第一章:[渇命]
おはこんにちこんばんは!この度は、「死後理論」を開いてくださりありがとうございます。
久しぶりの小説投稿ですが、ネタだけはずっと考えてメモしていたこともあり、再度チャレンジすることにした次第です。テーマを幸福と理不尽にしています。結構グロい描写や残酷な表現をしているかもしれませんが、私には“現実”が目に見えるように文章化されていないだけで、この小説と同じぐらい…いえ、それ以上に厳しいものであると思えてしまうのです。だから必然的にそういう風に描いてしまいました。
あまり前書きが長くなっても仕方ないと思うので、簡潔にまとめます。
“楽しんで読んでくだされば幸いです!!”
ではどうぞ!( ・∇・)
question.1
生きて幸福になれない人間は、死を選べば幸福になれるであろうか
question.2
この世の理不尽は、誰が作っているのであろうか
question.3
死後の世界は、あるのであろうか
「死後理論って知ってる?」
そう言ってくれた女性は誰だったっけ。
その場に1日の半分を照らしていた日差しは既になく、僕は自分が通う高校の屋上に立っていた。夏とはいえ、時間が時間だ。少し肌寒く、目元にある傷がつんと痛む。
自分で言うのもなんだけれど、僕はいわゆる虐待児童ってやつだ。父親の方は浮気三昧で、母親はそんなうまくいかない生活の中、僕を使って鬱憤を晴らしたいのか…ことあるごとに、僕を殴った。
それでもきっと、いいことをしていれば、周りの人の役に立てるように生きていれば。
幸せになれると思っていた。
だからあの日も、いつもやっていた通りに…僕はいじめられていた女の子を庇った。
その結果。僕に標的が変わったんだ。
それだけならいいよ、慣れてるからね。
でも、その彼女も…そう、望月冥も僕をいじめる側に立った。
生きるため、そうせざるを得なかった。それは理解できる。そう、理解できる。理解はできても…納得できないことって誰にでもあるだろう?
それは、その生活は。僕の許容範囲を超えたんだ。
信じてたのに。
信じてた、誰かを支えればきっといつか誰かが僕を見てくれる。愛されるって。
生きていても幸せは手に入らない。僕はいつかの誰かが言った、死後の世界を信じることにした。家庭にも学校にも、もはや居場所なんてない。
僕は僕の居場所ではなくなった学舎の最後の檻を、もっともここを上から展望できるところから超えてやった。
身体が宙に浮く。重力のクッションが僕を包む。つきまとう風は冷たく、凍てついていて。
これは僕の死から始まった物語。死後を生きる死者の物語。死後の世界に幸福を見出した愚か者の物語。
グシャリという音を響かせて、辺りは静寂に包まれた。
第一章:[渇命]
渇命:飢えや渇きが原因で、命が危険になること。
僕は誰だ?
目が覚めて一番初めに考えたことがそれだった。辺りには数少ない遊具が寂しく立っている。その中でも草が生い茂っているところにうつ伏せで倒れていた。
ここはどこなのだろう…どこかの公園だろうか?見覚えのあるような、ないような…。
自分がどこにいるのかも、何をしていたのかも、誰なのかってことも。何一つわからなかった。
とにかく歩き出さなければという、一種の何かしなければいけないような…と言った具合の強迫観念に迫られて僕は足を進める。
服は着てるみたいだ。靴も履いている。
身体は怪我をしていることもなければ、痛みもない。おかしいことに頭がぼうっとしていてよく考えが整理できない。
雲が空を覆っている。一連に連なるその白き水滴の集合体の間からは、なんだか懐かしくなるようなオレンジの光が顔を覗かせていた。
自分はいったい何者で、ここでいったいなにをやっていたんだろう。不思議と不安や恐怖といったものが込み上げてはこない。それどころか、少し気持ちが軽いような気さえする。
僕はいったい、
刹那、思考を一瞬にして切断する轟音が轟く。
耳の痛みを感じるまでもなく、僕の身体は空中に吹き飛んでいた。
「ぐひゃっ」
声にもならない音が口腔内から漏れる。
痛い。
身体がコンクリートに叩きつけられ、
痛い。痛い。
何度か地面を転げ回った。
痛い。痛い。痛い。
鈍い痛みだけで済むはずもなく、その熱を帯びた僕の身体は、これから干からびて死ぬ蛙を連想させるような動きで虚空を切る。
灼熱の吐瀉物を撒き散らし、身体の節々が悲鳴をあげる。
僕は車に轢かれたみたいだ。車…なぜだろう、轢かれてからその存在を思い出したような、そんな感じがする。轢かれるまで思い出せなかった。だから車に対する注意力や危機感といったものが生まれなかったのだ。視界には入っていたはずの存在なのに、絶対にその存在を認知できていたはずなのに、ぶつからないだろうという今思えば変な安堵感が確かにあった。
車を運転していた男が停車した車から降りて、こちらに向かっていたが、まるで今あった衝撃が気のせいだったと言わんばかりに首を捻らせ、踵を返した。
「あっ…え…待ってぇ…」
ブウウウウウンというエンジン音を耳にしたかと思えば、もうそこに男が乗っていた車の姿はなかった。
痛い。
僕はまた見捨てられるのか。また…?
ここで死ぬのだろうか。そう感じていた時だった。
身体のあちこちから熱風が飛び、肉が焦げるような匂い…そして音。煙が吹き荒れている。ものすごく、熱い。
「ぐぅぅぅぅぅぅうううああああああああああああああああ」
潰れていた内臓の部分が、折れていたはずの骨が、全て治っていく。
「あ…、あれぇ…??」
ふと我にかえると、全ての傷が完治していた。つい先ほど確実に車に轢かれ、バラバラになっていたはずの部分も、ぐちゃぐちゃになっていた身体の組織も全てが元に戻っていた。服に血の一滴すら付いていない。
何が起こったんだろう…。本当なら相当疑問視しなければならないだろう、しかし自分にはなぜかもっと他の事実を確かめるべきだという意志があった。
キンコンカーンコーン。キンコンカーンコーン。
学校のチャイム音が耳に届く。近くに学校でもあるのだろうか。つい最近までずっとその音を聴いていたような親近感。周りの車を注意しながらも、僕の両の足は有無を言わさずにその場を目指した。
校門を出る生徒たちの群集とすれ違う。彼らは私服ではあったが、校舎の門から出てきているのだから、おそらく生徒だろう。
時計の針は6時20分を指していた。この時間まで残っているということは…部活帰りだろうか。
どこに行けばいいかもまるでわかっていなかったが、なぜだかこの校舎に行けば何かを取り戻せるような気がして、僕は校舎の中へ足を踏み入れる。
自分が着ている服は幸いにも私服だったし、身長もそこまで高くないみたいで、声の感じも大人びている気はしない。これなら生徒と区別がつかないだろう。しかしなぜだろうか、自分の年齢も知らないくせに、僕が部外者だということが絶対にバレないという自信があった。
踏み入れた瞬間、微かな頭痛が僕を襲う。だが、足を止めるほどでもなかった。僕は校舎の階段を上がり、屋上を目指した。屋上ならここら一帯を見渡せるはずだし、何より心がそこに行きたがっていた。
途中階段を走っていた生徒とぶつかりそうになった。
普通、人が階段を上がっていたら、多少なりスピードを抑えないか?
僕はそんな愚痴を心の中にしまい、目的地を目指す…が。
急に尿意を催した。おしっこがしたい…気がする。先ほどまでずっと、すぐにでも屋上に向かわなければならない使命感があったのに。今は逆に、屋上に行くのはもっとゆっくりでもいいじゃないか、そんな風にさえ思う。
とりあえず自分の欲求に従い、用を足した。手を洗う時はまず水だ。水を手に当ててから石鹸を泡立てる。最後は絶対、洗い流す前に水道の取手部分を石鹸の付いた手でゴシゴシと拭き取ってから、水で石鹸を洗い流す。そうすることで取手を閉じて水を止めるときに、“結局洗ってない時に触ってたやん!”という気分の悪さを味合わずに済むからだ。
あれ…?こんなこだわりいつ思い出したんだっけ?まあ…いっか。
ふと顔を上げると、そこには当然自分の顔があった。黒髪で、左側だけ少し長めに流してある。目は奥二重で、鼻はそこそこ高く、唇はやや小さい。そばかすさえなければ、なかなかの顔じゃないか。自分の顔をそう評した。
しかし…やはり“不思議”だと思う。普通、記憶が曖昧な人間というものはこういう時…自分の顔を見たいとまず初めに思うものじゃないのか?
さっきから変な安心感があり、気づいたものにしか意識を向けることができていないような気がする。というか、警察や病院に行くべきなんじゃないのか?どうして今までそれを考えつかなかったんだろう。
まあ、今更だよな。とりあえず屋上に行ってなにもなかったら警察に行こう。本当に妙な気分だ。
トイレから出ると、階段に向かうまでにある窓が開いていた。
さっきも開いていただろうか…?
