第一話 夜と月 2
石動小夜は、松代中学校において最も問題のある生徒で有名だった。
遅刻はしないものの、いつもギリギリの時間に登校し、授業中の睡眠は当たり前で、せっかくの美貌も陰気な空気で台無しにしている。
さらには時折でも傷だらけになるその姿に、同級生のみならず全学年から敬遠されていた。
小夜は部活動にも参加していないため、放課後のことを知る者は誰も居ない。
一つの友人関係も築かないその有様は、家族が居ないことと、いかがわしい場所に現れる噂と相まって、学校中から格好の捌け口先にされていた。
観察に優れている者が居れば、小夜一人が生贄になって周囲の人間関係が円滑になっていることに気付いただろう。
しかし、その学校に、彼女をスケープゴートにしている自覚は誰一人としていなかった。
小夜自身もこれに気付いていなかったが、悪意ある声によってその事実を知らされていた。
悪意ある声は、夜になるとふよふよと現れて小夜を嘲笑い、物事の悪辣さを教えてくる。
ここ最近は毎日やってきて、小夜はテレビでニュースを見ない代わりに、その悪しき精霊を情報源にしていた。彼女は面倒臭そうに聞いているため、精霊は悪意をばら撒いているつもりで利用されていることを知らない。
「あっつい……」
教室を震撼させてから数日後のその日、ますます正体不明に拍車をかけさせていた小夜は、建物の影で首から玉のように噴き出る汗を拭っていた。
今日は四十度を超える暑い日だった。
うだるように熱気が籠っている。素晴らしく快晴だが、季節を先取りした気温と梅雨の季節が混じり合って、じめっとした天気というには生温い異常気象だ。
すこぶる高温多湿に見舞われたその日は、太陽が中天に差し掛かった時点で、熱中症で倒れる者を山ほど出している。
本当に、今日は夏至の日にぴったりといっていい天気で、日照時間を考えると、患者はこれからまだまだ増えることと思われる。
今は昼休みで、小夜が訪れると知られている場所に来る猛者は居ない。
小夜は印を結んだ右手を地面に向け、簡単な陣を切った。それで少しは涼しい空気が流れて、息を吐く。
学校や生徒の知らぬ話であるが、小夜は呪術師の家系であった。昼に寝るのも、夜に調伏を行っていて眠れないからである。時折、怪我をするのもその所為であった。
小夜とて、寝たくて寝ているわけではない。何分朝型の人間であったから、この日常は大変にしんどいものであるのだ。
活動時間が夜に集中する所為で慢性的に睡眠不足で、しかも満足に得られる睡眠時間の二時間以上を繰り上げて起きているのだから、健全な年頃の子供には生理的にきつい以外の何物でもない。
「眠い……」
いそいそと手持ちのレジャーシートを敷く。
石動家は古くからある家で、小夜の実家は広い敷地の中に建てられている。実家は旧家よろしく古き良き伝統的な屋敷といったところで、お金があるのはそのためだ。
今は小夜という幼い子供を残して誰も居ない。
当の小夜は、中学に上がるや、寝泊まりだけを目的に古びれたアパートに移り住んでいた。
屋敷は確かに自分の家だったが、自分の家だと感じるに薄い場所だったのだ。何となく留まる気になれなくて、利便性もあり引っ越した。
保護者が居らずとも自前の術で適当にはぐらかし、小夜は今の日常を築いている。
「ねむい……」
レジャーシートに座り、膝を折り畳んで顔を埋める。西方でいうところの三角座り、東方でいうところの体育座りである。
ここのところ夏の気に浮かれてか、魑魅魍魎が活発だった。彼らにとって最良の餌である小夜は、元から年がら年中狙われているというのに、連夜の襲撃が激化して体力をかなり消耗していた。
そのために、すぅ、と寝息を立て、小夜はあっという間に眠りに就いた。
次に目覚めた時、それは下校を告げる鐘の音が響いている時だった。
「まじか……」
