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【五日目】

 フローヴァンス滞在五日目の朝は、前日の豪雨が嘘のように晴れ渡り、ジリアンが玄関を開けると、まだ湿った土の匂いが一帯を包んでいた。家の近くにある巨大な柏の木の水滴が、朝陽を受けてキラキラと光っている。

「暑くなるのかな」

 澄み渡った空を見上げて、ジリアンは呟いた。カミーユの占いによると、この雨を境に気温は下がっていくという。


 だが、玄関のドアが叩き鳴らされ、先日の風雨が再来したかと思ったのは、カミーユ、ミランダと3人でクロワッサンの朝食をとっていた時だった。

「なんだなんだ」

 ジリアンが廊下に出ると、玄関の外から甲高い声が聴こえた。もうその時点で誰だかわかったので、確認もせずドアを開ける。立っていたのは天使を見たという少女3人組、ジネット、フェリシテ、メラニーだった。ジネットは今日は自慢のロングヘアを、ツインに結って両サイドに垂らしている。そういえば、丘にある古い農家が別荘だと伝えてはいたが、堂々とドアを叩くあたり、子供の行動力は凄い。

「おはよう。早いわね、どうしたの」

「ジリアンが遅いの!」

「こっちが急いだって、天使が出てくるとは限らないわよ」

 ジリアンが欠伸をすると、フェリシテとメラニーが立て続けに急き立てた。

「目撃情報!」

「空飛ぶ舟!」

 何の話だ。空飛ぶ舟?なんだかわからないので、とりあえず元気な3人組をテーブルに招いた。


 カミーユの事は話してはいたので、少女たちとカミーユはすぐに打ち解けた。もともとカミーユはプロンス人だが、育ちが都市だったせいか、ジネット達と対比すると、言葉の訛りがないのがよくわかる。ジネットはカフェオレをボウル半分ほど飲んだところで話を始めた。

「天使の話じゃないけど、空飛ぶ舟を見たっていうおじさんがいるの!」

「空飛ぶ舟ぇ?」

 ジリアンがミランダを見ると、やはり怪訝そうな顔をしている。


 ジネットによると昨日の午前、街に野菜などを卸している農家のジャッキーという男性が、雨に祟られながら荷車を引いて戻ってきた。家族ぐるみの付き合いがあるジネットの家で雨宿りしてもらった際、雨の街道で、真っ白に光る空飛ぶ舟に遭遇したのだ、と興奮ぎみに話したのだという。

「たまたま太陽が出たんじゃないの?」

 ジリアンはひとまず、常識的にそう推測した。だが、フェリシテは即座に否定した。

「きのうの天気覚えてるでしょ?ずーっと雨。お日様なんて出た時間なかったよ」

 それはそうだ、とジリアンもミランダも、ひとまず納得する。ミランダはテーブルのクッキーをひとつつまんでジネットを見た。

「それで、空飛ぶ舟をどこで見たんですか、その人は」

「この丘をはさんで、西側にある街道わかる?あそこを街に向かう途中に、石の橋がかかった渓谷があるの。その、橋をわたる前に遭ったんだって。ほら、これがおじさんの描いたスケッチ」

 ジネットは懐から、ガサガサのパンの包み紙に描かれたスケッチを見せた。東洋の水墨画といった雰囲気の谷間の上空に、舟というよりはスープの深皿のような、円形の物体が浮かんでいる。その説明を、クルミのタルトを切り分けて運んできたカミーユが興味深げに聞いていた。

「あそこは雨になると、すぐに氾濫するでしょう。よく無事でしたね」

「そこなの」

 右手でカミーユを指さし、左手で遠慮なくタルトをひとつ掴む。

「この、光る舟が空に現れたのにビックリして、橋の前でジャッキーは立ち止まったの。その次の瞬間、氾濫した川上から大きな枯木が流れてきて、橋にドーンと乗り上げたんですって!」