窓の外に首を出すと、そこにはこの学校のグラウンドがあった。高校の割に生意気にも砂のグラウンドでなく、陸上トラックのようなゴムでできているグラウンドだ。トラックの中央は芝生になっていて、サッカーゴールも整備されていた。トラック一周はきちんと400mあるんじゃないだろうかと感じる程に大きい。何人かの生徒が走っていたり、茂みの中ではサッカーボールをパスしあっている人影がちらほらある。
そんな中で目があった少女が一人いた。栗色の髪の毛が風になびき、ぱっちりと開いている大きく吸い込まれそうになる丸い目は、この距離からでもはっきりとわかった。
ジャージ姿のその少女は、トラックのレーンの外で水分補給していたみたいだった。陸上部だろうか。ぼんやりとその少女を見つめていたが、気まずそうな感じに目を逸らされる。
まあ、知らない他人なんかと目が合うと、そうなっても仕方ないよな。そう考えて、僕も窓から離れた。
夕方の校舎というのは、少し幻想的であるが、同時に恐怖感も味わえる場所だと思う。“夕闇”というやつだ。明るいといえばまだ明るいが、そこには確かな“黒”があった。そこらの闇から何かが飛び出てきたって特段おかしくないんじゃないか?そう思わせる不思議な魅力がある。
3階に登ると、前方から見た感じ50歳は優に超えているであろう男性が歩いてきた。この学校の教師だろうか?屋上はどこから入ることができるのだろう。とりあえずここは部外者とバレないように、この学校の生徒を装わなければ。
「こんにちはぁ」
とりあえずは会釈することと挨拶を言ってさえおけば、こういう場は凌げるはずだ。なぜそう考えるのかは僕にもわからないが、頭がそう言っているのだ。だからそれに従っていればいいと、この時は思った。入った時はなぜだかそういう風に感じなかったが、よくよく考えると、ここの高校は広く大きい。グラウンドのトラックがそれを物語っている。そんなマンモス学校の教師が生徒を全て把握するなど、あり得ないことなのだ。
僕は平然とした顔で挨拶をしたが、教師はこちらに見向きもせず、僕の隣を通り過ぎて行った。
少し唖然としてしまったが、高校とはそういった場所なのだろうか。記憶もないくせになにを馬鹿なことを言ってると思われるかもしれないが、僕はてっきり、生徒が挨拶をすれば教師は挨拶を返すものだと考えていた。まあ、いい。先を急ごう。
少し進んだところに、小さな階段とその上に侵入禁止と書かれたドアがあった。
階段の途中に窓が二つ付いていて、外に目を向けるともう陽が落ちてきていた。
さっきまでまだ明るかったんだけどな。陽が落ちるのは、本当に早い。
扉を開けると、そこには一人の人間が立っていた。暗くてよく見えなかったが、人の形をしているのだから、そこに立っているのは人間だろう。
「あの…こんにちは」
僕はとりあえずで挨拶をした。ここにくれば何かわかるような気がしたから、ここに来たのだ。他の人がこの場にいるのは、こちらとしても本意ではない。
先客である人影が、こちらを振り返る。もう少し近くに寄れば、月の光やらグラウンドにある電柱やらの光で、はっきりとはいかずとも顔を識別することぐらいはできそうだ。それにしても、こんな時間に立ち入り禁止の場所でいったいなにをやっているのだろう。
「もう陽が落ちますね、屋上…侵入禁止って書いてるじゃないですか。こんな夜にこんな場所でなにしてるんですか?」
その人影は答えない。じっとこちら側を見つめてくる。
仕方ないので、嘘をつくことに決めた。
「あのですね…実は僕はここの学校の生徒会の手伝いをしている者でして。もう夜も遅いですし、校内の見回りをやらされているんですよ。そうしたら、屋上の扉が開くものですからぁ」
そう言って、僕は人影に向かって歩みを進める。
「ここに入っていたことは誰にも話しませんから、そろそろ帰宅の準備を始めちゃいませんか?」
彼の顔があと数歩歩けば光に照らされて見える、その時に気がついた。
泣いている。男の声だろうか…泣きじゃくる嗚咽が、わずかにだが聞こえた。
「何かあったんですか?僕で良ければ少しぐらい話…」
そこまで言って、僕の歩みは止まった。彼の顔が見えたからだ。
彼は僕だった。
「あ」
瞬間。僕の身体は回転し、反転し、逆転し、流転した。
どこから現れたのか、体量の水流に体をとられて、もがくことしかできなかった。水分は身体の穴という穴の中から入り込んでくる。
息ができず、まるで喉元に石が入り込み、鼻にもそれがつっかえ、頭も重く、不鮮明に霞んでいく、そんな感触を味わった。
ああ、僕は自殺したんだ。死ぬまでの自分の記憶を思い出していく。さっきまでの自分は、自殺をすると決めたけど、いざ学校まで来ると死ぬに死ねなくて、回り道をして、自殺することを少しでも先送りにしようとしていた、そんな過去の自分の行動ルートを再び反芻していただけだった。
過去。そもそも今いる自分は未来の自分なんだろうか。それともどこか別の次元の僕?どうしてまだ死ぬ前の自分がここにいたんだろう。今日は何日だっけ?でも自殺する時と同じ道筋を歩いてきたんだっけ。あの公園で殴られて気を失ってて…けど車には轢かれてなかったはずだし…やっぱり自分は死んでいて、過去に来ているのだろうか。既に死んでいたから、車の事故に遭っても死なず、誰にも見向きされなかったんだろうか。あれ?そうなるとあの少女…確かあの子は…あの子は僕がいじめから庇った女の子で…あの子は僕と確かに目があった。
彼女の名前は望月冥で、僕の名前は…名前は。
僕の名前は、石代志誠だ。
全てを思い出すと、さっきまで自分を包んでいた謎の水流は消失し、目の前にいた自分は姿を消していた。
僕一人がその場に取り残され、辺りを冷たい空気が覆っていた。
あれから時間が経ち、時刻は7時半を迎えていた。
今頃僕の通っていた高校は、もしかしたら騒ぎになっているかもしれない。
屋上から飛び降りた僕の死体が、学校に入った時はなかったはずなのに、出る時にはあったからだ。
やはり思った通り、僕は既に亡くなっているようだ。あれからすれ違う人を対象に何度か声をかけたが、なんの反応もない。全くの無反応というやつである。
死後理論…死後の世界は本当にあった。
もっともそのために自殺を決行したのではあるが、これからどうすればいいのだろう。家にでも帰ろうか。
いや、望月冥を探そう。彼女は僕が見えていた。僕を認識していたはずなんだ。
そうこう考えて、これからどうするか考えていた時だった。
「あの」
初めはその声は自分に届いたものではないと思っていた。だが、よく考えるとこの場所には僕とその声の主である女性しかいない。
「えっ…っとぉ…僕のことが見えたりします?」
「はい、さっきから人に声をかけては無視されていたのを見て、この人も同じ側なんだって思って」
その声はよく透き通り、女性らしい高いトーンで僕の耳に響いてくる。
「同じって…あなたも…死者ってことですか?」
少し俯いてから女性は答える。
「そういうことですね、けど先ほど記憶を取り戻したばかりで、まだこれからなにをしたらいいのかもわかっていないのですけども」
女性は見たところ、僕より少し年上といったところだろうか。長くまとまった黒髪が彼女の大人びてはいるが、どこか幼い印象を与える顔をより一層引き立てていた。
「僕たちはやっぱり死んでいるんですよね?」
「おそらく」
「じゃあ、どうして今こうやって動いてるんだろう。幽霊ってやつなんでしょうか」
うーん…と首を捻らせる女性のその仕草は、歳に似合わず幼さを感じるが、それがまた魅力的に映った。
「幽霊だとしたら…えっとぉ…そういえば君、名前は?」
「志誠です。石代志誠」
「しせいくんね…難しそうな漢字使いそうな名前だね、私はサマーソングで夏歌…胚戸夏歌よ」
彼女…夏歌さんは名前を知ったことで少し打ち解けたのか、いつの間にか口調はやんわりと軽くなっていた。
「夏歌さん…ですね。それで幽霊だとしたら?」
ついさっきの話だが、彼女は話題が逸れると物忘れをしやすい体質なのかもしれない。そうそうっ!と呟くと、彼女は右の拳を左手にぽんっと叩いた。
「幽霊だとしたら…生きてる時と違っていろいろなことできるんじゃないかなぁって思ってさぁ?」
……。死んでるのに。死んだ直後とまでいかなくとも、一応死んだばかりなんじゃないのか?普通そんなこと考えるか?僕は、彼女は意外とポジティブなのだろうと納得する。
「え?私、何か変なこと言ったかな?」
「いえ…なんでもありません」
つい愛想笑いを浮かべたが、考えてみると確かにそうだ。いや、彼女のようなポジティブな意味でなく、死者として生者と何か違いがあるんじゃないか?という意味で。
「そうですね…僕、車に轢かれたのに何もなかったみたいに身体が元通りになりました」
それを聞いて、夏歌さんは少し引き気味に驚いた。
「えぇ?それ…本当に?痛かった…?」
「痛いなんてもんじゃないですよ…身体が戻った時はすごい熱かったです。身体中からこう、蒸気が上がる感じで」
「既に死んでいるから…もう死ねないってことなのかも」
「それはそれで嫌ですけど…まあ、今はいろいろ考察してみましょう」
夏歌さんはため息混じりにポツリと呟く。
「そうね、他には何かないかなぁ」
他…ここまでの道のりに、他に何か特殊なことがあっただろうか。そもそも、死者と生者の違いとはもしかしたら生きていることと死んでいるということにしか差がないのかもしれない。
「もしかして今、僕ら…浮いてません?たしかどこかの猫型ロボットも数ミリだけ浮いてるとかなんとか」
彼女は自販機下に小銭を探す貧乏性の人間みたいに四つん這いになり、じーっと僕の足に視線を注目させる。
「いや…浮いてないと思う……」
僕は足で地面にトントンっとリズム良くステップを踏んでみせる。
「ですね…浮いたりとかはないみたい…じゃあ、鏡に映らないとか?あ…僕、そういえば…校舎でお手洗いに行った時に鏡に写ってました」
「幽霊のくせに…おしっこは出るのね」
お互いに顔を見合わせ、その考えるとなんとも言えないような事実に吹き出してしまった。
「ははっ、確かに」
「死んでるのに面白いわね」
死んだあとにまさか笑えることがあるだなんて正直思っていなかった。まあ、生きてる現実に幸福がないと見越して死んだのだが。
夏歌さんは笑い終えると、一つ疑問を口にした。
「幽霊ってなんか壁とか透けそうな感じよね?でも…建物は普通に触れるよね」
彼女はほらっと言いたげな顔で近くの建物の壁をさする。
確かにそうだ。現に僕は車に轢かれているし…。普通、幽霊というやつはこういう時に壁をすり抜けたりできそうなイメージがあるが、僕たちは壁を触ることが…物体を触ることができている。
「うーん…もしかしたら、生命は触れられない…例えば人とかは触ろうとしても透けてしまう…とか、幽霊×人間の恋愛小説の設定としてありそうじゃないですか?」
「ああ…あるかも。私、死んでから人を触ってない」
「試してみましょうか、ここじゃ人も少ないですし…そうですね、街中に行ってみましょう」
「そうね、ここからだと飛鳥通りが近いかなぁ」
「わかりました、じゃあそこで」
こうして出会った自分以外の死者…夏歌さんと共に、飛鳥通りに向かうことにした。
この時…彼女に望月冥のことを話し、彼女を探しに行くことを先に勧めていれば、結末は変わっていたのかもしれない。未来の僕はそう思うだろう。望月冥なら学校がある時間帯に高校に行けばすぐにでも会えると思っていたんだ。
この選択が、自分のいずれ知るであろう残酷な運命を、より早く知るきっかけになってしまうということを…この時の僕は考えてすらいなかった。
飛鳥通り:北海道札桄市C区にある人通りの盛んな通り。ブティックやレストランなどが多く、大人だけでなく中高生にも人気のある場所である。
僕と夏歌さんはそれぞれの生前の話で談笑しながら、目的の場所に向かっていた。
「ほら、しせいくん!もう少しで飛鳥通りにつくよ!!」
前を見ると、そこには賑わっている人混みが目に入る。冬でもないのにイルミネーションで煌々としている街並みは、どこか…いじめられたり虐待されていた自分とは真反対なものを見せつけられている気がして苦手だった。
とその時、1人の青年と肩がぶつかる。肩がぶつかった…ただそれだけのはずだった。
「あつぅっ!!」
まるで肩を思い切りやすりで擦られるような痛みに、情けない声をどうしようもなくあげてしまう。
「どうしたの!?」
夏歌さんが僕の方に慌てて駆け寄る。
「いえ…ただ肩がぶつかっただけなんですけど…どんな勢いで歩いてたんですかねぇ…あいつ」
僕の肩にぶつかった青年は、少し戸惑って辺りを見渡したが、すぐに平然とした表情に戻り、また歩き出した。気のせいだと思ったのだろう。
「そんな感じだったかなぁ…普通に歩いてただけのように見えたけど…」
「まあ、大丈夫です…それよりいろいろ実験してみましょう。人も多いし、なんならシャワーとか借りる場所もありますし…死者としてどうやって生活していくか考えましょう」