寝惚け眼で、小夜はぼんやりと口をわずかに開けっ放しにしたまま呟いた。水分不足で声がしゃがれている。
これまでに何人かの生徒が小夜に気付いてそそくさと退散していたが、それにも気付かず爆睡していた。一生の不覚といっていいだろう。
長さは十五年である。
長時間同じ態勢でいたせいで固まった体を解しながら、夕暮れに色付く西の空を見遣る。
「嗚呼、しまった。逢魔が時と重なった」
しゃがれ声で呟いた。
これは由々しき事態であった。何の防衛陣地も築けていない。
気が急くのを抑え、薄汚れた白シャツを見下ろした。不備がないか確かめ、首元の赤色のリボンを何となく弄る。夏服用に薄い生地の、赤みがかった灰色のスカートが風で揺れた。
教室に戻って、荷物を取りに行くか否かと考える。
何かある予感がして、小夜は前者を選んだ。
レジャーシートを畳み、靴を脱いで手近な入り口から校舎に入る。途中、同じ組の生徒とすれ違いざまに意味深な視線を受けた。
小夜は流し目にそれを観察して、何となく状況を察する。
教室に入ると、予想通り小夜の机は酷い有様であった。
誰も居ない教室で小夜の席だけ、教科書はバラバラに引き裂かれ、筆箱も中身が散らかっている。机は椅子ごと水に濡れていて、水滴が床に流れ落ちていた。時間が経って、もう一度水をかけられた痕跡がある。
わざわざご苦労なことだと、小夜はちらりと思った。ワックスがかけられているとはいえ、教師が腐食の心配をしないのが不思議だとも思考する。
もちろん、教師すら何も考えていないだろうとは、小夜も分かっている。
苛立たしい存在を前には、常識など吹き飛ぶものであると経験で理解している。その常識だって、集団に限定されるものばかりなのを見ると、そも常識とは何ぞや、と考えさせられる。
小夜からすると、毎夜に対峙する妖の世は割と画一的な常識があるのに対し、人の世の常識の方がまさしく魑魅魍魎といった具合である。
大八島国は世間体を重んずる国であるから、始めからその枠から外れている小夜にはまったく分からない世界観であった。外から見る分には、窮屈とだけ分かる。
「乾け」
小夜の一言で、濡れていた一式が乾く。水を補給せずに来たから喉が痛い。
無感動に、散らかったものを片付けた。
この程度の悪意はこの通り言霊一つでどうにもなるので、これといって感情を動かされるものでない。
ただ、今日に限って言えば、悪戯を仕掛ける者も飽きないことだと思っている。普段は加害者をひと欠片も思い浮かべないのだから、これは珍しいことだった。
「ええ、貴方も、厭きないものね」
後ろから、か細い女の声がした。小夜は取り合わない。乾きはすれども元通りになったわけではない教科書や用具を鞄に入れ終え、振り返る。
「邪魔」
未だにしゃがれた声だった。
それとは関係なく、女は笑った。幽霊の女は何を満足したのか教室をなめらかに滑っていくと壁をすり抜けて消えていった。
小夜は目で追うだけ追った。あれは愉快犯みたいなものだが、いささか警戒心を刺激されて、わずかに目を細める。
「誰と喋ってんの……?」
偶然に通りかかり、小夜の様子を見ていた二人のうち一人の女子生徒が友人に言った。小夜の耳にもそれが届いて、一瞥する。
「ヒッ」
少女達は仲良く肩を跳ね上がらせ、一歩後退った。二人は小夜にも見覚えがある顔だった。組の違う同級生だ。
すぐに彼女達から視線を外した小夜は、無言のうちに教室を出た。正面玄関から出るために下駄箱のある方へ向かう。
それがちょうど彼女達のいる廊下だったので、二人はさらに悲鳴を上げて、しまいには逃げた。
追うも何もない小夜は、何事もなかったかのように玄関を出る。
帰りでは、上履きにこれといった悪戯はなかった。
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