【四日目】
【四日目】
フローヴァンス滞在四日目の朝、ジリアンは屋根を叩く雨音のドラムロールで目を覚ました。雨、などという凡庸な単語では表せない、それは沛然たる豪雨だった。
「どういう土地なんだ」
ベッドに上半身だけ起こしたまま、ジリアンはこの土地の気候の凄まじさに驚嘆した。全てを灼き尽くすかのような炎天、全てを引き千切るかのような暴風、そして今度は全てを押し流すのではないかと思える豪雨である。
玄関のドアを開けて、1秒もせずジリアンは後悔した。横殴りの雨風が、目覚めたばかりの顔を叩く。慌ててドアを閉じると、おとなしくキッチンに向かった。
キッチンでは相変わらずカミーユが、コーヒーを淹れて寛いでいた。
「おはよう」
「おはようございます。よく眠れましたか」
それは間違いない。リンドンにいる時より、睡眠はとれている。事件に追われる日々とは違うし、自然に囲まれていると、生命のリズムのようなものが実感できる。
「今日は雨なのかな」
ジリアンが窓の外を睨む。遠くで空が光り、数秒経って唸るような低音が響いてきた。フライパンを準備しながら、カミーユは微笑んだ。
「日中は止まないでしょう」
「お出かけは無理か」
「出かけられなくとも、出来る事はありますよ」
カミーユが卵を焼き始めたタイミングで、ミランダが半開きの目で降りてきた。
「おはようございます」
「同じ時間で倍くらい眠ったような顔ね」
ぼさぼさの髪を見てジリアンが笑うと、ミランダは面白くなさそうに杖をひと振るいした。寝ぐせは一瞬で整えられたが、目は半開きのままである。
「今日はさすがに、あの元気な三人も外に出る勇気はないか」
ジネット、フェリシテ、メラニーの少女三人組をジリアンは思い浮かべた。前日の別れぎわに、遊びに来てもいいよと言っておいたのだが、この雨では来そうにない。
トーストをかじりながら、ジリアンはカミーユに訊ねた。
「カミーユ、そういえば一人で何してるの?読書?」
「近いものはあります」
どういう意味だ。読書は読書ではないのか。カミーユがたまに抽象的なのはわかっている事なので、ジリアンもミランダも特に何も言わなかった。
「手紙はこの間アドニス君に書いたしな。アドニス君っていうか、実質魔法捜査課あてに」
「詩でも書いたらどうですか」
「あたしが?」
ミランダの目をまじまじと見て、ジリアンはケラケラと笑った。詩人ジリアン・アームストロング。ないない、魔法捜査課のアーネット・レッドフィールド巡査部長が酒をやめるのと同じくらいあり得ない。
「読書かな、これは。さいわい、読んでも読みきれないくらいの蔵書だしね」
改めてこの家の元の持ち主で故人、メイズラント出身作家ジーン・メイヤー氏の書庫に足を踏み入れる。様式も何もない雑然とした家の外観からは想像もできない、ぼう大な量だ。
「何か、件の天使の話につながる、過去の記録みたいなものも、あるんじゃないですか」
背は低いが分厚いハードカバーが並んだ棚に手をふれ、ミランダが言った。
「民話とか?」
「そういうのもあるでしょう。あるいはもっと直接的な、たとえば新聞記事みたいなものも」
「ナタリーがいれば一発で探してもらえたのにな」
ジリアンはリンドン警視庁の魔法犯罪特別捜査課勤務、ナタリー・イエローライト巡査を思い浮かべた。まだ20代前半だが、もと情報局員で、魔法も使えるという異色の女性だ。ナタリーの情報分析魔法は、ジリアンもミランダも及ばない。本や紙の束の中から、必要な情報が記録されたものを魔法で検索して突き止められるのだ。
「ナタリーの魔法ってさ、ちょっと変わってるよね」
ジリアンは”奴隷制度から見た世界史”という本を手に取った。
「変わってる、というと」
「あんな文字列を検索する魔法なんて、習わなかったじゃない」
「…たしかに」
何かの図鑑をめくっていたミランダの手が、ふいに止まる。
「というより、私にもできないよ。ミランダ、あんたできる?」
「…できません」
やや苦々しそうに、ミランダは呟いた。ジリアンもナタリーの検索魔法を真似てみた事はある。リンドン市内の図書館でだ。だが、検索した文言と多少近いか、もしくは全く見当違いの文章に当たっただけだった。
「そもそも、言っちゃ失礼だけど、アーネットもナタリーも、魔導師としてはそこまでレベルは高くないじゃない」
「まあ、そうですね」
