発想の転換
本日2話めです。
長女ちーが小学3年生のとき、一向に登校の不安が解消されないことを憂慮して市の家庭児童相談室に電話で相談しようとしたところ、
私 「不登校の子がいるのですが…」
相談員「普段行ってる小児科に行ってください」ガチャ!!
をやられてしまった。ウソみたいな本当の話。
途方にくれて近所の小児科の口コミを探してやっと見つけた心理カウンセリングをしてくれる小児科は2か月待ちで…。
学校でもらった社会福祉法人の児童家庭支援センターのチラシを思い出して泣きながら電話をして
私(鼻水ズルズル)「場面かん黙で不登校の子がいるのですが…」
相談員さん「お母さん大丈夫ですか?大変でしたね。少しうちの専門とは違うかも知れませんがご相談にのりますよ、一度お越しください。」
と優しく返答いただき、一週間後、お時間をいただいて相談にのってもらうことができた。
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『児童家庭支援センターのセンター長さん』のお言葉
ある学校から相談を受けました。とても優秀で真面目な生徒がいましたが、ただ一つだけ出来ないことがありました。彼は『座って食事ができない、食事だけは立ったまま食べる』そうです。
「どうすれば彼は座って食事が出来るようになりますか?」
と聞かれたので、僕は
「立ったまま食べることを認めてあげればいいんじゃないですか?」
とアドバイスしたんです。
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このお話を聞いたとき、目からうろこ鼻から鼻水が止まらなかった。(私は泣くとき涙ではなく鼻水が出る。)
一般的、平均的な『普通の人』であれば守れる『こうありなさい』というルールは、少数派の人には守ることが出来ない厳しいルールであったりする。
コロナのせいでマスク必須の世の中になったとき、感覚過敏などの理由で『マスクをつけられない人』がいることが話題になった。
ひとくくりに『マスクをつけられない人』といっても、
頬や鼻にマスクが触る感覚が嫌な人。
耳にひっかける感触が嫌な人。
マスクの中の匂いが嫌な人。
顔の回りに湿った生暖かい空気がまとわりつくのが嫌な人。
など、それぞれ理由が違ければ対処法も変えなければならない。
この少数派を切り捨てるのか、最善の策は思い浮かばなくても心に添って共に悩むのか。
ちーが不登校、同伴ステップ登校になったとき、批判する人、手を差し伸べてくださる人どちらにも出会ったけれど、どちらがありがたかったかなんて言わずもがなである。
ちーが5年生になった始業式の日、教頭先生と新たに担任となったU先生が少し相談のお時間を作ってくださって、
「今まで学校生活で見かけていて、何とかしてあげたいと思っていたんです。細かいことでもいいので何でも相談してください。」
と、とてもありがたく頼もしいお言葉をかけていただいたので、さっそく
私 「進級あるあるの『自己紹介』が不安なようなのですが…。」
U先生「大丈夫です、話せなくてもできる方法で『自己紹介』しますから。」
私、ちー「??」
その後の学活の授業にて
U先生「ではこの紙に『私はこれが好きです』『将来の夢は○○です』『さあ、私は誰でしょう?』と書いてください。」
私 (おおっ!?)
皆が書いた自己紹介の紙を先生が読んで、「さあ、私は誰でしょう?」と質問すると、子ども達は楽しそうに手をあげて
「○○君!!」
「△△さん!!」
と当てていく。
田舎の小さな学校で1学年50人位だから5年生にもなれば皆お互いをよく知っているんじゃないかと思いきや、『ハズレ』が多くてなかなかおもしろい。
U先生「『私』はピンクが好きです。夢は甲子園に行くことです。さあ、『私』は誰でしょう?」
○君 「ちーさん!!」
U先生 「ちーさんが甲子園目指しちゃう?」
クラス 「www!!」
皆とっても楽しそうだった。
U先生のすごいところは、ちーのような不安が強い子でも、多動のような落ち着かない子でも、『普通の子』でも皆が楽しめるように工夫してくださるところ。
よくHSPのニュースに対するコメントで
「自分だけがかわいそうで大変だからと周りに配慮を求めるな」
という意見があるけれど、ほんの少しの工夫や発想の転換が、HSPだけでなく『普通の子』たちの「ちょっと嫌だな」も救ってくれるのだ。
既存の『こうあるべき』ではなく、『こうしたら誰でも楽しめるんじゃないかな』と発想の転換を、出来ないことを受け入れる寛容さを社会が持ってくれたらHSPだけでなく、『普通の子』でも持っている苦手や不安も救ってあげられるんじゃないかな。