「“死者”なのに“生活”…“死活”の間違いじゃない?」
一瞬の沈黙が流れる。
「ははっ、確かにそうですねぇ。今の僕らにとってはこの問題は大きいですね、全く死活問題ですよ」
「だとしたら生きてる人にとっての死活問題って…生活問題?」
「いや、それは違うようなぁ…」
夏歌さんと一緒にいるのは楽しい。まだそれほど一緒にいるわけではないが、生きてた頃に比べて全然面白い。この人となら、死んだ今も、それこそ一緒に“死活”できるかも。そう考えて僕は一人でこそっと口角を上げる。
そこで、夏歌さんがふと何か思い出したような目でこちらを見つめてきた。
「そういえば…今、人にぶつかったね」
「あ…確かにそうですね!じゃ人には触れるってことですかね」
そう言いながら、僕は前を歩いている女子高生の肩を優しく叩く。
激痛。
「いってぇえええっ!!!」
手のひらをまるで沸騰したお湯の中に突っ込んだ感じだ。とっさに手を離したが、僕はその場に膝から転がり落ちてしまう。僕に肩を叩かれた女子高生はこちらに気がつく様子もなく、そのまま人混みに消えてしまった。
「え!??え????大丈夫っ!?しせいくん!?」
夏歌は再度心配そうな顔つきで僕の腕を取り、手のひらを凝視する。
「これは…」
僕は焼けるような痛みを堪えて、自分の手に目を向けた。先ほど女子高生の肩を叩いた手のひらからは蒸気が音を立てて発生しており、その手は赤黒く、皮膚がボロボロに溶けていた。
「何か…水っ…とかで大丈夫なのかなっ??」
夏歌さんがあたふた慌ててパニックになってこちらに尋ねてくる。どうしたらいいのかわからず、思考がよく回らないのだろう。
「っ…大丈夫です…めちゃくちゃ痛かったですが…少しずつ良くなってきてます」
言葉通りに、僕の手のひらはそれから1分とせずに完治した。人体に触れたのが一瞬に近い時間だったからこれで済んだのだろうか。
「ごめんね…しせいくん…私、何もできなくてごめんね…」
夏歌さんはうなだれて、ただひたすらに何度も何度も謝罪の言葉を述べてくれた。別に彼女は何も悪くないのに。僕は彼女が死んだ理由を聞いてはいないが、きっと自殺だろうと何となく察してしまう。こんな性格だと…この世界は生きづらいだろうから。
「大丈夫ですよ、夏歌さん。僕は大丈夫です」
精一杯の作り笑顔で彼女の肩を支えることしかできなかったが、それで良かった。きっと、死者は死者と共に生きろということなんだろう。
「しかし…さっき僕が肩を叩いた女子高生はこちらに気付く様子もありませんでした。肩がぶつかった男の人は、こちらを振り向いたのに」
彼女はようやく顔を上げ、鼻をすすりながらも僕の話に耳を傾けてくれた。
「僕の推測ですが…この手のひらの傷を見るに、生者…少なくとも“生者の人体”に触れると皮膚が溶けていくようです。つまり、相手側からしたら触れても気付かないのかもしれません」
「つまり…肩でぶつかった時と何が違うの?」
夏歌さんの疑問に、僕は拙いジェスチャーを踏まえて説明した。
「肩でぶつかった時は…僕が彼の進む道の邪魔になっていたから彼は変だと感じたんでしょう。目の前に何もないはずなのに、それが一瞬であれ、思うように進めなかった。どうもこの負傷は一瞬で全ての身体が溶けるというわけではなさそうです。なので、こちらから少し触った程度じゃ皮膚が溶けるので、相手側からしたら触られている感触がないのでしょうね」
「女の子の方は、少しこちらから触っただけで、男の人の方は、向こうからぶつかってきたからってことね」
「そうです、ようは認知の問題でしょうね」
僕は“納得納得”とうなずく彼女にグーサインで返した。
「じゃあ…触れないってことか、人には」
彼女はフッと息を吐きながらどこか寂しげな表情をする。その表情には、他者の詮索を拒むような意思も感じる。
「そうですね…まあ、死者には死者の世界があるんですよ、きっと」
悲しそうに彼女も同意する。
「そうだね…でも、相手が生きてる人だったらこっちも見えないってことなのかな?霊媒師みたいな人とかだったらどうなんだろうね」
そこで僕は、望月冥の存在を教えることにした。
「一人だけ…“死者を観ること”ができる可能性がある人間を知っています。望月冥っていう僕と同じ高校に通う女の子です」
予想に反して彼女は対して驚いた素振りもみせなかった。
「同じ高校に通うって…それって“あの子は霊感がある”とかって程度の噂とかじゃなくて??」
「僕はそんなバカじゃないですよ、そんなのは特に信じてません。まあ…今、霊になっちゃってますが…。それは置いといてですね、望月冥は僕が死んだ後に、確かに僕と目があったんですよ!」
「本当に?何でその時声かけなかったの」
当然の疑問だ。いじめられていた望月冥を庇い、自分もいじめられる対象になって、その結果として自殺することになったなんて重たい話題をすることを躊躇して、僕は少し間を開けた。
「えぇっとですね…いやぁ…彼女に振られたことがあって…ん?いや、そもそもその時は記憶がなかったんですよ!だから自分が死んだこともよくわかってなくて」
「振られた…そうなのね。うんうん」
彼女は何に納得しているのだろうか。余計な嘘を言ってしまったことを後悔した。
「じゃあ、その子のところに行こうか。でもなんで先に言ってくれなかったの?」
「いやあ…家知らないんで、僕も明日の学校ある時間にゆっくり探そうかなぁ…なんて思ってたんです」
「あ、家知らないのか…なるほどなるほど。じゃ、その子に会うのは明日でもいいか。けど、大丈夫?同じ学校ってことは明日にはしせいくんが死んだこと、きっと知ってると思うけど…振られた子に“死者になっちゃった”って会いに行ける?」
確かにその絵面は想像したくない…気まずいのはいじめの件があったからで、別に振られたからではないし…いや、そもそも振られていないけれど。さっきのは真っ赤な嘘だけれど。
「大丈夫です…たぶん」
「おっけいおっけい…じゃあ、まず今のうちに実験できることは実験しておこうか」
「そうですね…ご飯食べれるかどうか気になります」
気のせいか、さっきからお腹が減っているような感じがあった。
「いいね、それで行こう。お金ないけど…死者だし、法律とかないよね?」
夏歌さんは同意を求めてか、ちらりと目線をこちらへ向けてくる。
「えぇ…夏歌さん、それどろぼ…」
「よしよし、お腹いっぱい食べるぞっ〜!!」
僕が言い終わるより前に“おーっ!!”と拳を高らかと空に上げて、そばにあったパン屋へ直行する夏歌さんを歳上とは思えなかった。これは飛鳥通りに着く前に彼女から聞いた話だが、彼女は車の免許もばっちり取ってる大学1年生…今年で20歳になる19歳だったらしい。それだと1年間、留年している計算になる。
「あれ…ドア、開かない」
夏歌さんが自動ドアの前で何やらもたついている。
「私たち…死者だからかな、自動ドアが反応しないんだよ」
「えぇ?本当ですか?」
夏歌さんは、ほら!っと自動ドアの真前で両腕をぶらぶらさせるが、確かにセンサーはピクリとも反応してくれない。
日本の自動ドアのセンサーは、熱線式・光線式・超音波の3種類が基本的で、中でも光線式がその9割を占めていると聞いたことがある。
光線式の自動ドアセンサーは、赤外線を飛ばして、その反射によってドアを開けているのだ。つまりドアが開かないということは、僕たちは赤外線を反射していないということなのだろうか?しかし、もし仮にそうなら光や他の紫外線などはどうなるんだ?光が反射していないから、生者から死者の姿を見ることができないのだろうか。でも、死者同士なら見ることができるし。
「そうですね…では、こうしましょう」
僕は落ちていた石を拾い、目の前を通りかかった小太りでスーツを着た中年男性をターゲットに、石越しに肩を叩く。
中年男性はこちらを振り返ったタイミングに合わせて、石をパン屋“ほかほかフランスパン”の方に落とす。
中年男性は僕の予想通り、パン屋に注意を引かれ、多少不思議に思っていた様子があったが、そのまま“ほかほかフランスパン”の店の中へ入っていった。
自動ドアが開いている隙を見逃さずに、僕と夏歌さんはパン屋の中に駆け込む。
僕は思わず、よしっ!とガッツポーズを決めてしまったが、夏歌さんもおおっ!と拍手で返してくれたので恥ずかしい思いをせずに済んだ。
「何であれだけで店の中に入れることができたの??」
「そりゃ、この時間帯にスーツでこんな通りにいるってことは、まず仕事終わりでしょう。そしてお腹が空いている…という状況でしたら、パン屋は店外であっても近い距離であれば、いい香りが漂いますからね。イチコロですよ。それにあの体型ですしね」
「なるほどね〜さすが博士!」
夏歌さんも褒めてくれることだし…と、僕はいつもの癖を披露することになった。かっこつけたい時や何か物事を成功させた時、できもしない指パッチンをしてしまう癖が僕にはあった。できないからこそ、音も立たないし…誰にも迷惑をかけないからといった理由からそうなっていたのだが。
パチン。
その指パッチンがこの時は成功した。
瞬間、身体が透き通ったように軽くなり、地に足がついていないような気分になった。
いや、地に足がついていなかった。わずかにではあるが、浮遊していたのだ。
「あれぇっ!?指パッチン…普段は絶対にできないのに…それどころか夏歌さんっ!今これ、僕、おかしくないですかっ!!?」
動揺していたせいか、バランスを崩し、オシャレにデコレーションしてあるパンがたくさん並んでいる棚に吸い込まれるように、僕の身体は倒れてしまう。
さっきまでの僕なら、石も拾えた僕なら。絶対に棚とぶつかってしまうはずだった。
僕の身体は、そのまま棚に当たることなく棚を通過した。それどころか、地面にぶつかることもなかった。空中で浮いたのだ。ほんのわずかだったとは思うが。
「あれ、あれぇ!?なんだこれっ?なんだこれ!?」
僕は勢いよく立ち上がると、もう一度、棚を触ろうと手を伸ばす。
すると、棚に手が届こうとするところで、感じていた浮遊感が消え、僕の手は先ほどまでの僕と同じように、棚に触れることができた。
「どうなってるの…それ?今、棚を透けて…しかも、転んだ時、浮いてなかった!?」
夏歌さんも突然の現象に理解が追いついていないようだった。
「わかりません…けど、浮いていたのは転ぶ前からです…普段絶対できない指パッチンをして…」
夏歌さんが右手の指を思い切り鳴らす。はじけた音がパン屋に響く。
「っ…おおっ!!すごい!!何この浮遊感!!すっごすっごぉお!!」
彼女はパン屋を透過した状態で走り回り、充分にその能力を楽しんでいた。この“透過能力”。死者特有のものだろうか。
「お…元に戻った」
僕も彼女も透過していたのは10秒程度だろうか。
僕も、もう一度指を勢いよく鳴らしてみる。
しかし、音が耳に響いた以外に特殊なことは起こらなかった。
「あれれぇ?何も起こりませんね…」
彼女も先ほどと同じように指パッチンをしているが、僕と同じで何も起こらず、苛々したのか、両方の手で指を鳴らし始めた。
そうすると、彼女がまた歓喜の声をあげる。
「やった!できたよ!?違う方の手で鳴らしたらできた!!」
僕も言われた通りに、先ほどとは違う手の指を使って指パッチンをしてみると、確かに再度透過能力をその身に感じることができた。
そして、やはり10秒ほどで両者ともに透過能力が切れてしまい、それから何度か指を鳴らし続けたが透過現象は発現せず、この指の鳴らし方がどうだとか、鳴らす指に限定性はあるのかだとか試して、次に透過できたのは、およそ5分ほど経った後だった。
検証結果。指パッチンをすると10秒間あらゆるものを透過することができる。インターバルには5分必要で、左手と右手はそれぞれ別物らしく、左で透過能力を使っても、5分経たずに右手で透過能力を使うことは可能。例えるとするならば、手は銃弾。左手には1発。右手にも1発。リロードされるのは5分後、ということだ。
そしてこの“透過能力”は何かものを持った状態から、その能力を行使しても“自身のみ”透けてしまう。例えば、石を片手に持った状態で透過すると、その石は地面に落ちてしまい、透過が解除するまで触ることができない、ということだ。
飛鳥通りの中にある公園で人目を気にしつつ、盗んだパンをむさぼり食べる。側から見れば、パンが浮きながら減っているという風に映るのであろう。
「いろいろ実験できたねぇ〜」
チョコチップが大量についたショートケーキを、そのままドーナッツの形にしたようなパンを食べる夏歌さんは、その鼻にクリームがついていることに気がついていない。
「そうですね…けどこの透過能力は…何の意味があるんでしょうね。まるで…何かから身を守るためのような能力ですが」
うーん…と喉を鳴らしながらも、彼女は彼女で考えを張り巡らせているように見える。
「まぁ…人に触れたらあんな怪我するし…それじゃないの?」
確かにそれは一理どころか、百理あってもおかしくない考え方だ。もしそのためにこの“透過能力”が存在すると仮定するなら、それはなぜだ?