 大袈裟なジェスチャーを加えて、ジネットは見てきたかのようにまくし立てた。ミランダはまだ怪訝そうではあるが、話そのものは真面目に聞いていた。

「つまり、その空飛ぶ舟が現れてなかったら…」

「そう。おじさんは今ごろ、枯木に押し出されて濁流に荷車ごと流されてたかも知れない」

 ジネットは、テーブルにあったシナモンパウダーの小瓶を枯木に見立ててみせた。もしその話が事実なら、ジャッキーの前に現れたのは偶然なのか、それとも。ジリアンはミランダと顔を見合わせた。

「そういえば、その渓谷の向こうの街って、私達は通って来なかったよね」

 確認すると、カミーユは頷いた。

「はい。私達は港町からの街道を来ましたので」

「なんて街?」

「ボーノ市という、それなりに賑わっている街です。大都市ほどではありませんが、そのぶん景観も綺麗ですし、楽しいですよ」

 風光明媚な村もいいが、珍しい店がたくさんある街も見ておいていいでしょう、というカミーユの勧めで、件の渓谷を調査がてら、5人でボーノ市散策という事になったのだった。



 すでに街道の地面は乾いていたが、谷間を流れる渓流はまだ水が引いておらず、盛大に流れていた。大人でさえ足を取られたら、一瞬で流されそうな勢いだ。

「天使を探してたら、今度は空飛ぶ舟か」

「怪奇現象という意味では、まあ似たようなものかも知れませんが」

 ミランダは微かに笑みを浮かべつつ、視界の両側を占める渓谷を見上げた。メイズラント、ことにリンドン周辺では見られない景色だ。陽光は遮られ、風が吹き抜けて、丘の上に比べれば涼しいくらいだった。

「ボーノ市まではどれくらいなのですか」

「ここから、歩いて30分もかからないと思うよ。途中には街道にできた小さな村もあるし、そこで休める」

 子供といえど最年長のジネットは、土地勘もしっかりしているようだった。

「それにしても、ここは凄い土地ね。こんな切り立った渓谷、直に見るのは初めて」

 ジリアンは、谷を吹き抜ける涼しい風に身震いした。谷の上はすでに強い陽が照りつけ始めている。ジネットが振り返った。

「メイズラントに渓谷はないの?」

「少なくとも、私達の活動範囲にはないわね。北に行けば凄い景観の土地はあるようだけど」

 ジリアンは、リンドン市周辺の自然を思い起こしてみた。基本的には草原と、鬱蒼とした森や沼地が中心だ。ここまで起伏に富んだり、極端な構造の土地はほとんどない。

「毎日雄大な自然に囲まれていると、気持ちいいでしょうね」

「じゃあ、ここに住んじゃえば?」

 何気ないメラニーの一言だったが、ジリアンもミランダも、悪くないかも知れない、と考えているのが互いの目でわかった。

「そうね。住むかどうかはともかく、時々こうして来るのはいいかも」

「今度はいつ来るの!?」

「うーん、そうねえ。このへん、冬はどうなの?」

 何気なく訊くと、ジネット達地元3人組は一様に顔を強張らせた。

「冬は…」

「やめておいた方がいいかも」

 フェリシテとメラニーは、互いに頷き合うとジリアンを向いた。ジリアンもミランダも首をかしげる。

「なんで?」

「ほとんど家から出られなくなるくらい、雪が積もる日がちょいちょいあるから」

「ほんとに一体どういう土地なんだ」

 家から出られないほどの積雪。そもそも雪じたい、リンドンではほとんど降らない。年間を通して気温は低めで冬も寒いが、たまにパウダーシュガーのように街を白く覆う日があるか、という程度だ。逆に例外的に雪が積もる事があると、備えが出来ていないので交通はパニックになる。


 取り留めのない話をしながら風が吹き抜ける渓谷を進むと、くだんの石橋に差し掛かった。渓谷の真ん中を縫うように流れる幅6メートルほどの川にかけられた、頑丈な橋だ。両縁に立ち上がった木製の欄干の真ん中が損壊しており、細かな木片をほうきで掃いた跡がある。川をはさんで反対側には、農家のジャッキーが危うく激突の難を逃れたという、直径60センチメートルはありそうな枯木が押しのけられて固定されていた。

