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観月君と陵雲君 / 流行り病

作者: 水色


〈観月〉

やあやあ、相変わらず元気そうだな。

安心したよ。


〈陵雲〉

やあ、よく来てくれた。

君こそ以前にも増して元気そうじゃないか。

意気いまだ衰えず、と言ったところだな。


〈観月〉

意気か。

まあご覧の通り、息災だ。

ところで、いまだ衰えず、と言えば

どうやら目下のところ、例の疫の病の流行も

終息したとは成らないようだ。


〈陵雲〉

なんだい、だしぬけだな。

流行り病がどうしたなんて、君にしては

珍しい話の種だ。


〈観月〉

今、ここへ来る途中の理髪店にて

話題となっていてさ。


〈陵雲〉

なんだ、散髪屋へ行った帰りか。

そう言えば、今日はまた随分となりが麗しいぜ。

また喜多床かい?

(※喜多床:明治四年、文京区本郷にて創業の理容店。

現在も渋谷にて営業中)


〈観月〉

うむ。

浮世話の多岐に渡る事と言って

およそ理髪店を凌ぐ場所はあるまいよ。

皆、盛んに話をしておって

いきおい、こっちも暫し釣られて

ほうほう、そうかそれで、と

方方へ相槌を打っておったら、

店のおやじに、じっとしておるように

咎められた。


〈陵雲〉

ははは。

散髪屋に話の種は尽きまじ、と言ったところか。

(※世に盗人の種は尽きまじ/石川五エ門、辞世の句より)

僕は君も知っての通り、巷の事情には疎遠でね。

それでその後、事態の様相はどのようだい?


〈観月〉

いまだ些かの猖獗しょうけつを止まずして、

万事平穏無事たる情勢に至らず、

と言ったところさ。


〈陵雲〉

ふん。

征露の祝いに浸ろうかという時節まで

(※征露:日露戦争戦勝記念の日本の私年号)

台無しにしてくれるじゃないか。

兎角、悩みが絶えない所へ持ってきて

流行り病にまで心を悩ましてなどおられない。


〈観月〉

君が悩みと親しき仲とは思えないが、

いったいどんな悩みが進行中だね?


〈陵雲〉

まあいつも通り、大方は金策だ。


〈観月〉

ああ、それならこちらも同様、

永年に渡り、親睦の栄を得ているがね。


〈陵雲〉

話は戻るが、さっきの話。

なにか解決法は無い物か、

我々でひとつ思案してみようじゃないか。


〈観月〉

いいね。

広範に造詣深き君のことだから、

なにがし存ずる所あらば教授願いし候さ。

僕は巷の話題は大概、承知しているけど

医学のことなどにはまるで疎くてね。

なにか快刀乱麻を断つ閃きは無いかい?


〈陵雲〉

うむ・・・。

無いな。


〈観月〉

あっさりしたもんだな。

思案はどうした。


〈陵雲〉

いや、やはり面倒だ。

それにこれは、つとに思っていた事だが、

これからの我が国の未来は若い者に譲ろうかと

思う。


〈観月〉

いきなり、そう来たかい。

譲るも何も、そもにして我等は然程のものを

任された覚えもないぜ。

第一、まだそんな歳でもないだろう。


〈陵雲〉

いやあ、もう充分に生きたさ。

そろ、次の世代に対し、

然る責務を背負うべく促す必要もある。

流行り病が我が身を侵食するなら、

好きにするが良いのだ。


〈観月〉

そうは言いながらも、いざ、罹ったと成れば、

そうも言って居られまいよ。


〈陵雲〉

それはそうさ。

今のは暇人のほんの戯言に過ぎない。

いざとなれば、それは命をとして戦う心づもりでいる。

こう見えても喧嘩を売られて引いたことはないのだ。


〈観月〉

なるほど、仕掛けられた喧嘩か。

まあしかし、病はつらいね。

我々、人類はこの戦に勝てるだろうか。


〈陵雲〉

病というのは、そう、

勝つか負けるかは時の運で、仕方無いと諦めるさ。


〈観月〉

潔いな。


〈陵雲〉

けだし我が輩の所見にて、

(※福沢諭吉『学校の説』の一文より)


