最終話 濡羽と萌木
小夜が目を覚ました時、昼間の太陽が畳の縁を彩っていた。
庭の緑が色艶やかだった。
夏の陽射しが差し込んで縁側が眩しい。
静かなもので、障子は開いているが蝉の声は聞こえなかった。屋敷に張られてある結界だ。
ひと眠りしたお陰か、体はまだ怠いものの熱も引いているように感じる。
未だ冴えない思考を持て余し、小夜は外の景色をぼうっと見つめた。
「よう、おはようさん」
襖が開いて、奥から透が現れた。この家の幼い主が目を覚ましたのを察したのだろう。水差しとコップを盆に載せている。
小夜は布団の中で首を巡らして、それを見遣った。
「……泥は? お腹の怪我も」
「お前が弱体化させてくれたお陰で、取れてるよ。やー、軽い軽い。腹の怪我も問題ない。ここの霊気を取り込んですぐに治した」
透はぐるぐる肩を回し、小夜が体を向けている方に腰を下ろした。
「忍足の次期当主はお前から手を引くだと。話でもしたかったら来たらいいって伝えたから、そのうちまた来るかもしれん」
「まるで昨日の敵は今日の友のように」
「手ぇ引くっつったんだから、敵ではねぇだろ」
言いながら、胡坐をかき頬杖を突く。
「んで? お前は何を考え込んでるんだ?」
何故そう断じられるのかと、小夜は無言で胡乱に透を見上げた。
「苛立ってる時、神気の方が割とトゲトゲしてるぞ」
伊達に長生きしていない透は、蓄積された知識一つでその表情も察していた。
「いいから吐け吐け。この際に吐け。きっと熱も下がるぞ」
「もう下がってる」
「下がってねぇんだなこれが。お前が寝てたのは半日だぞ」
そっぽを向こうとする小夜に苦笑いしつつ、透はコップを差し出した。
「ほい水。起き上がれるか?」
「起き上がれる。ありがとう」
小夜は上体を起こすと、コップを受け取った。一気に水を煽る。冷えている水のはずだが、火照った体にはさほど冷たいほどでもなかった。
「結局、夏島さんが分からない。忍足だって怒っていたのに」
観念したか、小夜はため息を吐いた。手持ち無沙汰にコップを握り、伏し目がちに呟く。
小夜の科白に、透は首を捻った。
「そんなの、お前も同じだろ。お前はこの家で家族を失っているはずだが、ここにいてもそれを気にしないは疎か、第二皇子に怒りを抱いてすらいない」
「それは、怨霊の様子を見ていれば、無駄だと思うから。それに、私にも闇槌家に綿々と受け継がれてきた復讐心を持ってる。それを為せた悦びも。だから、何となく、まあいいかなとも思ってるのもある。私達は、為したから」
「なら、陣の場合はそれが遺された言葉だったんだ。畢竟、人それぞれってこった」
「遺した側が、恨まなかったから」
小夜は、折り畳んだ膝の間に顔を伏せた。そのために、汗をかかせるためにか夏なのに引っ張り出されてきた羽毛布団の上に突っ伏す。
冬島みのりは、ずっと小夜の担任を務め、石動家と第二皇子の関係を知っていながら天涯孤独の身である小夜を慮っていた。その彼女が、死ぬと分かってなおも、後悔していないと電話したのだという。
それは何だか、小夜にとって、そう、いささかどころか、何か肩の荷が下りるようなひとかたならぬ感慨があった。
「第一みのりという娘を実際に殺したのはお前じゃなく怨霊だ。そこを履き違えんな。陣はそれを履き違えなっただけのことだろ」
「それは、なるほど。納得」
顔を透の方に向け、腑に落ちる様子の小夜。
「……でも、あれは冬島先生だった」
「心配だったんだろ。それ以上はお前の斟酌するところじゃねぇぞ」
「透のそれ、絶対何か知ってる」
「ほう、知りたいのか?」
裏側を知るはずの小夜にすら伝わらない裏の話を。
「いや、別に。先生は気にすることじゃない、それで充分。以上」
潔く即答だった。
知らぬが花。秘するも花。何事も引き際が肝要というもの。無知は罪というが知識と情報は区別されうる。情報の取捨選択もまた情報戦。
「ところで、だ。本題に入るんだが」
「入る必要はないと思う」
「大有りだ馬鹿野郎」
文句を言いつつ、透は手を差し出した。空になったコップを受け取り、盆の上に置く。
小夜は口を尖らせる。
「契約では直近の敵の排除。向こうはもう私を狙わないと宣言している上に、怨霊は現在弱体している。とくれば、どうみても好機。私の体調が回復次第、透の本来の目的は果たせる。もちろん、私に殺される予定はないけど」
透は考え込む素振りをして口を開いた。
「いや、俺はしばらくお前の傍にいる」
「何故」
「それはお前が思ったよりも未熟だったからだな。早熟はともかく、熟してないのは駄目だ。腹壊すぜ」
「私は食べ物じゃない」
まさか妖連中と変わらなかったのかと小夜が嫌疑の目を向けると、透は、何でだよと言って否定した。
「熟れるのを待つのは確かだが、喰いたいからじゃねぇよ。そんなに気になるなら、一度不殺を条件にやるか?」
「なんて意味のない」