「村の人達が、とりあえず脇にどけたみたいね」

 ジネットは橋を渡ると、谷の上を振り仰いだ。雲が速い。

「あの辺りだね、ジャッキーおじさんが見たっていう空飛ぶ舟が浮かんでたの」

 ジャッキーのスケッチと、実際の風景を照らし合わせてみる。スケッチが正確なのであれば、どうやらその発光する空飛ぶ舟は、谷の中まで降りてきていたらしい。

「雷か何かを見間違えたって事はないの?」

 ジリアンが訊ねると、ジネットは首をぶんぶんと横に振った。

「私達もそう訊ねたよ。けど、ジャッキーは雷なんかじゃない、って言ってた。音もなく突然現れて、橋に乗り上げた枯木に驚いてる間に、やっぱり音もなく消え去ってた、って」

 フェリシテとメラニーも、そのとおりだ、と頷いた。ジネットと姉妹ではないメラニーは、ジャッキーがジネット宅を訪れた時はいなかった筈だが。

 ジリアンとミランダは、風になびく髪を押さえながら空中を睨んだ。もし、ジャッキーの話が真実なら、この石橋の上空に、光る円形の舟が浮かんでいた事になる。ミランダは訊ねた。

「舟、というからには、人が乗っていたのですか?」

 すると、3人の少女はハッとして互いを見た。フェリシテは、腕組みして首を傾げる。

「そういえば、そんなこと言ってなかった」

「それでも、ジャッキー氏はそれを舟だ、と思ったわけですよね」

「うん。ちょっとしたボートがすっぽり収まりそうなくらい大きく見えた、って」

「つまり、大きさは人が乗るのに十分だった、と」

 ミランダとジリアンは、なんとなく互いの考えがわかった。真実であれば超常的な現象ではあるが、もしそれが魔法によるよのであればどうか。

 仮に魔法だとすれば、それは容易に説明がつく。わずかな時間、空中に円形の光を発生させるくらいの事は造作もない。あるいは、幻覚魔法を利用する方法もある。

 だが、やはりそれもおかしい、とふたりは同時に考えた。仮にこのプロンスに、自分達と同じ魔法使いがいたとしても、雨が降りしきる中、都合良いタイミングでそんな魔法使いが居合わせ、ジャッキーの身に迫る危険を察知したというのは、あまりにも出来すぎている。

 何か奇妙だ、と思いながら、やがて一行は谷を抜け、ボーノ市へ向かう街道に出た。



 ボーノ市は市というにはやや牧歌的な雰囲気で、あまり背の高い建物も見当たらない、街路樹が目立つ美しい街だった。白樺やプラタナスが青空に映え、白や黄土色を基調とした建物が目立つ。

「シルド村より大きな建物が多いわね」

 ジリアンは1階がオープンカフェになっている、4階建ての古びたビルを見た。

「歩き通しで疲れたでしょ。少し休んで行きましょう。好きなものを食べていいわ

よ」

 ジリアンの申し出に、遠慮など知らない少女達は我先にと木陰のテーブルに陣取った。所持金に不安はないが、子供に何かをおごる大人はこういう気持ちなのか、と何となく財布の中身を確認する。


 陽がのぼり暑くなってきた事もあり、5人は蜂蜜入りのレモネードで喉を潤した。少し離れた席では、ハンチング帽の老人が午前中から、濁った緑色の酒に砂糖を入れている。ジネットに訊ねると、ニガヨモギを使った強烈な酒だという。ジリアンはメイズラント警視庁勤務の、酒好きの知己をひとり思い浮かべた。お土産に買って行ってやるか。

 この土地はなんだか、時間の流れがリンドンとは全く違うな、とジリアンは思った。リンドンは時間と、情報と、規則に支配されている。しかしこの南プロンスは、気候と同じように時間や行動のリズムが一定ではない。