〈観月〉

ほう


〈陵雲〉

芝の大明神の、あらたかなる霊験をもってすれば

(※芝区愛宕町にあった伝染病研究所。

現東京大学医科学研究所。初代所長、北里柴三郎のこと。)

流行りの病など物の数ではない。


我、そを欲し奉り候えば

疫病、立ち所に退散し

臣民あまねく、利益を賜りし候


〈観月〉

語弊を振る神主の趣だな。


〈陵雲〉

後は野となれ山となれ


〈観月〉

今度は、生臭坊主の体だ。


〈陵雲〉

まあどの道、我等は運と気力で

生きている。

なるようになれ、さ。


〈観月〉

怯む事なく戦って死ぬなら、

我が本懐これに勝るものなし、だね。


〈陵雲〉

うむ。

戦う事それ自体に意味があるのだ。

それが人間と言うものだろう。


〈観月〉

言われれば、病人というのは、

まさに戦い続けているのだなあ。


〈陵雲〉

そう言って差し支えないだろう。

特に長く患っておる者たち、

あれこそが、今の世に於ける戦士の姿だ。

勇者とは必ずしも戦場にあって勇ましく、

ばかりとも限らんと言う事だ。

戦う事が生命の主題だとするならば、

差し詰め闘病とは、神が我々に寄越した

至上命題だろう。


〈観月〉

それはそうと、

随分前に

お上が、ネズミ一匹を五銭で買い上げるそうだ

と言う話をしたのは覚えてるかい?

(※明治三十四年、東京市が行った

ペスト感染拡大予防の為の施策)


〈陵雲〉

ああ、覚えてる。


〈観月〉

今度は三銭に値下がったそうだ。


〈陵雲〉

全体、五銭なんて随分な大盤の振る舞いだと

思っていたんだ。


〈観月〉

うむ。


〈陵雲〉

まあそれでも、ネズ公一匹連行するごとに

いまだ身代金で蕎麦が食えるじゃないか。

(※明治四十年頃、蕎麦、もり・かけ、三銭)

お上の気が変わらんうちに、

我々も捕物に出掛けて、日々の出費の足しにしたがいいね。


〈観月〉

捕物って君、江戸の岡っ引きじゃあるまいし

提灯と十手で召し捕るようにはいかんだろうよ。


〈陵雲〉

じゃあ、猫を連れて行こう。


〈観月〉

いや、猫の方で願い下げだろう。


〈陵雲〉

そうかな。

普段、にっくき親の仇よろしく、

あれほど追い回しているじゃないか。


〈観月〉

あれは、自分の気が向いた時さ。

猫と言うのは、こちらから願った時には

言うとおりにはしてくれないものさ。


〈陵雲〉

うむ。

やつら、どうにも

意地でも人間の都合に合わせてなるものか、

と言う自尊の構えが見受けられる。

確かにうちのにゃあこもそうだ。


〈観月〉

あれは、にゃあこと言う名だったかね。


〈陵雲〉

いや、今つけた。


〈観月〉

呼ばれる度に名前も勝手に変えられたんじゃ

誰が言うことなど聞くものか、と成るのも

尤もな事じゃないか。


〈陵雲〉

名前はまだない、なんて無慈悲よりは良かろうよ。

(※夏目漱石の吾輩は猫である明治三十八年

ホトトギスにて発表/の冒頭から)

それに、どこで生まれたかは頓と見当がついている。

一階の大家の仏間だ。


〈観月〉

それでその、にゃあこは今はどこかね。


〈陵雲〉

それが散髪しに行くと言って出掛けたきり

まだ帰らない。


〈観月〉

まさか。


〈陵雲〉

うむ。



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