《6》
≪6≫
「汐里様、お帰りなさいませ。お身体、大事ありませんね?」
「えぇ。何事もありませんよ。お気遣いなく。夕食は部屋に持って来ていただける?」
「かしこまりました」
この帰宅時の一連の流れは、私が一人で外出するようになってから始まった習慣だった。
私の身体に何かあれば、この茜家は一族諸共、大変なことになる。
端的に言うならば、現在の地位も、富も、何も、失いかけないからだ。
この家は、私の『血』によって、生き繋いでいるに過ぎない。
生まれながらにして、私の、一人天下だった。
無感情に靴を脱ぎ、使用人一同が私に向かって仰々しくお辞儀をする廊下を、不快感を抱きながら足早に歩く。
早く、眠ってしまいたかった。
部屋で好きなだけ、溜め息を吐き出したかった。
一刻も早く、『私』という存在を、人の目から、隠してしまいたかった。
2階の自室のドアを開け、得体の知れない何者かから必死に逃げるようにして、強く扉を閉める。
そうして扉を背に、ずるずると床に腰を付き、腹の底から競りあがってくる苛立ちを、嗚咽と共に吐き出していた。
「っ、う、く、はぁ……っ」
口元を腕で押さえ、酷い形相をする私に、ふっと人の影が降りかかる。
「――汐里様」
綺麗でややか細いその声音を耳にし、鬱屈とした嗚咽をぴたりと止めて、影の主に口元だけで笑いかける。
「相変わらず、かくれんぼが上手ね。ギン」
見上げた彼は、それはそれは上背があり、縦に長い。
すらりと伸びた白い手足に、ふわふわの銀髪がよく映える。
銀の鬣を携えた白馬のような風貌の男。
この男が、私の影であり、私の盾であり、剣だ。
「自分をお使いください」
当然のように、ギンは身体の前で両手を広げて、私を迎え入れようとしている。
彼はいつもこうだ。
私がストレス塗れになると、鬱憤晴らしをさせようと、身体を差し出してくる。
「いいえ、平気。大丈夫だから」
一人きりにさせて欲しい。
誰にも、この苛立ちを見られたくなかった。
感情の波を悟られるのが恥ずかしくて、それでいてひたすらに悔しかった。
ギンの胸板を押して部屋から出るように促す。
けれど彼は、私の腕を捕まえると、否応なしに自身の胸へとかき抱いた。
言葉はない。けれど、確かな温もりがあった。
ギンの腕の中は昔から、私の感情の掃き捨て場だった。
いつも、いつだって、彼は私の愚痴を、苛立ちを、弱音を、自尊心を、醜い心を、その胸で抱き留めてきた。
私は彼に抱きしめられるのに弱かった。
抑えていた感情も、殺していた感情も、何もかもが舌へと上り詰めて、そして――。
「……も、もう、嫌。もう、こんな暮らしは嫌。助けて、もう、疲れたの。私一人じゃ、無理……もう、背負いきれない……どうすればいいのか、何が正しいのか、わからないの……」
「汐里様……」
ぼろぼろと、本音が零れ落ちてゆく。
もう嫌だ。助けてと、ギンに泣きついていた。
幼い子供でもあやすように、彼は私の背中を大きな掌でとんとんと一定のリズムで叩く。
その優しく愛情深い所作に、私はゆっくりと目を閉じた。
目を閉じてしまえば、何も見なくていい。
気づかないふりも、見ないふりも出来る。
誰かが私を色眼鏡で見ることも、私におかしな羨望の眼差しを向けることもない。
暗闇の世界へ行ってみたい。人のいない場所で過ごしたい。
決して、好奇の目に晒されることのない、ただ心穏やかに居られる場所で生きていきたい。
「ギン、助けて……ギン、ギン……っ、こんな家、燃やしてしまって」
「…………」
過激なことを口のする私に、ギンは何も言わず、ただひたすらに背中を撫で続ける。
この家での彼は、身分以上の言葉を口にすることを、一切許されていない。
――私は彼に、とても酷な仕打ちをしている。
彼はただ、『聞く』ことしか出来ないのに。
宝である私にどうしたって逆らいようのない、茜家の駒のようなモノなのに。
「自分に言えることは、そう多くありません」
不意に彼の胸から離される。
思わず彼を見上げて目が合うと、ギンは困ったような、それでいて笑っているような、何とも不器用で下手くそな笑顔を浮かべる。
「自分は何があっても、どれだけ敵が居ようとも、最期の瞬間まで汐里様と共にあります。自分は、貴女の影です。貴女が自分を必要とする時は、必ずお傍におります。ですから、いつでも自分の胸をお使いください」
「貴方は、本当にいつまで経っても、笑顔が上手くならないわね」
「……お許しください」
「ううん、違うの。その笑顔がいいの」
親子でもない。兄妹でもない。ましてや師弟でも、恋人でもない。
一方的に守り守られる存在。
きっと普通の関係性ではないけれど、私がこの家に生まれつき、一つだけ誇らしく思えること。
それはギンという優秀で信頼の置ける影を、自分の傍においておけることだった。