「ボーノ市には、何か見ておくべき名所はあるの?」

 飲み干した細いグラスを置くと、ジリアンはプラタナスの向こうの町並みを見た。奥まったあたりに、尖った屋根が見える。

「あそこは教会かしら」

「うん。聖ブリュノー教会」

 フェリシテが即座に答えてくれた。

「1300年代に、聖職者だけど天文ですごい研究をした人の名前よ」

「研究って、どんな?」

「知らない」

 その清々しいまでに中身のない回答に、ジリアンは白い目を向けた。知らないが、すごい研究。その雑な説明で済むなら、リンドンでの仕事はどれほど楽になるだろう。そう思っていると、ミランダがわずかに身を乗り出した。

「面白そうですね。覗いてみましょうか」

「あんた教会とか好きだもんね」

 忘れがちだが本人いわく霊能力者であるミランダは、教会や墓地、廃屋といった、幽霊が出そうな場所が好物なのだった。


 聖ブリュノー教会は遠目には、真っ白な壁が眩しい、新しい建物に見える。だが近付くと、古い建物を塗り直しているのがわかった。柱や外壁の角は摩耗しており、古めかしいデザインからして、何百年も前からある教会のようだった。

 ミランダが黒光りする木製のドアを開けようとした時、全員が肝を悪魔に掴まれたように硬直した。音もなくドアノブが回転し、音もなくゆっくりとドアが開くと、ほっそりとした血色の悪いシスターが無言で顔をのぞかせたのだ。

「…当教会に御用でしょうか」

 その、高いのか低いのかわからない声色には力がなく、ウィンプルを被った下には、やや緑がかった長い金髪が見える。その顔は美しくはあったが痩せぎみで、まだ若いようだが頬骨が目立ち、透き通ったグリーンの瞳は森の奥の沼のような不気味さをたたえていた。一瞬本当に幽霊が現れたのではないか、とミランダは期待したが、いちおう生身の人間らしかった。

「け、見学で来たんですけど。私達ふたりはメイズラントからの観光客で」

 とりあえずそう言ったジリアンを、顔色に反して妙に鋭い眼光が捉え、ジリアンは一瞬身がすくんだ。

「それは遠いところから…どうぞお入りください」


 シスターの案内で通された礼拝堂は、外の真っ白な外壁に反して、年月を経て黒ずんだ壁や柱が外光を吸収し、薄暗く陰鬱な雰囲気だった。ミランダは無言だったが、彼女がひと目でここを気に入った事はジリアンにはすぐわかった。

「ここはどれくらい古いんですか」

 ジリアンが訊ねると、シスターは囁くような、呟くような声で語った。

「この土地の教会じたいは、1500年前まで遡ります…しかし800年ほど前に、最初の建物は戦火で焼失してしまいました」

「それでも800年の古さがあるわけだ」

 感心するように、ジリアンは古びた天井を見つめた。その歴史を考えると、陰鬱な雰囲気も神秘的に思えてくる。

 ふと振り返ると、ジネット達3人組は礼拝堂奥にある真っ白な聖母像や、陽光が差し込むステンドグラスに魅入っていた。本棚には子供に神父が読み聞かせる、簡略化された神話の本が並んでいる。ジリアンも貧民街時代、教会を訪れて神父の話を聞くのは好きだった。

「聖ブリュノーというのは、実在した人物なんですか」

「もちろんです。あの絵に描かれた人物です」

 シスターが示した壁の上縁には、何枚かの聖画が架けられていた。シスターが指差したのは右端にある1枚で、そこには青い修道服に身を包んだ黒髪の男性が、後光とともに描かれていた。背景には多数の星が描き加えられている。

「聖ブリュノーは数学、天文学の知識に長け、いま私達が用いているグレアム暦の前身である、ユーダス暦のずれを補正した事で知られています。聖グレアムが現在の暦の祖として知られていますが…実のところ、聖ブリュノーがいなければグレアム暦は生まれ得なかったのです」

「そうなの?」

 ジリアンのみならず、ミランダも驚いているようだった。シスターは相変わらず、テンポの遅い調子で解説してくれた。

「はい。聖ユーダスが聖暦50年ごろに生み出したユーダス暦は、1600年代前半まで用いられていました。ですが、聖ブリュノーはこの教会に務めていた頃、ある伝承と独自の計算に基づいてユーダス暦の大きなズレを指摘します。そのため、のちに異端派の誹りを受ける事となるのです」

