凍死体にできるのか。外傷などは全く認められず、着衣も乱れてはいない。下げているポーチも凍結しているため中身を確認できないが、金品を盗られた様子はない。
人相と、おそらく20代と思われる推定年齢から、身元が確認できる可能性はある。着ているドレスや靴は流行している質のいいものなので、少なくとも中流階級以上の女性であるらしい。だが、商店が並ぶ通りを着飾った女性が歩いているならまだしも、漁船が行き交い、釣り人しか歩かないような港付近で、この女性は何をしていたのか。斜め上に伸ばされた右腕と、何かを掴もうとしているような手の形は何を意味しているのか。
地元の警察署がサジを投げ、本庁のメイズラントヤードから捜査班が派遣された結果、これは「魔法を使用した犯罪」である、との判断が極秘になされた。地元の警察には箝口令が敷かれ、事件は本庁の管轄となったため、地元の署の反発は大きかったという。
ちなみに、数日後その遺体はその場から消え去っていた。遺体が立っていた部分の舗装が真新しくなっていたため、本庁が舗装のブロックごと遺体をどこかに移送した事は明らかだった。
その後、その凍死体はどうなったのか。
驚くべき事だが、それは「誰も知らない」のだった。魔法犯罪特別捜査課の人間でさえ知らないのだ。
「使われた魔法の特定はすでに終わっているが、その凍死体はどこに行ったのか、わかってないんだよな」
アーネットは、課の発足直後に取り組んだ事件である事を思い出していた。まだ課の三人の足並みが揃い切っていない時期だ。
「ナタリーの情報網でも、わからないんだろ」
「ええ。政治家の汚職の証拠は三日で突き止められるのに、その凍死体がどうなったのかは、どれだけ調べても出てこない」
ナタリーは腕組みしながら言った。
「おそらく、魔法犯罪をどう扱うか決めあぐねていた時期に起きたせいで、当時の上層部が事件をもみ消したと見るのが妥当でしょうね。その後、何件も異常な事件が起こるようになって、ついに魔法の存在を認めざるを得なくなったけれど」
「今その凍死体があれば、色々わかったかも知れないのにな」
ブルーの説明によれば、凍結魔法にもいくつか種類があり、単に凍結するだけでその後は自然に融けていくものもあれば、一定の時間だけ氷点下で凍結し続けるものもあるという。この事件で用いられた魔法は後者であろうとブルーは推測した。
「つまり、ブルーの推測が正しければ、どこかの時点でその死体の凍結も解除されていたはずなんだよな」
「持ち去った人達が、その凍死体をどう扱ったのかが問題よね」
「過去といっても、たかが7年くらい前の事件だろう。真相を知ってる人間は、今も上層部にいるんじゃないのか」
アーネットに問われて、ナタリーは少しの間黙り込んだあと答えた。
「……今は、追及するのは難しいでしょうね」
「そうだな。けれど、何がきっかけで過去の事件が掘り起こされるかはわからん。この事件も、心に留めておくことにしよう」
これは魔法のミステリーというよりも、警察上層部の政治的ミステリーである。当時、誰がどういう判断を下したのか。死亡していた女性は誰で、犯罪があったとすれば犯人は誰だったのか。揉み消し工作があったのは間違いないが、隠したかったものは何だったのか。警察機構の問題である以上、うかつに手を出すのは危険かも知れない。
身内が何かを隠しているのは釈然としないが、そんなのは今に始まった事ではないと思い、アーネットはキャビネットにしっかりと、未解決事件のファイルを戻した。いつかこのファイルが再び開かれるかも知れない、と思いながら。