何かから”身を守るため“なんじゃないか??
「夏歌さん、この能力…きっと生者の中にいる死者から身を守るために存在してるものだと思います。おそらくですが…望月冥以外にもきっと、死者が見える人物というのは存在するのでしょう。その中にはきっと僕らに危害を加える可能性のある人物…夏歌さん?」
そこまで言い終わって、初めてさっきまで隣に居た彼女の姿がなくなっていることに気がついた。
「夏歌さんっ!?」
僕は広く周囲を見渡す。綺麗な季節違いなイルミネーション…酔っ払って千鳥足になっているおっさん…仲良く手を繋いで歩いている制服のカップル…居酒屋の前には、何人かのスーツ姿の男性が談笑しているのが見えた。
どこだどこだどこだっ!?夏歌さんは一体どこに消えたんだ?
僕はどこへ行けば夏歌さんが見つかるかなんて考える余裕もなく、とにかく走り出すことしかできなかった。
しかし走り出して数秒と経たずに、明らかに場違いな女性の甲高い悲鳴が聞こえた。
夏歌さんだ。この悲鳴は、夏歌さんの声だ!
僕は悲鳴が聞こえた方角を目指し駆け出す。
悲鳴はどうやら、建物同士の間にある裏路地から聞こえてきたらしい。さきほどの、場違いな悲鳴に、周囲の人たちが誰も気がついていないあたり、確実に夏歌さんだ。死者の声は生者には聞こえないから。
「いたっ!!」
たった1本だけの電柱が申し訳程度に立って寂しくその場を照らしていた。
そこには、暴れている夏歌さんともう一人、誰か知らない男が立っていた。
「夏歌さんっ!!」
僕は思い切り叫び、走りながらも拾った石ころを、相手に殴りつけるつもりで駆け出していた。
だが。
「来ちゃだめぇえええええっ!!!」
夏歌さんは確かにそう叫んだ。
来ちゃだめ…?
それは一体どういうことだ?
僕の脳は一瞬だけその言葉の意味を考えようとしたが、今はそんな場合ではないと思考を放棄し、その男を殴り飛ばし、夏歌さんから距離を話すことに集中力を注いだ。
男はこちらを振り返ると、何やらその手をかざし、ぼそぼそと口を動かしていた。
瞬間。
僕は自分で自分を、石で殴りつけていた。
「あげはぁっ…!!?」
そのまま地面を転げ回り、身体のあちこちを擦りむく。
「いってぇぇ…!」
「黙っていろ、雌豚が。お前は後でたっぷり愛でて味わってやるからよお」
「ぐぅぅぅ」
夏歌さんは何か言いたそうであったが、身体が思うように動かないのだろうか、その意図を読むことができなかった。
男は、左手を夏歌さんに向け、右手を僕に向けてかざしていた。そして、僕の身体も既に自由がなかった。
身体が動かないっ…??それどころか、声を出すこともできない!?
僕の“何が起こっているのかわかっていない”様子の顔を見て、男は高笑いをあげる。
「ばかだなぁ〜いやぁ…もしかしてお前ら、まだ死んで日が浅いだろ?死者街のことも知らねえな…?よくもまあ、生者がこんなにいる中で悠長にパンなんか食べてるよなっ!!」
ケタケタと笑い、男は続ける。
「この女はこれから俺が愉しませてもらうからよぉ…お前は殺すが、何もわからず死ぬのは嫌だよな?教えてやるから安心しろよ」
「教える!?一体お前、僕たちに何してるっ!?」
いつの間にか、口は動かせるようになっていた。あの男が何かしているのだろう、しかし何をしている??
「まあまあ…“百聞は一見に如かず”ってな…少し見てろよ?おら、女ぁ…お前パンツ脱げ」
夏歌さんはその男の言葉に逆らうことができないのか、指示通りに自らが履いているズボンを脱ぎ始める。
「ばっ…馬鹿野郎っ!お前、夏歌さんに何してやがるっ!?」
僕の怒りの沸点はもう確実に超えていた。怒りのあまり、思考が鈍くなっているのを自身も感じているほどに。
「いいから見てろよ…お前もこの女のあれが見たいだろ??」
意味深にそう言うと、男は汚く口角を上げてこちらを見下ろす。
「やめろぉおおおおおおお」
必死の叫びも虚しく空を切り、男の手が彼女の局部を目掛けーーー。
「おい?そこのきみ、一人で何やってるんだ?しかもこんな場所で」
僕らがこの裏路地に入ってきた方角から、野太い男性の声が響いてくる。
警棒を腰に携え、黒い警官帽子を被り、青っぽい制服に身をまとっているその姿は、まさしく警察のそれだった。
男はこちらをチラリと見ると、少し歯軋りをして何かぶつぶつと呟き出した。
「5メートルだ…透過も使えない…大丈夫…大丈夫…こいつらは逆らえない…それより警察には関わりたくない……”あれ“がバレるのはよくない…」
中年の警官は、自分の呼び声に反応しない男を怪しんだのか、こちらに身体を進めてくる。
「きみ?聞こえているのか?それとも何か変なことでもやってるんじゃないだろうね?」
その警官の声に反応して、男は冷静な顔つきに戻る。そして、いかにも“明るい青年です”という感じを醸し出し、ペラペラと軽い口調で話し始めた。
「いえいえ、ちょっと練習してましてぇ〜…僕、演劇部なんですよぉぉ」
男は下手な態度に出ながらも、その声音は薄っぺらい紙なら切ることができるんじゃないだろうかと思わせるほどに鋭さを感じた。
「演劇部ね…まあ、少しだけだからちょっと職質いいかな?最近、危ない世の中だってことで、一応ね?」
男は少々の間を開けると、仕方ないといった素振りで渋々と警官の方へ歩き出した。一瞬こちらに目を向けて、手をかざしながら、命令口調でこう言い放つことも忘れずに。
「お前らは決してここを動くな」
読めてきたぞ…。おそらく、こいつは…僕たちのことを半径5メートルの範囲で操ることができるんだ。
男は警官と共に、ギリギリ僕たちから5メートル以内の距離の場所で職務質問を受けている。
幸いにも僕は、言葉を話す機能は奪われていなかった。
「夏歌さん、聞こえますか?まずはあいつから5メートル離れることを達成しなければ僕たちはここで死にます。さっきのあいつの発言から考えるに…あいつは5メートル離れれば、僕たちを操ることはできません」
そして透過はできないとかなんとかも言っていたな…透過ならあいつの命令をかわすことができるのか??
夏歌さんは話すことができないようではあるが、この情況で冷静にも僕の話に首を頷いて反応を示してくれている。
「いいですか?先ほど、僕はここに向かって走っている途中で、あいつに操られてしまいました。ここの裏路地に入る場所から僕たちのいるここまで、5メートル以上は離れているんです。つまり、あの警官がもし男のことを怪しんだりして、パトカーがあるであろうところにあの男を連れて行けば、確実に5メートルは離れます。そこまでうまくはいかなくとも、あいつを少し僕たちから遠ざけるようにすればいいんです。夏歌さんの方が僕よりもあいつから離れている。もしかしたら、夏歌さんだけでも…あいつから逃げられるかもしれない。かなり運任せな作戦ですが…もしあいつからの支配が一瞬でも解けたのなら、すぐに透過してこの場を逃げてください。かなり運任せな作戦ですがね…」
夏歌さんは不安と心配が入り混じったような視線をこちらへ投げかける。
「大丈夫です、なんとかするので…最悪僕が助からなくても…夏歌さんだけは、必ず助けてみせます」
夏歌さんに対して精一杯の作り笑顔を浮かべて安心してもらおうとしたが、彼女が浮かべたのはそれとは真逆の悲しい表情だった。
「…それでは作戦開始です、いきますよ」
職質を受ける男は、こちら側に手を向けつつ警官の話を聞いているようだった。思った通り、話に集中できていないみたいだ。
”手を向けつつ“。
そうだ。あいつはさっきからずっとこちらに手を向けている。
もしかして、手を向けていないと操ることができないんじゃないか??
