(11)二人の魔法
「各市警へ送る電信には、逃走中の脱獄囚が危険な魔法を所持している事も明記しろ。例の、真空状態のトラップを使われる可能性についても注意を喚起するんだ。当然、拳銃や刃物の類を所持している可能性もある。メイズラント警視庁の責任において、射殺も許可する」
デイモン警部おなじみの、矢継ぎ早の指示が飛び交う最中、魔法捜査課の面々を中心として警官隊に魔法への対策が説明されていた。
「仮に例の魔法のペンが使われているとすれば、そのインクが尽きれば相手は魔法を失う事になる」
アーネットが警官隊に説明する。
「だが、魔法は要するに手段にすぎない。煙突掃除夫が煙突に詰められて殺されていたのは、煙突掃除が原因で仲間が死んだ事への復讐、当て付けだろう。しかし、人身売買業者の『悪魔』と呼ばれた男に対しては、その限りではないかも知れん」
警官隊は揃って頷く。
「そのうえで、魔法が使えるうちはそれを目的のために使うはずだ。逃亡直前には、滅茶苦茶な事をやるかも知れん」
「我々一般警官ができる対策はありますか」
警官の一人が、サッと挙手して訊ねた。他の警官も同調して頷く。
「例の『真空』トラップについては、さっきブルーがやってみせたように、松明を差し出すことで見分けが付く。松明が消えればそこがトラップだ」
なんだか科学の授業じみてきたな、と思いながらもアーネットは続けた。
「安全策でいえば、犯人がどこかに隠れているのを見付けても迂闊に近寄らず、多人数で包囲して退路を断つのが確実だ。基本的にはブルーの魔法に任せるべきだろう」
いきなり自分に犯人への対応を全振りされて、ブルーは憤りを隠さなかった。
「なんで僕に全部振るかな」
「お前に華を持たせようって言ってんじゃないか」
「いつもそれだ」
そのやり取りが面白いのか、ジリアンが脇でケタケタと笑う。
「笑ってるけどジリアン、この際君も魔法使いとして手伝ってもらうからね。僕らが面と向かえば、たかが二種類の魔法しか使えない奴らなんか屁でもない」
ブルーがそう言うと、アーネットが釘を刺した。
「可能な限り…いや、絶対だ。公共物や建物を壊すな」
「それは犯人に言ってよ」
「壊すな!」
はーい、と十代の少年少女は返事をした。どこまで自覚したかは不明である。
「よし、出発するぞ!今度こそ間違いなく、脱獄囚の身柄を確保せよ!」
「了解!!」
デイモン警部の号令で、魔法捜査課を含めた全員が、一斉に出発した。時刻はすでに深夜2時近くを回っている。あと2時間もすれば、空が白んでくる頃合いであった。
アーネット達魔法捜査課とデイモン警部ほか数名の警官は、二台の自動車で馬車組に先行する事になった。ちなみに外部の探偵であるジリアンは、何も知らない警官隊からは魔法捜査課の人間だと思われているようである。
デイモン警部の指示で、ブルーとジリアンはデイモン警部ともう一人の警官とともに、もと人身売買業者ゲルト・コニングの保護に向かう。アーネットとナタリーはその手前、チェスターフォード市で脱獄囚の捜索を引き受ける事になった。魔法捜査課が二手に分かれたのは、魔法を所持する脱獄囚がどこにいるか不明だからである。
「僕とジリアンが分散するべきじゃなかったのかな」
揺れる車中でブルーは、デイモン警部にそう訊ねた。警部は答える。
「わしも最初はそれを考えた。だが、こっちには自動車がある。連絡さえつけば、脱獄囚のもとへ即座に移動は可能だ。魔法のエキスパートが二人揃っている方が、より確実に犯人を捕らえる確率は高くなる」
「じゃあ警部は、犯人はすでにゲルト・コニングのいるマルターンに近付いてると思ってるの?」
「まだそこまで行ってはいない、と思いたいが、どこかで馬を盗むなりすれば移動はすぐに可能だろう。あらゆる可能性を想定して、先手を打つべきだ。ゲルト・コニングを相手より先に保護できれば、こちらの心配の種はひとつ減る。コニングの家で脱獄囚を待ち伏せして、一網打尽にする事もできるだろう」
ブルーとジリアンは、リンドンの人間ならみんな知っている老刑事の智慧を目の当たりにして、なるほどと感心するのだった。
だが、事態は実のところ、誰もが予想し得ない展開を見せる事になる。それは、デイモンたちの自動車がグリントウッド市内を過ぎ、チェスターフォード市に向かう短い街道に出た時の事だった。
「ねえ、あれ何?」
ジリアンが何かに気付いて、前方左手を指差した。街道横の草むらに、何か荷物のようなものが投げ出されている。しかし、それは荷物ではなかった。
