(1)お手をどうぞ
五月もそろそろ終わりを迎えるその日のリンドンは、奇跡のような晴天に恵まれた。華麗なる産業革命がもたらした石炭スモッグも何の気まぐれか鳴りを潜め、郊外を越えなくては見られないような透き通った青い空を市内の人々は享受していた。
スウォード通りはカフェやレストラン、書店、雑貨店、菓子屋、パブなどがある比較的賑やかな通りで、訪れるのは中流階級が主であるため治安も良い地域である。その一角にある、一階がベーカリーになっている古いビルの2階は、少し前まで「占い舘カミーユ」として親しまれていた。
「ふんふふーん」
まだ占い舘の名残が見えるというか、実際には今もごくたまに占い舘として使われている部屋で一人の少女が、鏡の前で自分のファッションの完璧さを確認しながら鼻歌を歌っていた。明るめのワインレッドのワンピースにベスト、丸い帽子にはオレンジ色のリボンがあしらわれている。
「よし。完璧」
「楽しそうで何よりですね」
奥から、いつものように新聞を読みながら銀髪の女性が現れた。
「カミーユ、新聞読みながら歩くの危ないからやめた方がいいよ」
少女は回転するのを止めて、カミーユと呼んだ女性に向かって言った。
「そう思うのですが、人からうつされたクセほど抜けないものです」
「誰のクセ?」
「秘密です」
新聞紙をたたむとパタンとテーブルに置いて、カミーユは無造作に二二枚の占いカードの束を手元でシャッフルした。鮮やかな手さばきで、四枚のカードが選ばれてテーブルに四角形を形成する。内容は車輪の正位置、月の正位置、ドクロの逆位置、水瓶を持った女性のカードの正位置である。
「あら。ふふふ」
「何?」
カードを見ようと少女がテーブルをのぞき込むと、カミーユはサッとカードを隠してしまった。
「あー、何さ意地悪」
「知らない方が楽しい事もあるんですよ、ジリアン」
「死神のカードあったよね。チラっと見えたよ」
ジリアンの指摘に、カミーユは小さく笑った。いつも笑ってるよなこの人、とジリアンは思う。五年ばかり一緒に暮らしているが、そういえば怒った事ってあっただろうか。
すると、カラカラとドアベルを鳴らす音が聞こえた。
「あっ、来たかな」
ジリアンは玄関に向かい、ガチャリとドアを開ける。もと占い舘を訪れたのは、ジリアンより1㎝ばかり身長が低い、ショートカットヘアの少年であった。
「おはよー」
少年はそこそこ良い仕立てのブラウンのスーツで、左手を腰に当ててキリッと立っていたが、ジリアンの服を見ると、急に目を見開いて顔を赤くした。
「おはよう、アドニス君」
少女が名を呼ぶも、アドニスと呼ばれた少年は、惚けた顔でジリアンのファッションを眺めていた。
「あー、見とれてるな」
「ちっ、違うし!」
「何が違うの?」
ジリアンに迫られて紅潮するアドニスが目をキョロキョロさせていると、カミーユの存在に気がついた。
「あっ」
アドニスは、その銀髪を見てハッとした。先日、勤務先で話題になっていた女性が銀髪に染めているという話だったからだ。
カミーユは、優雅な足取りで玄関にやって来ると、アドニスに微笑みかけた。
「はじめまして。カミーユ・モリゾです」
ああ、この人が、とアドニスは思った。ミディアムの銀髪に黒いルームドレスと、あまり朝には似つかわしくないミステリアスなファッションだが、不思議と違和感がない。
「はじめまして。アドニス・ブルーウィンドです」
「お話はジリアンから聞いています。今日こうして会えるのを、楽しみにしていました、ブルー」
それはアドニスの、ふだん職場で呼ばれている通称だった。
「ジリアン、僕のふだんの呼び名教えたの?」
ブルーは訊ねた。
「あれ? 言ったかな。フルネームは教えたけど、魔法捜査課での呼び名は教えてないよ」
じゃあどうして知ってるんですか、とブルーは背筋が寒くなるのを感じた。
「あたしはアドニス君って呼びたいな」
「お任せします」
ブルーがそう答えるとジリアンは「ふふふ」と笑って言った。
「よし。じゃあアドニス君、さっそく私をエスコートしてちょうだい」
「は!?」
「は? じゃないわよ。あたし男の子とデートなんてした事ないもの。小汚いガキどもとつるんで、裏路地でケンカして回った事はあるけど。ほら、デートは男の子がエスコートするんでしょ」
何を言っているんだこの少女は、とブルーは思った。そもそも無理やりデートに誘ってきたのはジリアンである。エスコートしろ、と女性から命じられる時点で、すでにエスコートされている気分だった。
「楽しんでいらっしゃい」
カミーユはそれだけ言うと、新聞を読みながら奥に引っ込んでしまった。ブルーは魔法使いとして、もう少しカミーユと話したい事があったので、残念そうに肩を落とした。
「なあに? アドニス君、大人の女性が好みなの?」
「いやそういう話じゃなくて!」
「そうだよね、じゃあ、ほら」
改まった姿勢で、ジリアンはブルーを促す。ブルーは観念したのか、小さく咳払いしてジリアンに向き直り、左の掌をジリアンに差し出した。
「お手をどうぞ」
拍子抜けするほどブルーは自然体だった。ジリアンはその手を取り、ドアの外に出る。街の喧騒が階段や廊下に響き、いつになく爽やかな風が吹き抜けた。デートコースなど決まっていない。けれど、素敵な一日になることだろう、とジリアンは期待してブルーと一緒に階段を降りた。
これがジリアンとブルーが互いに一生忘れる事のない、デートのプロローグであった。ただし素敵であるかどうかは個人の主観に委ねられる、という注釈は必要かも知れない。




