終 愛し子のフィル
登場人物の視点上の問題で地の文にフィルとラーハルトが混在してます。読みにくかったらすいません。
「おかあさん、じゃない。ははうえはどうして、ぼくとふたりだけのときはぼくをフィルってよぶの?」
「ふふ。それはね、フィルが生まれる前にフィルのお父様とあなたの名前をどうしようかって話していた時にお母さんがフィリアスにしてほしいって、そうお父様にお願いしたの。でもお父様がフィリアとフィリアスは紛らわしいって言うものだから、お父様の希望でフィルの名前はラーハルトに決まったの」
「フィリアスだから、フィルなの?」
「そうよ。お父様の言うことは正しいけれど、お母さんだってフィルがお腹の中にいる頃からずっとフィルって呼びたかったんだもの。お父様だって、レオンハルトからハルトの字をとってラーハルトと名付けているんだから、お母さんだって二人だけの時くらいフィルって呼んでもいいでしょう?だから、このことはお母さんとフィルの二人だけの秘密にしようね。そうじゃないと、きっとお父様は拗ねてしまうから」
「うん、わかった、じゃない。わかりました!」
「フィルは本当に良い子ね。お母さん嬉しくなっちゃう」
「ははうえがうれしいと、ぼくもうれしいんだよ」
「ふふ。フィルは優しいのね」
◆ ◆ ◆ ◆
エドワード達はまるで金縛りにでもあったかのようにフィリアの最期を見つめることしかできなかった。誰も動こうとしなかった。今ならフィルを殺す邪魔をする者は誰もいないにも関わらず。エドワードは感情のままに言葉を吐き出す。
「義母上…何故……」
何故、どうして死を選んだのか、その疑問に唯一答えられるフィリアは既に死んだ。もう二度とフィリアの美しい顔が微笑むことはない。つい先日まで自分にも向けてくれていたその柔らかな表情は、永遠に。
今際の際のあの数瞬、己に向けられたフィリアの増悪に満ちた眼差しが、脳裏にこびりついて離れない。
父の命を全うできなかった。無事に連れ戻せと厳命されたフィリアは死に、絶対に殺せと厳命されたラーハルトは生きている。途方もない大失態だ。当然文句はある。自分の命令を無視してフィリアを殺した騎士カイン。いっそ感情の赴くまま手打ちにしてやれたらどんなに暗い喜びを感じられるだろうか。そもそもエドワードはこの任務に否定的だったのだ。エドワード自身にはフィリアとラーハルトに含むものなどなかったからだ。同情はしても無能と蔑むことも不義の子と忌み嫌うこともしなかった。そんな自分が何故こんな結果を引き起こしてしまったのか。
フィリアの増悪の眼差しが、脳裏から消えない。
ラーハルトは殺さねばならない。それがグランベルク家当主の決断だからだ。今なら簡単にそれが成せる。不義の子だなどとレオンハルトの妄執に過ぎないとフィリアは断じた。おそらくその通りなのだろうとエドワードは思う。
グランベルク家は課せられたその使命の性質上ユークリス王国歴代の国王達から絶大な信頼を寄せられている。当然当代の王もその例に漏れない。そのグランベルク家に他家から嫁いできた娘が不義密通を犯すなどすれば本人と子が刑死すればそれで済む程度の話では断じてない。
フィリアがもしそれをしていたのだとしたら累はフィリアの生家であるリンドハースト家にすら及ぶ。冗談ではなく御家取り潰しもありえるほどで、あの優しく聡明なフィリアがそんなことをする筈がない。
フィリアの増悪に満ちた眼差しが、どうしても消えてくれない。
この場でエドワードが率いる騎士達はグランベルクに付き従う数多の騎士達の中でも当主レオンハルトに絶対の忠誠を誓っている者達である。目付けだと父は言った。十数と放った追っ手のなかで可能性は低いにせよもしもエドワードがフィリアとラーハルトを捉えた時に手心を加えないようにと。エドワードもそれを理解していた。だからあの時手を出すなと言ったエドワードの命令に反してでもラーハルトを殺そうとしたのだろう。その結果大失態を引き起こした。おそらくカインは自害してでも父に詫びようとするだろう。それ自体は今はどうでもよい。そんな些事よりも他にせねばならないことがある。ラーハルトはここで死ななければならない。
フィリアの増悪に満ちた眼差しが、エドワードを断罪する。
迷う時間は数瞬の猶予しかない。騎士達が己を取り戻し自分の指示を待たず動き出す前に決断しなければならない。何かないかと考えを巡らせるエドワードの心中にひとつのおぞましい考えが浮かび上がった。
ラーハルトはここで死ねばそれでよい。つまり、自分達が直接手を下す必要など、ない。エドワードは己がこれ以上フィリアのあの憎悪に満ちた眼差しに断罪されたくない、ただその一心で決断した。それがフィリアとラーハルトにとってどれだけ残酷極まりないものであったとしても、そうせねばならないと。