なんのことはない、どんな理不尽の中にだって、抜け穴はあるのだ。”そこが狙い目だったのだ“。さあ、僕たちの反撃の狼煙を上げよう。
「…きみねえ、話聞いてるの?」
「えっ?あぁ…はい」
男は先ほどから、およそ10秒の間隔を開けて、こちらに目線を向ける。余程の小心者ということだろう。そして、次に男がこちらを見るまで…
5秒、
4秒、
3秒、
2秒、
1秒、
男はこちらを振り返る。それと同時に、僕は警官の口調とトーンを極力模倣し、ある一言を口に出した。
「きみ、その手に何か隠してるだろう、私に見せなさい」
瞬間、男は大きく動揺し、両手を上げて「そんなことねえっすよ」と口走ってしまう。それはほんの1秒程度のことだったが、それだけあれば充分だった。
気づいた時には既に遅しで、僕はこれを待っていたのだ。男の心理状態を見抜き、利用したのだ。
「よし、動けるっ!あいつから逃げますよっ!!!」
僕と夏歌さんは指を鳴らし透過すると、男と警官がいる方向とは真逆の方へ駆け出す。男の中で優先順位が変わったのか、男がこちらへ走り出して来るがもう遅い。
僕らは路地を抜け、走る、走る、走る。
「夏歌さんっ、運転免許持ってるんですよねっ!?」
息を乱しながらも、僕は目の前に駐車していた赤い車を指さした。
「でっ、できるけどそれがなにっ!?」
「よしっ!!ならこれで逃げれます!」
僕は透過が解けるとすぐに、車内でサングラスをかけた男性が椅子に座ってくつろいでいることなどひとかけらも気にせずに、ドアを開けて中のものをとにかくガムシャラに外へ放り出した。
車の中にいたサングラスの男は何が起こったのか理解できてはいないようだったが、慌てて車外へ飛び出し、落ちたものを拾い始めた。
「今です!乗ってください!運転してくださいっ!!」
僕はそのまま運転席から助手席に座り、夏歌さんは一瞬戸惑った表情を浮かべるも、すぐに切り替えて僕の指示に従ってそのまま車に乗り込み、アクセルを踏んだ。
「ふう…危機一髪でしたね…まだ逃げ切れてはいませんが…」
周りから見ると、この車はどう映っているのだろう。無人で動く車とは、もし周知されれば、もしかしたら“飛鳥通りの都市伝説”なんてものが作られるかもしれない。
夏歌さんは一言も返してくれない。肩を震わせて、下を向いている。それもそうだ、さっきまであの男に何をされるかわかったものじゃないような状況にあって、今だって完全に逃げ切れているわけではないのだ。
「逃げれるところまで逃げてしまいましょう、やつもここまでは来れないでしょう」
そう言うと、夏歌さんの顔がわずかに上がり、“そうじゃないかもしれない”と呟いた。
「そうじゃないかもしれない?どういうことですか??」
「……さっきね…私、奴隷がどうのこうのって言われたの」
「”奴隷“ですか?…それは一体…」
「なんか…私を奴隷にする契約がどうとかって…」
ゴドンッ!!!!!爆音が轟き、ボンネットが破裂する。乗っていた車がスリップし、近くのビルに突っ込んでしまった。
上から何かが降ってきたのだ。
「っつぅうう…!!なんだっ!?何かが落下してきたっ!!」
僕も彼女もボンネットが破裂するほどの衝撃に無事で済むはずがなく、多少の怪我はしたが死者なのでいずれ怪我は回復するだろう。問題は、今何が落ちてきたのかということだ。
すぐにドアを開き、車から降りて車の真前部分を確認すると、そこには蒸気に包まれた黒い肉塊があるだけだった。
「なにっ…これ…これは…??」
本当にゾッとする。落ちたきた場所が少しでもずれていたら。ボンネットよりも、もう少しだけ後ろであったのなら。
「何かの…肉塊…でしょうかね…?……いやっ!違うっ!これはっ!!!」
目の前にあるものはただの肉塊なんかじゃない。死者が上から落ちてきた、その成れの果てが目の前にある塊だ。身体がぐちゃぐちゃになっていて、確実にそうとは断言もできないような跡ではあったが、こいつの…お腹だろうか?その辺りの部分に、人間の足のような形がくっきりと残っていた。
「これは死者です!!この蒸気…こいつまだ生きてます!!」
何かやばい。一瞬、こいつは僕らと同じ”死者“だから、味方だろうかとも考えた。けれど、やっぱりどう考えてもおかしい。このタイミングで、この車にボンネットが破裂するぐらいの威力を生んだ高さから落ちてきたなんて…こいつのことは”敵“としか考えられなかった。
「とにかくここから離れましょうっ!!いざとなれば”透過“もあります…そろそろ5分経つはずだ…左手と右手…”2回分“は透過も使えます…!隠れましょう!!」
僕と彼女は道路を挟んだビルの中に入り、その頂上を目指した。
「どうしてビルの上なんかに行くのっ!?袋小路じゃないっ!!」
確かに。普通に考えればそう思うかもしれない。だが、僕には”策“があった。”普通“を超えたぶっ飛んだ”策“が。
「任せてください!!常識で通じるような策では逃げられません!きっとさっきの肉塊は…夏歌さんが言っていた”奴隷“という類のものでしょう…あの奴隷が他に何人いるかもわかりません!普通なら考えないような逃げ方をするか、あの男を殺すかしないと逃げられないと考えるべきですっ!!」
あの奴隷…男の命令をただ聞くだけの存在ということだろうか?同じ死者という立場であるなら…あの死者一人だけなら、僕たちでもなんとか対処できるかもしれない。
整理してみよう。僕らには透過能力がある。そして死んでも”死なない“身体がある。…不利なのは、半径5メートル以内に入られてしまえば操られてしまい、なす術がなくなるということ。
…大丈夫。イケる。イケるはずだ。
「夏歌さん…”覚悟“を決めてくださいっ!奴らが来るまではビルの屋上でやり過ごします。やってくるというのならば…このビルからどんどん隣のビルに飛び越えて逃げますっ!!」
「えぇ〜っ!?しせいくん…それ、本気で言ってるの!?」
夏歌さんは”絶対不可能“と溢していたが、やるしかないんだ。
「僕たちは怪我をしても死にません!それに加えてやつは生身の人間!!ビルから落ちることはできないでしょう、これが今考えられる一番のベストです!!」
そこでどこか遠くからボバンッという破裂音が耳に届いた。なんの音だろう?
ビルの階段の窓。そこから。何か黒い物体がこちら側を目掛けて勢いよく飛来する。
「危ないっ!!」
とっさの判断で、夏歌さんを突き飛ばすと同時に、窓ガラスが勢いよく綺麗な粉状に飛び散り、その中心からは弾丸の如き速さで、弾丸とは比べ物にならない大きさの物体が目に映った。
僕はガラスの割れる音など聞こえる暇もなく、飛来した何かに吹き飛ばされてしまう。
「ぶぅぅぅぐはっぁぁああああああああああっ!!!!!!!!!!」
一枚目の壁を破ったところで、ギリギリ右手を鳴らすことに成功する。身体が透過し、僕に突撃してきたそれはさらに奥へと飛んでいった。
一枚目の壁の時点で透過できたとはいえ、ビル内の壁を突き破るその勢いは、容易に僕の身体をぐしゃぐしゃに潰した。
呼吸ができなかった。口からは掠れた音と溢れ出る血しか出るものがなく、先ほど見た肉塊に…今度は僕自身がそうなったような…そんな気分になった。
「おいおいおいおい…絶対に動くなよ…ってぇ…言ったよなぁぁあ?」
その時、物体が飛んでいった方角から女性のものと思える声がする。
こちらへ歩いてきたその女性は左腕がなかった。しかし、その両足には何か黒く四角形の機械をつけていた。
この女性も“透過能力”を使ったらしく、ビルを破片を擦り抜けて歩いて…いや、滑っているの方が表現としては正しいだろうか。その足からは蒸気が上がっていることが目視できた。おそらく、透過能力を使用しないとこの女性自身の肉体も衝撃でズタボロになってしまうんだ。
なんだ…あの足についてるものは…。“透過”を使ったはずなのに…足についたままだ。僕は霞む視界をギリギリで保ちつつ、両足を視野に抑えようとしたが、そこまで誤差のない時点で使用したであろう透過能力が、双方解除されると同時に僕の頭をその蒸気の出ている足で蹴っ飛ばされた。
「ぎゃふぅっ!」
「ほんとよぉ〜まじで勘弁してくれよな。警察にバレるとやっかいな事情ってのがある”使役者“ってのもいるんだからよ?ああ…使役者ってのは…お前らみたいな”死者“を目視することができる人間のことを俺たちはそう呼んでいるんだ」
”使役者“…俺たちってことは…こいつは他に何人か、その使役者を知っているということか。しかも…おそらくそれは…こいつの仲間。
「いいか?お前ら死んだ弱い人間が…生きてる人間様に勝てるわけねえんだ。俺たちはお前らを奴隷のように”使役“できるから“使役者”と呼ばれているんだがな…?きちんとした“契約”をすると…距離だとか関係なく操れる上に、こうやって“生者”が“死者”に取り憑くこともできるんだぜぇ〜」
男に憑依されている死者である女性の嘲笑したその目つきは、まさしくあの男のものだった。その目は、僕と夏歌さんを交互に捉える。
「ひいぃっ」
「やっぱ可愛い声で鳴く女じゃねぇかぁ…まぁ、本人じゃねえと…その契約はできないからな。くくく…本体はこっちにもうすぐ着くからよ…世間話でもして待ってくれや…今すぐ殺されたくなかったらな?ふふ」
「“契約”…だと?それに、その…その足はなんだ…?」
僕はこの場を対処する方法を考えつつも、気になる情報を聞き出すための質問を繰り出す。
「ああぁ〜そりゃあ聞きたいことがたくさんあるよな…“死者街”のことすら知らない素人死者だもんなぁ〜」
女性は髪を片方残っている右手を使いかき上げると、話を続けた。
「“契約”はさっき言った通り生者と死者が交わす誓いみたいなものだ。まぁ…一方的なんだがな?力でおさえつけりゃ簡単よ。この世界は理不尽だからよ…お前らみたいな、死んじまったくせに死に切れてないカスは特に立場が弱い…俺たち“使役者”の血で身体のどこかに専用の印を描けば完了ってわけよ…ちなみにこの女は胸のところにつけてやったよ…嫌がってる時の顔…悲鳴ったりゃほんと…いいストレス発散になったよなあぁ〜」
目の前の死者は気味の悪い笑い声をあげると、「草ぁあ〜草ぁあ〜」と両手を広げて叫び出す。
「そしてこの足な…」
足に指を指してから、右手でいかにも愛おしそうにすりすりと装着されている機械をなで始める。
「この足はな…この情報をお前に渡すわけにはいかないからよぉ?そうだな、”反死者“って言葉だけは教えてやるよ…いやぁ大変だったよ“反死者”であるこいつを奴隷にするのはさ…しかし本当は契約後に”左腕”以外もと思ったんだが、一度奴隷にしちまうと…いやぁ、これは話しすぎだな…いかんいかん、俺の悪い癖だよな…直さねえとな…??」
それだけ言い終わると、指をパチンと鳴らし、こちらを見下ろし再び悪質な笑みを浮かべる。
「おやおや…ついに見つけたぜ…ここのビルだな?今からここに俺が来るぜ」
本体がここに来る。……打開策は何も見つかっていないじゃないか。どうすればいいんだ…考えろ考えろ考えろ…!!それとも僕には結局何もできないのか?