「けど、アーネットはアーネットで、魔法を使っても簡単に解き明かせない事件の謎を、ほとんどカンで突き止めたりするでしょ。あれは単なる刑事のカンなのかな。それとも」
ジリアンとミランダの間に、わずかに沈黙が流れる。そう言われてみれば、なぜカミーユのような魔法のエキスパートではなく、アーネットやナタリーのような人物が魔法捜査課に選ばれたのか。課の創設には、メイズラントの魔女が関わっていたらしい、という話もちらりと耳にはさんだ。
沈黙を破ったのはミランダだった。
「…少なくとも、魔女が間違った選択をする、とは思えません」
「つまり、アーネットもナタリーも、理由があって配属を薦められた、ということ?魔女から」
そこまで言ったところで、二人は心臓が口から飛び出るかと思った。ジリアンが本を抜き取った棚から、1冊の厚い本が床に落ち、したたかに背表紙を打ちつけ盛大な音を立てたのだ。
「うわっ!」
ジリアンは何事かと反対側に飛び上がり、ミランダも顔を引きつらせて心臓に手を置いた。
「本を抜くときは他の本にも気をつけてください、ジリアン。これが市の図書館だったら、司書さんからこっぴどく言われてる所ですよ」
「はいはい」
仕方なさそうにジリアンは本を拾い上げると、何気なくそのタイトルを読み上げた。
「”海から来た賢人”」
「何ですか、それ」
ミランダも、興味深げに覗きこむ。表紙は革張りだが、装丁は素っ気ない。ふたりは、そのタイトルが気になった。
食堂に降りると、ジリアンとミランダは淹れたコーヒーを魔法で冷やし、並んでその本を読み始めた。窓の外は相変わらず大雨である。
本の著者はシルヴァン・ド・ルービックで、プロンス出身の数学者であり、考古学研究者でもあるらしい。序文の書き出しはごく普通といえば普通の、考古学系の本によくある感じの内容だった。文明の起源とは。先史時代から古代へ、どう移行したのか。だが序文の締め括りに、ふたりは何となく背筋が寒くなるものを感じた。
『我々は、我々の祖先が数千年前、文明の母体を築いたと信じている。だが数学者の立場から古代の建築に秘められた知識について研究するうち、私は我々自身の過去が、不透明であり、不可解であり、そして薄気味悪いものに思えてきた』
『我々の記憶は確かなのか?我々は何万年か前ようやく土器の製造を覚え、また何万年かして青銅器という効率的な人殺しの道具を手にし、さらに数千年経って銃や爆弾という、最新の人殺しの道具を手にした。我が国ではつい数十年前、悪逆非道の貴族どもの首をはねる際、処刑人の腕が千切れないようにという”人道的”配慮のもと、ギロチンが誕生した』
『だがオアフカ大陸などにある、数学的に見ても精巧な石積みの古代遺跡は、私にはどうしても、銃やギロチンといった”発達した”発明と結びつかない。両者が、同じ人類、文明によって生み出されたとは思えないのだ』
『我々人類文明の”母”は、ほんとうに血のつながった、実の母なのだろうか?』
文明。そのようなレベル、規模で物事を考えることは、10代の少女には難しい。まして、今に連なる文明の起源など、ホコリだらけの都市で矮小な人間の犯罪を追う毎日で、気に留めろという方が難しいだろう。
だが、そこでほぼ同時にふたりが思い起こしたのは、あの森で出会ったマチュー老人の、天使から聞かされたという古代の出来事についてだった。洪水で滅びゆく人々に、救いの手を差し伸べたという伝説の賢人たち。そして、いま開いている本の題名は『海から来た賢人』である。
「海から来た、ってどういう意味でしょうか」
ミランダは、やや年季の入った表紙の題名を指でなぞった。
「まるで、一部の魔女コミュニティに伝わる、”オアンヌ”みたいですね」
「ああ、半魚人?絵本でもあるよね」
ジリアンは、だいぶ遅まきながらカミーユに読み書きを教わった頃に読んだ、子供向けの絵本を思い出していた。絵本のオアンヌは海から現れ、子供たちと出会い、子供たちに海の底の国の話や不思議な知恵を教えて、子供たちが青年になる頃には姿を現さなくなる、という物語だ。
「ひょっとしたら児童書の原典ともいうべき、何らかの伝承があるのかも知れません」
「なるほど」
がぜん興味がわいてきたジリアンは、カミーユのおかげで身に付いた文章の読解力に感謝しつつ、ミランダと一緒に続きを読み進めた。
『海から来た賢人』の最初の章では、主にオアフカ大陸の東側にある、精巧な石組みの遺跡群についてのミステリーから語られていた。