「ある伝承?」

 ジリアンとミランダは、シスターの解説に何か不気味なものを感じた。そして、解説の続きにふたりは、背筋が寒くなるような戦慄を覚えた。

「はい。聖ブリュノーは、東の砂漠にあった4700年前の古代文明マハールの、『空から来た賢人』という神話に興味を持ち、その神話に高度な天文学的知識が含まれている事に気付いたのです」

 ジリアン達は一瞬、目を見開いて視線を交わした。それはカミーユの別荘にそっくり遺されている蔵書の中にあった、『海から来た賢人』という題と、不気味なほど似ているからだ。ふたりの驚きには気付かず、シスターは続けた。

「はじめ、ブリュノーはマハール文明の古代の神話が間違っている、と考えました。実際にその暦に基づいて太陽と星座の運行を計算し、聖ユーダスがいかに正しかったかを証明しようとしたのです。しかし計算を続けた結果、マハール神話に暗号のように隠された古代の暦が、現在のグレアム暦より400倍も精度が高い事がわかった、と彼は主張したのです」

 その主張は教皇庁の怒りを買った。異文明、異なる信仰が、自分たちより優れているとは何事か。ブリュノーは即座に神父の資格を剥奪され、その数年後アルコール中毒になって死亡した。

 しかし後に聖グレアムが、ブリュノーの研究を発見し、それに基づいて現在のグレアム暦を独自に編さんした。それは旧式の聖ユーダス暦よりも精度が高く、6000年ごとに1日ぶんのズレが出るものだった。

「聖グレアムはブリュノーの功績を高く評価しました。しかし、一度は破門にした者の功績を認める事は難しい事でした。そこで、ブリュノーがマハール文明の神話を研究していた事実は伏せられ、より正確な暦の礎を編み出した、と聖人認定されることになったのです」

「ちょっと待って。メイズラントで、聖ブリュノーなんて聞いた事ないわ。そんな凄い人がどうして、世界に知られていないの」

 ジリアンの疑問に、ミランダも頷く。だが、シスターの答えは簡潔だった。

「教会の面目を保つため、聖ブリュノーの名が表向きには無視されたのです。異なる信仰、ことに何千年も前の文明が、自分達より高度な知識を備えていた事を、教会が認めるわけにはいかなかったためです。聖ブリュノーの正確な記録は、この教会だけがひっそりと護り続けて今日に至ります」

 なんだか、聞いたような話だなとジリアンは思った。誰かの、何かの面目を保つために、ほんとうに功績があった者の名前は伏せられる。人間のやる事は、何百年も前から変わっていないらしい。

 そして、一連の解説は、ジリアンとミランダの興味を引いた。どうも古代世界には、自分たちの知らない何かがたくさんあるらしい。それはまるで遠い過去の何者かによって、事件現場に残された足跡のようにも思えたのだった。

 

 その後も、やはり口調はゆったりとしていて生気はないが、シスターは教会の沿革などについて説明してくれた。そして、せっかく遠くから来てくれたのだからと、貴重な収蔵品を見せてもらえる事になった。

「過去の火災で、どうにか焼失を免れた書物や絵画などです。劣化を防ぐため、ふだんは地下に保管してあります」

 シスターに案内されて階段を降りるごとに、太陽が照る地上とは打って変わって空気は冷たくなり、背すじがぞくぞくするほどだった。

「すごい!」

「地下があったんだ!」

 フェリシテとメラニーは驚いて壁や天井を眺め、反響する声を楽しんでいた。どうやら、地元の人間もあまり知らない空間らしい。

 シスターが最下段にある古びた板戸を外すと、その奥は雑にくり抜かれた空間の左右に棚が置かれ、まるで地下墓地のようだった。棚には丸められた古そうな羊皮紙や、紐で縛られた木箱などが積まれている。空間のいちばん奥には、木製の段の上に何枚もの古いカンバスが立てかけられていた。