「止めろ!」
デイモン警部の指示で、自動車は停止した。後ろを走っていた、アーネット達の自動車もそれに続いて停止する。全員が降りて、草むらにある何かを確かめた。
それは、血を吐いて投げ出されている男性であった。
「おい!」
アーネットは男の様子を確かめようと声をかけた。だが、すでにこと切れているのは一目でわかった。しかし、問題は男が死んでいる事だけではない。
「アーネット、こいつ脱獄囚だ!」
ブルーが言った。全員が驚いて、男性の顔を確認する。確かにその顔の特徴は、捜索中の脱獄囚の一人、エルマー・フラトンのものであった。
「どういう事だ…」
アーネットは驚きながらも、死体の様子を確認した。よく見ると、草がなぎ倒されている。どうも、道路の方から投げ出されたような姿勢だった。
「道路には新しい蹄の跡がある。馬で移動していたが、投げ出されたようだな」
デイモン警部は流石に冷静で、全体の状況をいち早く俯瞰して見ていた。確かに、道路には蹄の跡がいくつもある。警部は続けた。
「しかし、うっかり落馬したとしても、この柔らかい草むらに落ちて即死というのは考えにくい。おまけに、血を吐いているのはどういうわけだ?」
「何らかの持病を抱えていたという事もあり得ます。あるいは、もう一人に裏切られたか」
ナタリーが死体に近付いて様子を見た。だが、切られたり撃たれたりしたような外傷は見当たらない。
「裏切られたというより、捨てられたって感じだね。ちょっと失礼」
ブルーは死体のジャケットの内ポケットをまさぐった。しかし、押し込められた紙幣と数本の煙草以外は何も出てこなかった。
「アーネット、こいつ魔法のペンは持っていないみたいだ」
「ということは…」
「おそらくもう一人が、二本とも持っているってことだ。壁抜けの魔法と、真空を作る魔法を。こいつがどちらかを所有していたけど、捨てて行く際に魔法のペンだけは回収した、という事もあり得るよ」
「つまり、まだ脱獄囚…マシュー・アボットは復讐を諦めていないということだ」
アーネットはデイモン警部を見る。
「ブルー、ジリアン!わしらは当初の予定どおり急ぐぞ!おい、君たちはここに残れ」
警部の指示で警官二名が残され、エルマー・フラトンの死体を後続の馬車に引き渡す事になった。暗闇の中で死体と一緒にいるのも楽しくなさそうだな、とブルーは思った。
「レッドフィールド君、君たちもわしらに同行しろ!もう二手に分かれる余裕はない、全員でゲルト・コニングの保護を優先するんだ!」
警官二名を降ろした二台の自動車は、チェスターフォード市を通り抜けて”悪魔”ことゲルト・コニングがいる港町、マルターンへと近づいた。町はひっそりと静まり返っている。
当初は車の音で相手に気付かれないよう、町の入り口の前で自動車を停止させる予定だったが、今は保護が最優先だったので、ナタリーが掴んだコニングの自宅の住所へ、二台とも真っ直ぐに向かった。エンジン音で町民が起きてくれた方が、むしろ脱獄囚マシュー・アボットへの牽制にもなる。
ゲルト・コニングの自宅は、遊覧用のレンタルボート乗り場がある海沿いの通りから、坂を少し登った所にあった。隣に家がある以外は周囲に民家はなく、夜中は静かだった。警察の二台の自動車が、コニング宅の庭に乗り付けた。
「急げ!」
デイモン警部とブルーが先陣を切って飛び出し、玄関に向かう。しかし、アーネットはひとつの異変に気が付いた。
「待て!」
アーネットの声で、警部とブルーは立ち止った。
「どうした!」とデイモン警部。
「あれを」
アーネットが親指を向けた先には、番犬らしき犬が倒れていた。
「すでにマシュー・アボットはここに来ているようです」
状況からアボットは、犯行の邪魔になる犬を先に始末したようだった。
「ならば尚の事急がねば!」
「落ち着いて。ブルー、気流を読む魔法をかけてくれ」
アーネットに言われ、ブルーとジリアンは協力して、家全体に気流を読む魔法をかけた。虹色の霧が家を包み込む。
「やはりだ」
アーネットが危惧したとおり、玄関にはすでに真空魔法が仕掛けてあった。もしデイモン警部が飛び込んでいれば、死んでいたかも知れない。
しかし、玄関の真空魔法をブルーが解除して中に入った時、さらに恐ろしい光景があった。マルターン市警の警官二名が倒れていたのだ。電信を受けて先にコニングの保護に向かったものの、真空魔法のトラップにかかったものと思われた。