ピラミッドと総称される、現在までに78基発見されたそれらの中でも、ひときわ巨大で形が整った3基のピラミッドがある。それは本の著者ルービックによると、ただの観光客や、数学の知識がない考古学者や歴史科にとっては単なる巨大な構造物だが、数学や建築を学んでいる者にとっては、「存在する筈がない」異様な遺物なのだという。
「ジリアン。メイズラント警視庁の横にある合同庁舎の基礎の、タテヨコの誤差が0.1パーセントあったとして、気付くと思いますか」
「それってどれくらい?」
「そうですね。基礎の東西と南北それぞれの面の長さが、5センチから6センチメートルばかり違っていたとして、気になるから建て直そうとなるか、ということです」
そう言われてジリアンは、南北に80メートル、東西に50メートルほどの庁舎を思い浮かべた。数字にするとそこまで大きなものでもないが、目の当たりにすると威容といっていい巨大なビルディングだ。
「そもそも気付かないんじゃない?」
タイル1枚ほどもない寸法の狂いに、気がつく者などいない。実際測ってみれば、長方形の敷地の寸法のうち、たぶん何十センチかは狂っているのではないか。
「そうです。1パーセント程度の狂い、誰も気にも留めません。逆に、そのレベルの狂いを直そうとするなら、たいへんな予算を組んで、超ベテラン級の測量チームを編成する必要があるでしょう」
「そんな予算組むくらいなら、もっと他のところに回すわね」
「そうです。ところが」
ミランダは、ペン画によるピラミッドの図解を指した。
「オアフカにある最大のピラミッドは、1辺が230メートルもあるのに、基礎の誤差が東西南北全てで、0.1パーセント以下。角の直角も、現代の測定器では狂いが検出できないほど完璧なのだそうです」
「それって凄い事なの?」
「測量チームに回す予算だけで、ちょっとしたビルディングひとつ建てられるでしょう」
その喩えに、ジリアンは眉をひそめた。
「なんでそんな無駄なお金かけたわけ?古代の人は」
「ジリアン。問題は予算じゃありません。それほどの高精度な測量や建築が、どうして何千年も前の文明によって実現できたのか」
「あっ」
いままで気にも留めなかった事実に、ジリアンは目を瞠った。
「この巨大ピラミッドが建てられたのは、今から4400年前だとされています。その頃に、今の学者や職人でさえ怯むような高精度の建築を、難なく達成している。精度だけではありません」
「なに?」
「このピラミッドは、高さと底辺外周が、円周率の関係にあるそうなのです」
「あっ、わかんない。そういうレベルの話になると。帰ってからアドニス君と好きなだけ問答して。あたし横で聞き流してアイス食べてるから」
ジリアンが大袈裟に耳をふさぐと、ミランダは若干白い目を向け、ごく小さくため息をついた。
「この程度、探偵なら理解してください。少なくとも現代に較べれば、まだ未発達だったはずの時代の人々が、なぜ円周率のような計算ができたのか、不思議だとは思いませんか」
「円周率ってそんな大変なものなの?」
「少なくとも今の近似値、およそ3.141592くらいが正式な値として認められたのは、せいぜい200年くらい前のことです。それまでは3.16だったり、3.125だったり、円周率を弾き出す計算方法じたいが確定していませんでした」
なるほど、と一応頷いておきつつも、ジリアンはごくシンプルな質問をした。
「それが、その海から来た賢人、って題名と、どう繋がってくるのよ」
「それは読み進めて行けばわかるでしょう」
まあそうなんだろうな、とジリアンも思うが、どちらかというと小説の方が読み慣れているジリアンにとって、こういう学術的、人文学的な内容は、なかなか理解するのに努力を要した。
シルヴァンという名の著者はもともと数学者で、古代世界になぜ、現代に匹敵する高度な天文学、数学の知識が存在したのか、と問いかける。なかでも興味深いのは、「歳差」と呼ばれる現象についてだった。
「春分の日の朝、太陽が魚神宮を背景に昇り始めたのは、今から1800年ほど前なんだそうです」
ミランダの解説を、本の内容に少しずつ興味が湧いてきたジリアンは黙って聞いた。魚神宮とは、太陽が通る道の背景となる12の星座のひとつである。
「私達がいる地球の回転軸は、公転面に対して23度ほど傾いていて、さらにコマの脚のようにわずかにブレているため、少しずつ朝日が昇る位置もズレていきます。黄道12星座の宮をひとつズレるのに、約2160年必要になる計算です。わかりますか」