「棚の書物にはお手を触れないようにお願いします」

 忠告を受け、手を伸ばそうとしたミランダは手を後ろに隠した。シスターはカンバスを1枚ずつ丁寧に抜き取り、壁に立てかけてくれた。過去の聖職者らしい古めかしい修道服に身を包んだ男性の肖像や、市政の人々の頭上に天使たちが舞い降りる様子などが描かれている。

「これらは千年近くも前の作品だと言われています」

 ランタンの黄色っぽい灯りで、絵の色味はややハッキリしないが、ジリアンの目には空を塗った青い塗料は、とても鮮やかに見えた。デッサンは近代の絵に比べるとやや素朴だが、これだけ見るぶんにはリアルだった。

「とても、そんなに古い絵には見えませんけど」

「はい。実はこれらの絵に使われた絵の具は、どういう素材なのか、今の技術では解明できていないのです」

「え?」

 ジリアンとミランダは、まさかという目を向けた。

「油絵の具ではないんですか」

「油絵の具が一般化したのは、ここ400年くらいの事です。それ以前の絵の具は、蜜蝋に顔料を混ぜた物が知られていますが、ここにある絵に使われた絵の具は異様に鮮やかで、成分がハッキリしていないのです。そのため、後世の画家は焼けた部分の復元ができず、それも地下にこうして放置されている理由だと言われています」

 シスターの抑揚のない声色と相まって、目の前にある数枚の絵に潜む何気ないミステリーは、不気味さを伴っていた。千年ばかり前の事が、わかっていないとはどういう事なのか。

 だがその時、ジリアンは修道士の絵の左に置かれた、古代の街を描いた絵に、目が釘付けになってしまった。

「…ちょっと」

 ジリアンはミランダの腕を肘でつついて、カンバスの上を指差した。

「これ」

「え?」

 何の事だ、とミランダは指差された部分を見た。街の人々がこぞって何かを話している、その上空だ。赤や茶色の屋根が並ぶ町並みの上に、何かが浮かんでいる。それは、光を放つ深皿のような、円形の物体だった。そしてその物体の上には、黒いローブを着た、何やら既視感のある謎の人々が、外界を見下ろしていた。

「これは…」

「空飛ぶ舟だ」

 そう、それはジネットの知人ジャッキーが、谷で遭遇したという謎の発光体そっくりなのだった。ジネット達も気付いたのか、驚いた顔でひそひそと話し始めた。だがジリアンはそれと同時に、物体の上に立つ人々の容姿が気になっていた。

「その人々は、宗教学者によれば、神や天使ではなく古代の聖人を表している、とされています」

 シスターの口調は、厳かさと不気味さの両方を漂わせていた。

「つまり、天に召され外界の人々を見守っているような?」

 ミランダの問いに、シスターは若干自信なさげに答えた。

「実のところ、はっきりとはわかっていません。そもそも千数百年以上前の世界は、信仰体系そのものが現代とは異質なもので、歴史家や宗教学者の間でも意見が分かれているのです」

「これが、『空から来た賢人』っていう事はない?」

 そのジリアンの唐突な仮説に、シスターは一瞬、かっと目を見開いた。そしてひと呼吸置いて、静かに語り出した。

「それは…遠い東の古代文明の神話です。私達の神話とは異なるものかと思われます」

「けど、古代の信仰はハッキリわかってないんでしょ?」

 ジリアンがそこまで言ったところで、ミランダが肘をつついた。信仰に関わる問題だから、あまり追及しない方がいい、ということだ。ジリアンはその意図にすぐ従ったが、シスターは、何か憑き物が落ちたような表情をしていた。

 そのときジリアンは何となく、その円形の光る舟に乗っている、長い黒髪の人物に、強い既視感を覚えた。何となく、ではない。間違いなく目にしている。だが、どうしても思い出す事ができなかった。


 その後、貴重なレリーフや古代の地図などを見せてもらい、シスターに見送られて5人は聖ブリュノー教会をあとにした。大声を出すのを我慢していたジネット、フェリシテ、メラニーの3人は、教会の敷地を出るなり、がぜん騒ぎ始めた。