「これは…」
アーネットとナタリーが、杖を構えながら近付いた。脈拍を見たナタリーは首を横に振る。警官はいずれも死亡していた。
「くそ…奴はもう犯行を終えて逃げたのか」
アーネットがそう言った時だった。ふと、床に何か点々と続くものを見つけた。
「なんだ?」
杖の明かりを近づけると、それは血であった。血が点々と、廊下から階段を上がって、二階へと続いていたのだ。
「どういうことだ…」
「レッドフィールド君」
デイモン警部は言った。
「マシュー・アボットはおそらく、まだここにいる。真空のトラップを解除しなければ、自分が出られないからだ。裏口や窓から出たのでない限りはな」
警部の言う事はもっともだった。
「そして、血の跡は明らかに、誰かが吐血しながら移動している事を示している」
言いながら、警部は血の跡を追って二階へと急いだ。全員がそれに続く。
吐血の跡は、階段を上がって右手奥の部屋へ続いていた。真空魔法の罠は仕掛けられてはいない。
警部とブルーはゆっくりと近づき、目線で合図して一気にドアを開け、ブルーが杖を突き出した。
「動くな!」
杖の光で室内が照らされた。誰もが想像し得ない光景がそこにはあった。
そこは、寝室だった。シンプルだが高級そうなベッドが置かれ、その上には半身を起こした老人が、汗だくで胸を押さえていた。そして、ベッドの下の床には――――
「あっ!」
思わずブルーは声を上げた。
それは、吐血して倒れながらも魔法の杖を老人に向けている、脱獄囚マシュー・アボットの姿であった。
全く予想外の光景だった。状況から見て、アボットがこの家の住人であり復讐の対象、ゲルト・コニングを殺害しようとしているのは明らかだ。しかし、コニングは呼吸が荒く危険な状態には見えるものの、生きていて意識がある。
アボットが持っているのは、魔法のペンではない。杖だ。しかし、よく見ると何かがおかしい。
「はあ、はあ、はあ…」
アボットは呼吸がすでに安定しておらず、まともに動く事もできないようだった。
「マシュー・アボットだな。脱獄、殺人その他もろもろの容疑で逮捕する」
アーネットが、そう言って部屋に足を踏み入れた時だった。
「動くな!」
倒れている状態で、どこからそんな声が出せるのか、という声でアボットは牽制した。
「一歩でも動いてみろ…この…くそったれのジジイの命はない」
アボットの杖は真っ直ぐに老人、ゲルト・コニングに向けられている。しかし、なぜ今の今まで、アボットはコニングを殺害しなかったのだろう、とアーネットは不思議に思った。
だが、コニングの容態を見たアーネットは理解した。すでに、コニングに対しておそらく、真空の魔法が用いられたのだろう。だが、何らかの理由で魔法は不完全に終わり、コニングはギリギリで死ななかったのだ。それは、アボットが吐血している事と関係していると思われた。
「杖を降ろせ。もう遅いが、これ以上殺人を重ねるな」
アーネットは静かに言う。
「殺人を、重ねるな、だと?くくく」
アボットは脂汗がにじむ顔を向けて、憎しみのこもった笑いを見せた。
「このジジイがかつて、何人のガキを地獄に送ったか、知らんわけでもあるまい…だからここに来たんだろう、え?刑事さんよ」
その言葉に、アーネットは黙って杖をアボットに向けていた。
「よその土地からガキを買い付けては、ろくでなしの炭鉱夫やら工場経営者、煙突掃除夫やらに売り付け…みんな死んじまったんだ。俺の仲間たちも。肺をやられて、血を吐いてな」
その言葉は、ジリアンには重くのしかかった。目の前の連続殺人犯と、ジリアンは似た境遇にあったのだ。
「俺が殺した人間の数なんぞ、兵役で殺した原住民を除けば、こいつの足元にも及ばねえ…見ろよ、この心地よさそうなベッドを。俺の仲間たちは、石の床や岩盤の上で死んで行ったんだ」
「話は署で聞く。杖を降ろせ!」
アーネットは強く叫んだ。しかし、アボットは従わない。
その時、ブルーはアボットが構える杖の違和感の正体に気が付いた。杖の軸に何か見覚えがある。黒い艶を持つそれは、あの魔法の万年筆の軸そのものだった。あの万年筆の軸に、先端部を取り付けて杖の形状にしてあるのだ。
それがどういう意味を持つのか、この状況で考える余裕はなかった。
「あんたら、マジで凄いよ。よくここまで追ってきたと思うぜ…」
アボットは、今にも倒れそうである。コニングへの憎しみが、気力を長らえさせているようだった。