ミランダに真剣な顔を向けられ、ジリアンはその10倍くらい真剣な顔で、首を横に振った。ミランダは眉間にシワをよせてながら話を続けた。
「ものすごく簡単にまとめると、つい最近の天文学者や数学者が解き明かした天文学知識とその数字が、なぜか古代世界の神話や遺跡に現れるのだそうです」
「たとえば?」
「メイズラントの北、ベイルランドの先住民族の伝承には、『12の神々に率いられた部隊の
総数は25920にも及ぶ』という伝承があります」
そこまで説明されて、ジリアンもやっと飲み込めたようだった。
「ひょっとして、2160に12をかけると」
「やってみましょう」
ジリアンは苦手な計算を、ミランダの助けもあって何とか紙に展開してみた。すると、2160に12をかけた結果、まさに25920という数字が得られたのだ。
「つまりこの数字は、歳差によって太陽の背景の12星座が一周する年数?」
「お見事です。そのとおり」
「そんな情報が、どうして何千年も前の民族伝承に出て来るわけ?」
二人が黙り込むと、薄暗い室内に不気味な沈黙が訪れた。ミランダは、窓をつたう雨水を見つめながら静かに言った。
「古代世界には私達の知らない何かがあった。そう理解するよりありません」
そのあと買っておいた砂糖がけのパンなどで小休止して頭を休めつつ、世界中の不可思議な遺跡や伝承の、著者にいわせれば「かいつまんだ」、そしてジリアンにしてみれば難解至極この上ない紹介が終わったところで、いよいよ本題と思われる、「海から来た賢人たち」という章に入った。
導入では、ジリアン達も子供の頃から親しんできた、おとぎ話レベルの半魚人の民話が紹介された。だが、何ページか進んだところで現れた挿絵は、窓の外の陰鬱な空とあいまって、ジリアンとミランダの背筋をひやりとさせた。
それは何とも形容しがたい、まるで東洋の料理鍋のようなすり鉢状の円形の船から、ぞろぞろと黒いローブをまとった七人の、奇怪な風貌の人物が陸に上がってくる様子のペン画だった。その人々は、まっすぐな長い黒髪の人物を先頭にして歩いていたが、手には錠前のようなこれまた奇怪な物体を提げ、耳はまるで魚のヒレのように後方に向かって張り出している。
『この絵は中世の無名の小説家が自作のため、やはり無名の友人の絵師に描かせた挿絵だ。だが小説という体裁でありながら、その内容はほとんど事件の報告書である』
『この小説家には、情感あふれる小説の文才はないようで、無名で終わったのも納得できる。だが、ルポライターとしては優れていたようだ。なぜなら、これは作家が序文でことわっているとおり、各地の民話を丹念に取材し、驚くほど詳細にまとめられた”海の賢人”についての伝承の総集編だからだ』
容赦のない作家評を交えつつ、さらに続くルービックの文章は、ジリアン達に軽い衝撃をもたらした。
『作者によれば、この海から来た謎の賢人達は、大災害で滅亡しかけていた我々人類に、救いの手を差し伸べたという』
『人類は大災害で全てを失い、ほぼ原始時代に逆行しかけていた。だが、そんな彼らに賢人たちは、農作、調理、保存、暦、天文学、法律、建築など、あらゆる知識を教えたという』
『この作者の小説を仮にそのまま受け取るのなら、今の我々の文明の基盤は、”海から来た賢人”によってもたらされた、という事になる』
あくまで小説、作り話だと強調されると、逆にジリアン達は奇妙な現実感にとらわれた。現実をもとにした架空の物語だって、世の中には存在する。又聞き、伝聞だって、その大元の情報があるから成立するのだ。
挿絵の下部には、描かれた賢人達についての解説があった。
“大賢人ゼマに率いられた賢人達”
ゼマ。それが、この先頭に立つ、ほっそりとした黒い人物の名前のようだ。小説の挿絵である以上は、作者が創作した名前や外見なのかも知れないが、伝承における名前を改変している可能性もある。
このとき、なにかジリアンたちの脳裏に引っかかる既視感があったのだが、それが何なのかは思い出せなかった。ほどなくして、この雨の中外出していたカミーユが一滴も濡れることなく帰宅し、早いけれど昼食にしようと言い出したため、読書はそこで中断となった。
結局その日は大雨で、家から一歩もでることなく、昼寝と読書で過ぎて行った。