「あの絵に描いてたの、光る舟だよね!」

「ジャッキーおじさんが見たやつ!」

「じゃあ、ジャッキーが見た舟にもあの黒い服の人達が乗ってたんだよ、きっと!」

 子供はストレートだな、とジリアンもミランダも思った。たかだか5歳か6歳ばかり年齢が上なだけだが、かつては自分達もこんな風に、純真に物事に驚いていたのだろうか、と。

 だが、ジリアンとミランダは、ジネット達とは別の意味で、あの古代の絵に描かれた謎の人物達が気になった。そして、ミランダが「あっ」と何かを思い出した。

「ジリアン。先程見た絵の黒衣の人々、似ていませんか。例の本の挿絵にあった、海から来た賢人達に」

「あっ」

 ようやくジリアンは、既視感の正体に気が付いた。そう、作家ジーン・メイヤーの蔵書にあった、シルヴァン・ド・ルービックという数学者、考古学研究家の著書で引用されていた、古代の人間に知恵を授けたという謎の『海から来た賢人』達に、不気味なほど似ているのだ。違いといえば、半魚人のような耳がなく普通の人間に見えることと、乗り物が発光している点だ。

「あの挿絵の賢人達も、深皿みたいな舟に乗って、海から現れたのよね」

「あまりにも似通っています。これが偶然だとは思えません」

 宗教学者なら、単に何らかの抽象的な、信仰を表したものだと説明するだろう。だがジリアンとミランダは、ジネット達のように、単純に捉えることで見えてくる真実もあるのではないか、と思い始めていた。

「カミーユに訊いてみよう」

「何か知っているとしても、答えてくれるでしょうか。あのカミーユの性格は知っているでしょう」

 やや敬意のほどが疑われるミランダではあったが、ジリアンも同意するかのように首を傾げた。


 その後、ボーノ市内を案内されたジリアン達は、公園でメイズラントでは知られていない球技に興じる人々を観察したり、シルド村でも見かけた舶来の怪しげな雑貨の露天商を覗いたり、メイズラントとはまるで違う空気を楽しんだ。ジリアンはメイズラント警視庁の地下室にいる3人組に、どんな珍妙な土産を買って行くべきかと、意地の悪い笑みを浮かべた。



 別荘に戻り、昼食のサンドイッチと魚介のスープを食べながら、ジリアンはカミーユに、件の『光る舟』について話してみた。カミーユはいつもの不気味に穏やかな笑みを浮かべ、興味深そうに聞いていたが、舟に乗っている黒衣の人物の話をすると、ふいにスープをすくう手が止まった。

「あなた達は、その人達がどんな存在だと考えますか?」

 それは回答というには投げっぱなしな内容だったが、まあカミーユだから仕方ない、とジリアンもミランダも諦めた。

「うーん。そっくりそのまま、絵のとおりの人達がいたのかはわからないけど」

 ジリアンは、サンドイッチの最後のかけらを口に放り込んだ。

「けど、何者かが遠い昔にいたのは、本当なんじゃないかな、って思う。伝承の元になった、誰か」

「海から来たのか、それとも空から来たのかは、わかりませんけど」

 ふたりの答えに、カミーユは満足そうに頷いた。

「自分なりに仮説を立てるのは良いことです。真実に辿り着くには、必要なことです」

「仮説が間違ってたら?」

「間違うことこそ、人間の愉しさです。最初から正解を知っていたら、面白くも何ともありません」

「なんかカミーユって時々、500歳くらいの魔女なんじゃないか、って思う事がある」

 そのジリアンの言葉が気に入ったのか、カミーユはテーブルに片手をついて笑い始めた。やっぱりわからない人物だ、とジリアンもミランダも首をひねった。その日の午後は、例のブドウ畑を任せる農家達がやって来て、来年どこにどう植えるかという議論に、土地の所有者であるカミーユも加わって、その後やっぱり夕食に招かれる事になった。食、食、食。ここにいると食べ物に困る事だけはなさそうだ、とジリアンには思えた。


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