配下の騎士達は信用に値しないのだから、それはエドワード自身の手によって成さねばならない。エドワードは剣を握り締めてフィルの元へと向かう。努めて無感情を装いながら。フィルは膝立ちの姿勢でフィリアに縋り付いて泣き叫んでいる。足首の裏がよく見える。集中して狙いを付ける必要もない。エドワードはぶん、と傍から見ればまるで無造作に見えるように剣を振るった。右足首の腱を切ったのだ。
フィルは右足の腱を切られたその痛みに顔を歪めながら反射的に振り返ると、そこには剣を振り抜いたままのエドワードが無表情でフィルを見下ろしていた。その表情からは何の感情も読み取れない。フィルは声にならない呻きをあげる。
「あ…う、ぁ……」
自分の番がきた、とフィルは本能的に悟った。
自分は殺される。つい先日まで兄様と呼び慕っていたエドワードの手によって。エドワードはフィルに優しかった。家中から無能と蔑まれ不義の子と忌み嫌われた自分を優しく励ましてくれた。
その大好きなエドワードが母を死に追いやりその手で自分を殺そうとしているこの状況は、齢にして10歳を少し過ぎた身であるフィルにとって理解の外の出来事だった。
ともあれこの場で無力なフィルに出来ることなど何もなかった。フィリアはフィルに生きてと言ったが眼前に迫る死から逃れる術はない。そんな力が自分にあるのならそもそも不義の子などと呼ばれ蔑まれることもなかったからだ。
死にたくなかった。それは生物の本能的な反応でもあるし、何より大好きな母がフィルに生きてほしいと願ったから、フィルは生きなければいけなかったのに。
――ごめんなさい、お母さん。
フィリアへの懺悔とともにフィルは抵抗を諦めた。死を受け入れたその表情からは怒りも恐怖も憎しみも怯えも見てとることはできない。
フィルは緩慢な動きでのろのろとフィリアへと向き直る。今際の際のその最期は、大好きな母とともにありたかったから。
そうしてまたフィリアに寄り添い、もう二度と握り返してくれることのない母の手を左手で握り締めて、空いた右手でフィリアの瞼を閉じさせる。
その瞳がもう何も映すことはないと分かっていても、自分が死ぬところだけは母に見せたくなかったから。そうして最期の時をただ静かに待つ。
フィルのその様にエドワードは動揺を隠せなかった。恨まれて当然の事をしたと思っていたからだ。この悪魔、よくも母上を―そんな風に罵声を浴びせられるものだと思っていた。だというのに、ラーハルトはエドワードが今まで相対し葬り去ってきたどんな敵よりも気高く、高潔に見えてしまった。まるで聖人か、殉教者のように。
エドワードには殺せない。
――そうだ。最初からこんなことはしたくなかった。
エドワードの視界にフィリアが力なく弾いた秘薬の瓶が映る。中身の液体は落とした時に幾らか零れたようだった。フィリアは秘薬を一口含んだだけでそれを拒んだ。であれば中身はまだ残っている筈だった。
愚かなことを考えるな。この状況で生き延びられる筈がない。そこまで追いやったのは、他ならぬ自分なのだから。
エドワードは浮かんだ思いを振り払い後ろにいる騎士達に向き直る。先ほど己が心中に浮かんだおぞましい考えを、断行せねばならない。エドワードは騎士達に告げる。
「右足の腱を切った。これでラーハルトは満足に動くことも出来まい」
エドワードのその言葉に一人の騎士が進み出て答える。
「若様、では止めは私が」
「それには及ばない。我がグランベルクを謀ったこの愚か者達は、ここで魔獣の餌と成り果ててもらう」
「しかし、御当主様は確実に殺せと我々に厳命されました」
流石に自分の目付を任されることだけはある。こいつ等は当主の言に否と言うことが出来ないのだ。それを黙らせる為に、フィリアとラーハルトに本意ではない侮辱を投げつけねばならない。罪悪感ばかりが募っていく。
「栄えあるグランベルクを愚弄した大罪人は、ただ死ねばよいというものでは断じてない。相応の報いを受けさせなければならない。お前はこの状況でラーハルトが生き延びれると思うのか」
フィルはそれらの言葉に何らの反応も示さない。今はただ死を待つのみであるフィルにとって、最早フィリアと自分以外の事などどうでもよかったからだ。
「いえ、それは…」
エドワードは畳み掛ける。騎士達に思考する隙を与えてはならない。
「不服があるなら今全て申し出ろ」
エドワードは殺気を放つ。これ以上いらぬ抗弁をするのなら切り捨てる。自身の態度で雄弁にそれを物語って見せる。騎士はそれにあてられたかのように身震いすると、やがて了承の意を告げた。
「……承知致しました。ではフィリア様の御遺体を」
ひとまず承服させることが出来た。これ以上騎士達に余計な事を言わせてはならない。エドワードは主導権を握り続ける為にその心中とは裏腹に望まぬ言葉を吐き出し続ける。
「それには及ばないと言った筈だ。義母上は…この大罪人フィリア・リンドハーストはここに捨て置いていく」