ブルーは、問答無用でアボットを魔法で倒してしまおうかと考えた。しかし、呪文を詠唱した瞬間に、アボットはコニングを今度こそ殺害するかも知れない。あの杖には何かがある。
そう思っていると、部屋に足を踏み出した人影があった。
「おっさん、もうそのへんにしときなよ」
それは、ジリアンだった。
「あたしも貧民街で生まれ育って、仲間が何人も死んで行った。大人を恨んでた…いや、今でも恨んでるかも知れない」
突然現れた年若い少女に、アボットは明らかにに動揺しているようだった。
「気持ちがわかるなんて言うつもりはないよ。でも、ひょっとして、あたしの死んだ仲間のうち何人かも、そこの爺さんが買い付けてきた子供だったのかも知れない。そう考えると、怒りは湧いてくるよね」
ジリアンの目は、ベッドの上のコニングに向けられていた。コニングは、祈るような表情で苦しい胸を押さえている。
「けどね」
ジリアンは言った。
「あたし、もう嫌なんだ。いつまでも、かつての薄汚い大人たちに心を縛られて生きるのは。あいつらを、心の中から追い出した時に、あたしはようやく自由になれる」
その言葉をアボットが聞いているのかどうか、ジリアンにはわからなかったが、ジリアンはそのまま続けた。
「憎しみ続けるって事は、そいつを心の中にいつまでも棲ませるって事だよ。あたしはそんなの、ごめんだ」
そう言うとジリアンは、手に持つ杖を床に捨ててしまった。
「ジリアン!」
ブルーが慌てて右手で杖を構え、左手でジリアンの手を握った。
「ひょっとしたら、あたしはあんたに同情してるのかも知れない。でも、もうやめなよ、って言いたい。話を聞いてくれる人は必ずいる。だから―――」
「うるせえ!」
アボットは叫んだ。
「お綺麗な寝言ほざいてんじゃねえ!憎んでるっていうなら、そこのジジイをお前が殺してみせろ!」
「……」
「できねえのか。できねえってんなら…」
アボットは杖をコニングに向けた。
「手本を見せてやるぜ―――!!」
アボットが何かを唱えようと唇を動かした、その瞬間だった。
ブルーとジリアンの身体が一瞬、青とピンクのオーラに包まれたかと思うや否や、ブルーが構えた杖の先端から一筋の眩い閃光が走って、アボットの杖を根本から粉砕した。
粉砕された杖の軸からは黒いインクが飛び散り、血しぶきのようにコニングが座るベッドのカバーを黒く染めた。
その隙を逃さずアーネットが飛び出し、マシュー・アボットの両腕を押さえてその場にねじ伏せた。
「マシュー・アボット!刑務所脱獄および連続殺人の容疑、および殺人未遂の現行犯で逮捕する!!」
その身柄はデイモン警部の前に突き出され、警部の手で手錠がかけられて、ついに事件の容疑者は逮捕されたのだった。
「ふぃー」
ブルーは、安堵のため息をついてその場に片膝をついた。ジリアンがその肩を抱きとめる。
「ごめんね」
「焦ったよ、ジリアンがあんなことするから」
「でも、あたしの意図を読み取ってくれたでしょ。嬉しかった」
ブルーとジリアンの会話の意味が、他の人間にはわからなかった。
「どういう意味?」
ナタリーが、ゲルト・コニングの容態を調べながら訊ねる。とりあえず、コニングは寝かせておく事で、医師が来るまでは持ちそうだとナタリーは判断した。
「ジリアンが魔法の杖を捨てただろ。あれは、僕と合体魔法を発動するための合図だったんだ」
「合体魔法?」
「難しい話じゃない。手を繫いで、魔法の瞬発力を倍増させただけさ。自動車のエンジンの気筒数が増えるのと一緒。もし一人で放ってたら、一瞬の差で間に合わなかったかも知れない」
それを聞いて、ナタリーは目を丸くしていた。
「あなた達、それを互いに何も言わないで実行したっていうの?」
そもそも、同時に同じ魔法を発動しなくては合体魔法は成立しない。それぐらい高度な技法なのだ。
「そりゃあもう、何たってアドニス君はあたしのカレシだもの」
「何でそうなるんだよ!」
「またまた照れてー」
ジリアンは笑ってごまかしているが、この二人の呼吸は本物かも知れない、とナタリーは思っていた。一朝一夕にできるような事ではない。出会うべくして出会った、という気がしてならなかった。まるで、誰かに仕組まれたようだ。
ともあれ真夜中の大追跡は、脱獄囚二名のうち一人が死亡、一人が重体で逮捕、警官に死傷者が出るという、壮絶な結果を伴いながらようやく結末を見た。
しかし、犯人が逮捕されてなお、事件は未だ解決していない謎をはらんでいたのだった。