ビルの階段を登る音が聞こえる。
目の前の女につけられた傷の方は、時間を稼げたおかげかだいぶ良くなってきた。
そして…幸か不幸か、このタイミングで死者である女が左右に肩を揺らし始める。
そうか…!|おそらくもうすぐこの女の憑依が解ける!!本体である男がここに来るから、もうこの女に憑依する必要がないのか!?それとも近い距離だと憑依ができないなどのルールがあるのだろうか?
女の目から男の影が消えた瞬間、僕は女を階段から落ちるように突き飛ばし、震える夏歌さんの手を取り、ビルの屋上を目指し駆ける。
「しせいくんっ…!!どうする気なの!!?」
「わかりませんっ!!けど逃げるしかないでしょう!!!」
“逃げる”。そんな選択肢を、神は…理不尽は許しはしなかった。
足が踏んでいる階段が、ちょうど次の足を置きにいくべき階段が、丸ごと崩れて、真下からあの女が飛び蹴りのような格好で飛び込んで来た。
ギリギリのタイミングで夏歌さんを無事で済んでいる上の階段へ突き飛ばせたが、先ほどと同じように僕だけは攻撃を避けることができず、蹴りはそのまま腹に吸い込まれるように直撃し、指を鳴らす余裕などなく、ビルの屋根となっている部分を超え、僕はそのまま空中へ吹き飛ばされる。
「がはぁぁぁぁぁぁぁぁ、ぐうはぁぁううううううううううううううう」
断末魔の叫びとも取れる悲鳴が、飛鳥通りの夜に虚しく響き渡る。
僕のお腹は引きちぎれ、上半身と下半身を繋ぎ合わせているのは、もはやいくつかの臓器だけであった。
焼けるように熱い、熱い、熱い…けど、まだ助けられてない。
このまま地面に叩きつけられれば、僕は死なずとも肉体は四方八方に吹き飛び、次に再生された時には…もう全てが終わってしまっている。
僕は…どうせ死なないんだっ!!
気が遠くなるほどの痛みだからこそできた芸当だったのかもしれない。逆にそういう状態が功を奏した。僕は自分の臓器を引っ張り、下半身を右手で手繰り寄せて掴むと、地面に落ちる体制を取った。再生が終わり次第、すぐにでもビルの上に戻る体制を。
この凄まじい勢いの風…皮肉にも自殺した時に味わったから2度目だよ。目も開けられないほどの風だったかもしれない。だが、そんなことは関係なかった。一度、高さがあるところから落ちた経験がある人にしかわからないだろうが、だいたいどこぐらいの高さから落ちたら、地面にはどのぐらいの時間で辿り着くか、なんとなく僕は把握していた。
今だっ!!
僕は左手の指を鳴らし、透過能力を行使する。
“地面”が見える。
僕の身体は予想した通り、そこに叩きつけられることはなく、わずかに浮いたところで静止した。
僕は自分の上半身と下半身をくっつけると、出てくる蒸気や熱に耐え、痛みを感じる間もなく、ただひたすらに“治れ”と念じ続ける。
唾液に血が混じり、生臭い鉄の味が口内に広がっていた。口の中にドロドロした赤い鉄が広がっていた。全身が痛い。痛かった。確かに痛かった。しかし、これならイケる。あいつを倒す。殺す。
あまりの痛みにアドレナリンが異常なまでに分泌された影響なのか、僕の思考回路は普段とはあまりにも種類が違った。
その場に静止して1分。
僕は繋げた下半身が動けることを確認できると、先ほどのビルの中へと走り出す。
右手の方の透過能力は、そろそろ回復するだろう。ここでどうやってあいつを“ぶち殺すか”が重要だった。
上に向かって駆けながらこのビルが”祭りなどのイベント“に携わる企業や建設会社関連のものだということを、目に入る看板や文字から悟る。ここなら”あれ“が手に入るかもしれない。
僕がその”あれ“を探していると、先ほどの女が階段の上に立ってこちらを見下ろしていた。
「てっきり”死んでいる“と思っていました……そうでないなら…あなたには申し訳ないですが…ここで死んでいただきます」
その口調は先ほどまでのものとは違い、それは彼女が男に憑依されている状態でないことを示していた。
「なんだよぉ…さっきとは口調が全然違うくせに…殺すって態度は一緒なのかよ…!」
こいつに透過能力を使っている余裕はない。こいつの弱点は近接攻撃だ。この女の足についた機械は爆発し、それを利用して加速し相手を蹴り抜くためのものと踏んだ。だとするならば…!!
僕は相手がその武器を使用する前に、この女をビルから落とそうと全開で加速し体当たりの姿勢をとる…も、それは認識が甘かった。
「ぶふぅっ!」
彼女の右足だけが、弧を描くように蹴り上がり、僕はなす術なく後方に転がり落ちる。
意図せず、結果的に防御できただけの僕の右腕も引きちぎれて。
「ぐうぅぅぅぅうううううっ!!!」
僕は痛みを感じる余裕などないと、即座に右腕を掴むとそれを接合するために、離れた部分同士をくっつけ合わせた。
「あなた…死んでまだ日が浅いのでしょう?なのにどうしてですか?そんな…”反死者“でもないのに…一体何に抗っているのですか?」
「反死者だとか死んでるとか、そんなのはどうでもいいんだっ!夏歌さんを奴隷になんてさせてたまるものか!!僕は彼女の助けになってみせる!!」
「悲しい人ですね…。わかりました。あの男”泰村進京に酷い方法で殺されるより、私が楽に引導を渡して差し上げます」
僕は階段から離れ、“工具室”と書かれたプレートが貼ってある部屋に入った。ドアからではなく、空いていた穴からだ。この女がずいぶんとこのビルを破壊しているから、おそらくはその過程で生じたものだろう。女は追ってこない。きっと、あの武器で壁ごと僕をぶっ飛ばすつもりでいるのだ。
それなら!僕はそれを“受け入れて”、“乗り越える”だけだっ!!
僕は工具室の中にあるいくつかの電動工具の中から、”チェーンソー“を手に取り、中にチェーンソーオイルと混合ガソリンが入っていることを確認した。
そのまま電源を入れ、レバーを引き、ブルォォォンというチェーンソー独特の重低音を鳴らす。
本来であれば、音を鳴らすのはまずい。こちらの居場所を教えるようなものだからだ。しかし…この方法で戦うのが一番可能性がある。
こっちへ来てみろ、その足ごとぶった切ってやるよ。
その処刑マシーンとも呼べるチェーンソーから、手を伝い、振動が全身に波打つ。
響く振動音以外何も聞こえない“数秒の静寂”が流れ…ついに”音“が響く。
工具室の壁がぶち抜かれ、轟音と共に女の蹴りがこちらへと飛んでくる。
蹴りを打ち込んでくるその足へ、チェーンソーを叩き込む。
”パチン“
女の身体はそのまま僕を通過するーーーと思いきや、その足は”僕の顔がある部分で“静止した。
「なにぃっ!?この武器…空中で静止も可能だったのかっ!??」
「透過してる時だけ特別で…力加減を使用してる最中も変えることができるんですよ…透過が解除されるまで残り9秒…あなたがどこへ逃げても追跡します。あなたが透過を使っても、透過が解除された時にベストな状態で一撃を加えます。」
僕の顔面は、この女の透過が解けた瞬間、爆発し続けている足の機械に巻き込まれて吹き飛ぶ…ということか。
しかし、僕の持っているチェーンソーも女の顔面が透過しているところに合わさってある。こいつ…相討ちするつもりか??
「透過…あなたは今、あと一度しか使えませんね?10秒程度結果を先延ばししようと…どうとでもなります、使ってもいいですよ…その後”殺します“」
今、透過を使うべきではない。この女のいう通り、現在の僕には1回分の透過しか残っていない。次に左手の分の透過が回復するまでに…まだ2分はかかる。2回分残した状態でないと、あの男に勝つのは難しいだろう。透過が使えてる状態ですら勝つことは難しいというのに。
「残り4秒…3…」
「くっそぉっ!」
僕はチェーンソーを持ちながら、前方へ前方へとがむしゃらに直進するも、女の足もその動きに合わせて、機械からガスのようなものを噴出しながら、確実に僕の頭を追尾して迫ってくる。
これでは、透過が解除されると同時に僕の頭だけが吹き飛ばされ、後ろから迫っているこの女に対して、僕は攻撃を当てることができないという図式が成立してしまっている。
このままではいけない…ちくしょう!
「1秒」
右手をやけくそになりながら甲高く鳴らすと、右手に持っていたチェーンソーのことも透過してしまい、チェーンソーは僕の手を離れ、地面に刃が当たったところが削れてしまっていた。
女の足の機械がガス圧の噴射をやめ、その場に着地するとチェーンソーを拾い、後方へ走り出した。
まずい。
女はそこら辺にある工具をチェーンソーで破壊し出す。それを透過状態の僕は見ているだけで何もできなかった。
ここにある工具が武器なのだ。僕に残された、あの男“泰村進京”とこの女に勝つ希望だったのだ。
どうすれば…慌てふためいても時すでに遅く、目の前ではチェーンソーによる工具のデスパレードが繰り広げられる。
「あ…あと5秒くらいですか?…透過が解けたら、この足の“神風“を使うまでもありませんね…このチェーンソーで殺して差し上げましょう…あと3秒」
振り上げられるチェーンソーをその目に入れながら、僕の頭には一つの打開策が生まれつつあった。そうだ。こいつもやっていたじゃないか。
2秒。僕は前方に全力ダッシュで体当たりをする。目標は女の身体の中心部だ。
「なっ!?」
1秒。僕の身体が女の身体に重なる。
「ここならどうなる…?なぁ、生者にやったら僕が死ぬのかもしれないが…あんたは僕と同じ死者だっ!!さあぁ…どうなるっ!??」
0。
彼女の身体が重なっていた面積の部分が瞬間的に締め付けられ、呻き声を出さずにはいられなかったが、その一瞬を過ぎると生暖かいドロドロとした液体が僕の全身に垂れ、鼻についた。
彼女の分断された肉体が地面にボトボトと転がると、僕は戦っていた時間を頭の中で計算する。左手の透過回復までに、あと1分半はかかるだろうか。
しかし、泰村進京と戦う前にどうしても必要な”あれ“を先に探していたのだ。
その時間を考えれば…ちょうどいいだろう。待っていてください、夏歌さん。
僕は階段側にあるビルの“外側”を素手で登っていた。幸いにも、あの女が僕を屋上を超えて蹴り飛ばした時の破壊で、ビルが素手でも登れるように凹凸の形状の傷がところどころにできていた。
死者になったせいか、身体が軽い。生きていた頃の生身では絶対にこんな芸当は不可能だ。
女との戦いから…大体3分が経過していた。”これからの戦いの準備をしていたのだ“。左手の透過能力はすでに回復している。右手の透過が使用できるようになるまで残り1分半と少しといったところか。おそらく敵は…屋上にいる。
半径5メートルあいつの手がこちらの方向さえ向かなければ、あいつは僕を操ることができない。と、僕はそう考えていた。
一瞬ではあったが、“右手が壁から離れようとしなかった”。
まさか…!