「そうだな。だから、今度は正規に契約しようぜ。期限は怨霊の影響が消えるまででいい。祓うでも封印でもなんでもいいからさ」
小夜は相手を呆れるように見た。
「やっぱり、おかしい。いくら私に透と戦える力があるからって、何でそこまでして私の傍に居ようとするわけ」
「そりゃ、俺がそうしたいと思うからだ。きっかけがあって、お前に目が向いた。それ以外に何がある。故に邪魔をする奴は漏れなく排除。どこもおかしくないぜ」
「つまり、私が拒むのもまた邪魔することになると」
「ああ。邪魔は排除」
そう言って、透は勝気に笑う。それから小夜を見つめると、今度は穏やかな笑みを湛えた。
「どこまで続くか分からない人生だが、楽しみたいんだよ。俺は。そこに長いも短いもない。意志を持ち生きているなら当然の希求だろう」
「……そうなんだ」
小夜は呟くと、思案の海に沈んだ。
「私は、無理に何かをしようと思わない。でも、居心地の良い生活には興味がある」
「助力しよう」
「けど、私は一人の方が好ましい。透は不調を隠してた。二度と御免だ」
「俺は楽しい生活だったと思ってる。隠さないことにするよ」
「いいえ、結構。隠す隠さないの話じゃないから。一人の方が、ずっと、いい。透が先生みたいに死ぬことはないとしても、影響を受ける」
透に会ってからはずっと相手の意志に折れてきたが、こればかりは小夜も譲れない。
「だからこそとは思えないか」
少女の下がっていた視線が透に向いた。
男は目を細める。
「俺はお前との死合いを望む故に、お前の安寧を求む。即ち、お前を悩ます怨霊による被害の防止。延いては怨霊の排除。
俺はそう簡単に死なないし、いや、正確には俺は自分が死ぬのかすら分からないくらい、色んな重症状態から回復してきた。だからお前にとって、俺は格好の防波堤になるはずだ。
何度も言うが、どうせ俺は好き勝手するんだから契約しておいた方がお互いのためだ」
「……そう」
自分の望む死合いが出来る相手を、透は本当に渇望しているのだろう。己にはないそれに、少し目を揺らす。そんな風に自分を売り込む透を、小夜はどこか遠い気持ちで見つめた。
本当に、小夜自身にそこまで望むものはない。ただ生きているから生きているに近い身で、殺されるのは性に合わないから防衛しているのみで。
嗚呼、だから。そうだ。小夜は視線を再び落とす。
何かを渇望することは何かを動かす。
裕也や桃子を見ている限り、それは決して醜いものではなく、逆に華やかともいえるもので。
小夜にとってそれに等しいものは、強いて言うならば安寧か。
だが安寧にも意味が二つ。周囲の安全が前提か、否か。
透と手を結べば前者が疎かになるが、透は後者を起きないよう助力すると言っている。然らば、何もしない自分より透の願いを叶える方が人生に彩りがあるといえる。
小夜は、改めて考えた。
透が来てから人との関わりやらその面倒事が増えて大変に疲れてはいたが、みのりの死を陣が小夜のせいだと思わなかったように、小夜は透によって怨霊が活性化したのだとは思わない。
それに夜をぐっすり眠れる日々は、実に快適だった。いづれこの快適を齎した当人に殺されるのだとしても。
「……うん」
小夜は一度目を伏せる。
無理に何かをしたいという心はないけれど、安寧を想ったことがあるのは事実で。だから、小夜は頷いた。
「分かった。その申し出を了承する」
小夜が頷いたことで、透は胸を撫で下ろした。
「そうか。良かった。では決まりだな」
「じゃ、さっそくなんだけど、透。お腹の傷は?」
ずっと気になっていたのだろう。話が纏まるや即刻尋ねられたそれに、透は上体がこけるように傾き慌てて畳に手を突いた。
「いや本当に治ってるよ。呪怨も修祓してるし、ほら、邪気もないだろ?」
「信用ならないので切開」
半眼の小夜は、不信を隠さず起き上がった。
「待った、それは逆に傷口が開く案件じゃねぇかな」
「傷口、開くの?」
「揚げ足!」
透の怪我は本当に治っていた。小夜と契約を得ることを考え、頑張ったのである。
無理をしてふらふらーと倒れそうになる小夜を宥めすかして寝かせる。そうして小夜が落ち着くのを見計らうと、透は手を差し出した。
「じゃあ、改めてよろしくな、小夜」
布団の中に押し込められた小夜は、瞬いてその手を見つめた。
この手を握れば、契約は完全に成立される。
すでに言葉で交わされてはいるが、より強固な意志の確認といったところだろうか。長い付き合いになることは間違いない。
そう思うと、にわかに怖気つく。刹那、暗い過去が蘇えって。
だが、一度決めたからには。
「うん、よろしく、透」
小夜は透の手を取った。
空谷の跫音。
濡羽と萌木は、こうして出会った。
よろしければ、感想などいただけますと有難く存じます。
色々と拙いところがあったかと思いますが、書ける限り書きました。「濡羽と萌木は月下に舞う」は、これにて完結になります。
最後までお読みくださり、本当にありがとうございました。