手当たり次第、手を下に向けて操ろうとでもしているのだろうか??
もしこの状況で身体操作を委ねる結果になりでもすれば、僕は再びビル下の地面に向かって落下することとなるだろう。
だが、そうなることはなかった。
「おーい!!しせいくぅ〜ん!早く登っておいでよぉ!!」
頭上から夏歌さんと思わしき女性の声が聞こえてきた。いや、これは夏歌さんの声だ。
「大丈夫、“2人で”待ってるよぉ〜!!」
おかしい。何かが変だ。嫌な予感がする、悪寒が全身を震わす。
早く行かなければ。ただそれだけを思った。夏歌さんの無事だけを願った。
“けどやはり”。
現実は何一つ弱者に寛容ではなかった。
僕は屋上に到達すると、紛れもない事実ではあるが…同時に受け入れることを到底許容できない現実を目の当たりにすることとなった。
足を組み屋上に設置されているベンチにだらしなくもたれかかる泰村と、笑いながら悲しげな表情を浮かべる夏歌さんとが、こちらを見つめている。泰村とは…5メートル以上は離れているようだ。先ほどはビルの屋上を歩き回って、僕がセンサーに引っかかることで、いつ僕がここに来るのかを確かめていたに違いない。そのまま落とせばよかったものを…この男はきっと、この状態の夏歌さんを僕に見せるためにあえてここまで何もせず、僕を登らせたんだ。
「よく来たなぁ…ほんとに褒めてんだぜぇ??いくら死者って言っても“脳味噌が”修復不可能なダメージを負うと、回復できずに死んじまうんだけどな」
“脳味噌が破壊されると死ぬ”?本当か?それであの女は、僕が“てっきり死んでいる”ものだと思っていたのか。そして執拗に頭を狙って攻撃してきたのは…それを知っていたからか。だが、今はそんなことはいいんだ。置いといて、いいんだ。
「夏歌さんを…どうした…お前」
夏歌さんはただただ笑みを浮かべていた。口角を上げ、普通であったら可愛いと感じるであろうその笑顔も。目から涙が滲み出ていれば…それは、それは。踏みにじってはいけない領域を泰村が超えたという何よりの証拠だった。
「お前を…殺す」
「ほう…いいのかい…“俺と戦うということ”はぁ…“胚戸夏歌と戦うこと”にぃ…他ならない…それはそれは、イコールの式なんだぜ?」
“はい!イコールっ!!”と甲高い声で叫んでは両手を上下平行に身体の前に出す泰村のその仕草は、さらに僕のアドレナリンを分泌させていた。
夏歌さんが僕の前に立ち塞がる。その手に短めのナイフを握りしめて。
「しせいくん…ごめんね、“私を殺して”」
涙を流しながらも笑うその表情に、僕は一頻り続くだろうというやるせなさを感じてしまう。
「ごめんなさい、夏歌さん。少し痛いかもしれないけど…あなたを退けて“あの男”…泰村を殺します」
僕はその場を勢いよく蹴ると、ズボンのポケットに入れていたペンチを、夏歌さんのナイフを握る手に目掛けて投げつけた。
夏歌さんはそれをかわせず、ペンチは直撃し、ナイフを落とす。そういう流れを作ろうとした。そうなるはずだった。
夏歌さんは僕がペンチを投げると同時に、持っていたナイフを遥か上空に投げ上げる。そして反対の左手をパチンと鳴らすと、透過状態になった。
「夏歌さん…一体何をするつもり」
言い終わる前に爆音が轟く。ああ。自分が“楽観視野郎ではない”と自負していたつもりだったが、結局…局面を見渡す能力に劣るカスというこの僕は、ここのビルに工具室があることを利用していたのが、僕だけでなかったとようやく理解した。
“ダイナマイトだ”。
ダイナマイト:ニトログリセリン(常温では液体で、8度以下で個体となり、その性質はわずかな衝撃で爆発するというもの)を利用し作られた爆弾で、近隣住宅がない場所での解体を行うときに使用することもある。
僕の身体は熱風に吹き飛ばされ、屋上のフェンスに叩きつけられる。体重があまりない“死者”の状態であったからか、フェンスは壊れることなく、僕を助ける結果になった。
しかし、ダメージは確実に残ってしまっている。
僕は身体のあちこちから蒸気を吹き出しながらも、その眼光を目の先に佇む男に向けて、鼻を鳴らし闘気を保った。
目の前の男に集中を向ける。“夏歌さんがいない”。彼女は囮役だったのか?その方がありがたい。“念のために”と、僕は用意してきた“スイッチ”を押して、一歩…そしてまた一歩と着実にその足取りを進める。
カンッと金属音が鳴り響く。夏歌さんが先ほど空中に投げたナイフだ。瞬間的にとはいえ、そこに目線を捉われてしまった。
「ぶへぇっ!?」
後ろから何か“冷たくも重いもの”で後頭部を打たれ、男がいる方へ身体が押し出され、進みたくなくても進んでしまう。
なんだ…?まずい…なんだ??このままじゃいけな…でも“何に打たれた”…??
後頭部をやられたせいか、視界がぐらついて、思考もうまく回らなくなっていた。
千鳥足でもたつきながらも、最終的にはその場に倒れ込んでしまった。
男の拍手が聞こえる。
「はいはいはいはい、夏歌ちゃんナイスぅ〜、ぐっちょぶだよ」
“グーグー”という声がすると共に、男の拍手も止んだ。
「うっ…うっ…」
僕は自分の身体を人形のように操られ、おぼつかない足取りで立ち上がり、さっきの答え合わせをさせられることになる。
僕の後方には、どこから持ってきたのか…金属バットを持つ夏歌さんがこちらに向かって歩いていた。
そして更なる打撃を喰らう。何回も、何発も。叩かれ、殴られ、打たれ…
金属バットの嵐は鳴り止むことを知らなかった。
身体中の骨が折れていることを理解する、理解するだけの理性を保っていられる自分にも驚いていた。
身体中が熱い。こうしている間にも、傷を回復すべく肉体が再生しているのだ。
「さてさて、ゴミクズのてめえはどうしたいぃ?しせいくんだっけかぁ…お前も俺の奴隷になるかぁ?それとも…ここで惨めに死ぬかい??」
何がそんなに面白いのか、泰村の笑い声は収まることがなかった。
「いやぁ…本当によくやったよ。お前はさ。奴隷にしたら結構優秀かも…とか思ったからよぉ?声をかけたんだけどな。今…何につけても“兵隊”が必要なんだ。“死者街”で…っとぉ…また出た悪い癖ぇっ〜!!」
僕を再び立たせると、泰村は冷徹な表情に直る。その凍てつく視線で僕を射抜き…問いかけを続ける。
「いや結構マジなんだよ…お前、奴隷になって“死者街”の殲滅に協力するなら活かしてやるぜ…お前にその」
バヒュゥゥゥゥゥン。勧誘が終わるより先に、“それ“が泰村の奴隷だった女が蹴り上げた時にできた大きな破壊痕から、次々と打ち上がる。
「これは…?」
そのうちの数本が”泰村目掛けて“飛来してきた。
「てめえぇっ!!これ打ち上げ花火かぁっ!?」
泰村は夏歌さんに自分を守らせようと命令するが、打ち上げ花火の軌道を読むことは彼女にはできなかった。死者が奴隷になった時のスペックは、当然そのまま引き継がれるので、夏歌さんでは到底…花火を捌き切るなんて不可能だった。
僕はニタリと笑い、左手を鳴らす。
”体量の打ち上げ花火が屋上を襲う“。工具室にあったスイッチを押すことで作動するバーナーをうまく使い、ありったけの打ち上げ花火が屋上に襲来する様に設置しておいたのだ。
”そして“僕の攻撃はそれだけでは終わらない。
透過と同時に、服に隠し持っていた数本の打ち上げ花火が空中に放り出される。飛んでくる打ち上げ花火に引火し、それぞれが好きなように、その役目を全うしようと飛んでいく。
そのうちの2本が泰村のいる方角へと向かう。夏歌さんは周りを飛び交う花火に手一杯といった様子で、泰村の危機になど気がついてもいなかった。
「ぃぃぃ、ひぃぃぃっ!!!」
泰村は命中した打ち上げ花火によって、その身体をスケートのダブルアクセルのような具合で数回転して吹っ飛ばされていた。泰村がぶつかった衝撃で、泰村の後方にあったフェンスが倒れる。
“これだけでは終わらせない”。僕は残り透過時間2秒の段階で、泰村の元へと辿り着いていた。
「あんたの奴隷にされていた女性に教わったことで、お前を殺してやる。僕にできるせめてもの…“復讐”というやつだ」
泰村の腕が僕の透けている身体に重なっている。
あと1秒。
透過が解除された後、僕の方にダメージが入ることは“わかっている”。そんなことはどうでもいいのだ。僕がしたいのは…。
0。
透過が解除された。泰村は死者ではなく生者だ。だからこそ、泰村の腕が吹き飛ぶのではなく、逆に泰村の腕が僕のお腹を抉る。だが、それがいい。
煮え切るような熱を僕のお腹辺りに感じる。熱い。痛い。それはもう、死ぬほど。
このままこの体制でいれば、泰村によって、僕は内側から溶かされてしまうだろう。
そんなこともさせない。僕は、“泰村の腕が僕のお腹にくっついている内に”と、倒れたフェンスを乗り越えて、3度目の飛び降りを決行する。
「幽霊になんてなるなよ、きちんと“死んでくれ”」
「うぁぁぁあああああやぁぁめろぅおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
泰村の絶叫が耳に響いたから、僕は“うるさい”と一言付け加え、右手の指をパチンと鳴らそうとしたが。
泰村の最後の抵抗だろう、僕のお腹から突き出した“彼の手”が、ちょうど僕の右手を操れる位置付けに佇んでいた。
泰村に目を向けると、泰村はその汚い笑みをこちらへ向けて、“ありったけ”と形容するにふさわしい声量で叫んだ。
「こうなりゃぁあああっヤケクソだぁぁあ!!いっしょぉによぉぉぉぉっっっ!???“死んじゃおう“ぜぇえええええええええええええっ!!!!!」
高所からの落下ゆえにつきまとう風で地面がよく見えないが、なんとなく”もうすぐ“叩きつけられることだけはわかってしまった。
「やめ」
1回だけ”プツン“という音がすると、痛みもなく眠りにつく瞬間に似た感じで、僕のまぶたは閉じていく。
目前には虚空とも呼べる”暗闇“だけが残った。
「ぶ…」
うん…?
「い…ぶ…」
なんだろう…??
何かが聞こえるような…ここはどこだっけ…僕…何をしていたんだっけ…?
「…んのか…おい…て…し…だろ……」
女性の声だろうか。女性にしては少し低音だが、そのハスキーと言える声は僕に対し、どこか安心感をあたえてくれた。でも誰だっけ…誰の声だっけ…。
「大丈夫っ!?聞こえてんのかよお前っ!!!」
いきなり耳に怒声が響く。
「んわぁぁっ!??あ??」
僕は目を覚まし、身体を起こすと目の前にはどこかで見たことのあるような女性が立っていた。この既視感はなんだろう…?
「んー、やっと起きたかよ〜。お前死者だっしょ?触れないかんさ〜、こう起こすしかなかったんよな!」
というか。
“死者だっしょ”の部分に反応して、僕の体は身構える。
目の前の女性は敵か…?生きている“生者”であることは確実…いや、もし敵なら僕が気を失ってた時に僕のことを奴隷にするなり殺すなりしているだろうか…?
「あ…敵じゃないから安心していーよ、敵ならお前が寝てる時にもう倒してるっしょ」
……それもそうだ。ひとまずはこの人の言葉を信じよう。というか、今はそんなことをしている場合じゃなかったような。
「いやぁ…“死者街”でもないのに、見た感じ”ただの死者”っぽいお前がどうしてこんなところにと思ってさぁ…後ろのビルが警察沙汰になってるのが気になって見にきたらさぁ?人が倒れてるのに誰も見向きもしないわで…まあ、“飛び降り自殺”の現場ならそういうこともあんのかもしれないけど…いや、やっぱねえな、したら“この見向きされない倒れている男“は死者だなぁって思ってね」
ビル?警察沙汰??よくよく注意してみると、サイレンの音がこの辺り一帯に鳴り響いていた。
「えっと…?あ。あ…そうだ、さっきまで”あいつ“と戦ってて…僕は運良く脳まで壊れなかったから助かったのか…夏歌さんはっ!?……すみません、この辺りで黒髪の女性の死者を見かけませんでしたか???」
慌てふためきながら質問を繰り出す僕に対し、両手で「まあまあ」となだめ、女性は言う。
「聞く感じ…お前は誰かもう1人の女性と一緒にいて、そこを”使役者“に襲われたんだな?」
「…そんな感じです」
「…一つだけ聞くが、その女は”奴隷“の契約を結ばれたりしたのか?」
目の前の女性は、先ほどまでとは打って変わって、真面目な様子で僕に向かって質問する。
「ええ…夏歌さんは、彼女は…”奴隷“になっていたはずです…でも、彼女と契約した”使役者“は死にました。もしかして…あいつがいないと”奴隷“の契約って取り消せないんですか?」
女性は自らに顎に手を乗せると、少しため息を吐いて、こちらから目を離した。
「…”その人は死んだよ“」
何を言っているんだ?僕は言われたことに頭が追いつかず、よく理解することができなかった。
呆然とする僕を見かねたのか、彼女は説明口調で続けた。
「”奴隷“の契約を結ばれた”死者“は、契約主である“使役者”が死んだら、一緒に消えてしまうんだ。世の中は理不尽に作られている…弱者は強者に虐げられ、犯され、喰われ、嘲笑われ、利用される。“死者”なんて形でこの世に留まっちまう奴は…“弱者”と認定されるんだ…“死者は生者には勝てない”のが前提ルールなんだ」
唖然としてしまい、口から言葉を発することができない。
「“飛び降り自殺”…ああ、そうか…お前…“その男”を道連れに落下した結果、ここで一度バラバラに散ってるんだな…そうか……ならきっと…その女の人は、お前に感謝してると思うよ。奴隷になったってことはお前の前にも立ち塞がることになったはずだ。けど、お前は“戦った”んだろ?逃げずに”抗った“んだろ?…お前のその姿勢が、その女の人を心から”感謝“の気持ちで埋めたはずだ」
「感謝…?」
「そうだ、”死者“っていうのは…本当なら死んだ後、人間はこの世に留まることなく、遠いどこかに行くはずなんだ。ここに留まるってことは、それなりの理由がある人間だったってことなんだ。だから、感謝してるはずだよ…きっと」
僕はなんだか前を見ていることができず、目線を下へ下げてしまう。
地面には捻ったばかりの蛇口を彷彿とさせるように、寂げなリズムで水滴がぽつぽつと落下していた。
僕らはその後、ビルの屋上に立ち入った。この女性は”ジャーナリスト“をやっているらしく、特別に屋上に立ち入ることを許可されていた。
それなりの人脈を持っていると自称していたが、案外それは本当のことなのだろう。
屋上には彼女は持っていた金属バットなどがまだ現場検証として残っていた。
彼女は安らかに逝けたのだろうか。
この女性の話だと、“死者はこの世に残した未練を達成して死ぬ”…つまり“成仏”することで全てから解放されるらしい。地獄から、解き放たれるらしい。
それが、”死後理論“だと彼女はそう言った。
僕らは幸福に飢えているのだ、きっと。
“生きる”ということは…不幸を前提としている。
容姿のよくない者は、周りから評価されるために他の分野で抜き出ることを求められるくせに、容姿が良くないと他の分野ですら上に行くのは難しいという理不尽。
生まれた環境のよくない者は、その不幸のせいで虐待を受けたり、ろくにご飯も食べられなかったりするくせに、這い上がるためには学習環境などが揃っている人以上の努力を強いられる理不尽。
生まれ持った障害がある者は、周りの普通という価値観に勝手に合わされ、異端者扱いを受けるが、普通なんてものは存在しないという綺麗事を言われて、結局都合よく社会から跳ね除けられる理不尽。
“僕らは理不尽を生きている”
その理不尽に負けて自殺してしまった僕は、この理不尽をさらに背負うことになってしまった。幸福を求めて…死ぬことが理不尽を克服することになどならないのに。
僕は何を未練としているのだろう。自分をどうしたかったのだろう。何をされたかったんだろう。
今はわからなくても、それを探していくしかないんだ。止まったっていい。
“でも、進むことでしか理不尽とは戦えないんだ“
もし僕がこの理不尽と向き合ってきちんと進んで行けたら。
どこかの誰かが…それを見て進んでくれるだろうか。何かを考えることができるだけ材料を受け取ってくれるだろうか。
夏歌さん…彼女が最後何を思ってこの世を去ったのかは、今となってはわからない。
どうか…その未練が僕の”理不尽に立ち向かった“姿で達成されて、ちゃんと成仏できたということを…僕は祈っている。
question.1
生きて幸福になれない人間は、死を選べば幸福になれるであろうか
answer.1
死をさらなる不幸を呼ぶだけで、死者は生者には勝てない
question.2
この世の理不尽は、誰が作っているのであろうか
answer.2
生まれた時からの前提条件が理不尽だ。この世を作った創造主や人間、生きている全てがそれを形成している
question.3
死後の世界は、あるのであろうか
answer.3
ある。死者として留まってしまった者が進む道は地獄である
女性は、僕に手を差し出してこう言った。
「うちの名前は望月維譜。よろしくねっ…あっ、触っちまったしょや!!ごめん」
僕は死者のことが見える”使役者“にしか叫びなんて聞こえないことをいいことに、加減なく悲鳴を上げた。
僕の今後は…一体どうなってしまうのだろうか。とても心配だった。
第一章:[渇命]完
二章に続く。
この度は最後まで「死後理論」をお読みくださり本当にありがとうございます!!
今回はあえて作者視点ではなく、主人公視点で物語を進めるように構成しています。死後の世界の体験を感じるには読者がより主人公の視点にたって読むことができた方が面白いと考えたのと、単にそっちの方が書いてる私が楽しかったからです(笑)
ダイナマイトはこんなビルにねえだろ!と自分でもつっこんでしまう描写もあるのですが、小説ですし、その表現をした方が見栄え良くて楽しいなと感じたので書きました。結局書いてる自分が楽しいと感じたことを出してしまいますね(笑)
今回は短編小説でなく、連載形式でこのあと二章、三章と続く予定なのであえて“死者街”、“反死者”などのワードを出しました。二章で深く掘り下げるので、今はこの単語が示すことを想像してくださればこちらとしても嬉しく思います。
透過で、なぜ地面は透き通らず、浮遊するのか。これに関しても実は今回の一章の作中内でヒントは書いてあります。二章で答え合わせをするので、そこも楽しみにしてください(笑)
今回の小説は理不尽にボロボロにされる人間が描きたくて作りました。今日の日本では、病んでいる人が多いように感じるからです。精神疾患を持っている友人も普通にいますし、私自身“強迫性障害”を持っています。
例えば、容姿が足りないだけで就きたい職業に入れなかったりするのは、残念なことに現実です。これも理不尽の一つですね。顔のいい人間からすれば、それは「言い訳」ととられてしまうのかもしれません。しかし、例えば容姿の悪い人間がアイドルになれるでしょうか?なれたとして、人気が出るとは失礼ながら思えません。
天は人の上に、人を作ります。
しかし、それはある視点だけを見たときだけだとも考えています。
この容姿についての話に戻りますが、この人は確かに容姿が悪くてアイドルにはなれないかもしれません。しかし、もし歌が群を抜いて上手だったら、歌手になって有名になれるかもしれません。
そういう意味で、私たちは平等で、それこそ“天は人の上に、人を作らず”なんじゃないかなと。
確かに、才能は選べません。私も俳優顔負けのイケメンという才能が欲しかったですが、それは叶いませんでした(苦笑)
しかし、こうやって文章に自分の気持ちを置き換えることに関しては、多少なりとも才能があると考えているからこそ、こうやって自分の考えを小説にして創作しています。
あなたにとっての才能が見つかり、それを活かすのか。それとも才能がないとわかっていながらも努力して、なりたい自分になるのか。
才能と理想が重なっている人はそういう意味では幸せ者ですね。
あなたの人生に幸福があることを願わせていただきます。
第二章は“死者街”を舞台に描いていく予定です。第一章ラストで登場した望月維譜とは一体何者なのか。望月冥とはどういう関係なのか。
ぜひご期待ください。第二章が書き終わった際には、そちらもよろしくお願いいたします(*^_^*)
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