本音を言えるならば連れて帰りたかった。応えがないことを分かっていても、ラーハルトのようにその亡骸に取り縋り泣き喚いてでも許しを請いたかった。
「若様、フィリア様をその様に…」
「黙れ。土台、おかしな話だったのだ。グランベルク当主に嫁いでおきながら不義密通を果たすなど、幾ら父上の寵愛を一身に受けていたとて到底免罪されるものではない。そのような事を許せばグランベルクの名声は地に堕ちよう」
だがこの高潔で気高い母子を、どうしても引き離したいとは思えなかった。例え魔獣に食い散らされる未来が避けられないのだとしても。
最期の一時は、一緒に過ごさせてやりたかった。
「ですが、御当主様は…」
騎士達を黙らせなければ。エドワードは不意に込み上げてきた激情の赴くままに喚き散らす。
「黙れと言ったぞッ!貴様らのせいだ!私はこんなことだけはしたくなかった!そうならない様に今まで父上に何度も諌言した!貴様らがラーハルトを不義の子などと嘲るから父上はおかしくなったのだ!よく見ろ!貴様らが当主を惑わせた結果がこのザマだ!義母上は死にラーハルトも直に死ぬ!さぞ満足だろう!騎士の本分も忠誠も忘れた下郎どもがッ!貴様らのような者どもを奸臣と言うのだ!!!」
騎士達は沈黙をもって答える他なかった。これ以上は何らの反論も出てこなかった。
フィルはやはり何らの反応も示さない。エドワード達のやりとりは聞こえていたがその内容に関心を覚えることはなかった。ただ静かにフィリアに寄り添い続ける。エドワードは殺気を込めて騎士達に告げる。
「……これ以上の、不服はないな」
エドワードはここにきて始めて自分の意向を無理やりにでも押し通した。だというのに、それはエドワードに何らの満足感をもたらすこともなかった。
「撤収する。準備を急げ」
エドワードのその言葉に騎士達は弾かれたように動き出す。剣を鞘に納め、馬へと駆け寄っていく。
準備をしろ、とは言ったがフィリアの剣も零れ落ちた秘薬の瓶も騎士達に回収させるつもりはない。それらをどう使うのかは、ラーハルトの自由にさせてやりたかった。
エドワードは最後にフィルをちらと見やる。その眼差しはかつてフィルに寄せた同情や憐憫ではなく、ただただ悔恨を含むばかりであった。
エドワードは小さくかぶりを振り剣を鞘に納め騎士達の元へと歩み寄る。騎士の一人がエドワードに松明を渡すとともに準備の完了を告げる。
「若様、準備が整いました」
「分かった。では進発する。後に続け」
エドワードと騎士達は騎乗し馬を進ませる。何の罪もない母子から離れてゆく。彼らを守る者はもうどこにも居ない。直に夜が明けるというのに、エドワードの心はどうしても晴れてくれそうになかった。
当主へ、父へその命を全う出来なかった事を報告しなければならない。これまで失態らしい失態を犯したことのないエドワードの大失態に父レオンハルトはどんな反応を示すだろうか。エドワード達はフィリアを殺めた上その亡骸を置き去りにした。父は怒り狂うだろう。
フィリアがありもしない不義を成したと断じたのに、その罪をまるで問おうとしないくらいに父はフィリアを偏執なまでに愛し過ぎていた。
エドワードはふと思う。フィリアは今際の際にラーハルトのことをフィルと呼んでいた。それが妙に気に掛かった。
ユークリス王国北部辺境グランベルク辺境伯領トリエスタ、その領都ノースポイントからほど近いカティスの森の中域から深域に差し掛かるその場所で。
一人の幼子が一体の亡骸に静かに寄り添っていた。
その場はただ静寂に包まれていた。
了
最後までお読みいただきありがとうございました。
面白いと思っていただけたなら励みになりますのでぜひ評価、ブックマーク、感想などよろしくお願いします。
せっかくなので少し後書きのようなものを書いてみたいと思います。
自分はPS2とPS3でHDリマスターとして出ているICOというゲームがわりと好きで、そのBGMを聴いている時にあの優しくもどこかもの悲しい雰囲気を自分でも表現できないかと思ったのが本作の執筆動機になります。
とはいえ、ICOの世界観や人物の関係性をそのまま持ってきてもただのパクりとなってしまうので、逆にすればどうだろうかと思って主要人物の設定を煮詰めていきました。
つまりイコの役割がフィリア、ヨルダがフィル、そして女王がレオンハルトで、エドワードはICOで置き換えられる人物はいませんがレオンハルトの善性を担ってみたら面白いかもしれないと思いました。つまりエドワードは父性担当となります。
これら以外の城の人たちはICOでいうところの影の魔物ですね。ここら辺は殆ど適当です。
そうして試行錯誤しながら書き上げたものを自分で読み返してみても、執筆動機の優しくもどこかもの悲しい雰囲気が出ているのか少し不安でした。
特に優しさについては殆ど地の文で優しい優しいと連呼しているだけなので、上手く表現できたとは言いがたいと思います。
それに比べればもの悲しい雰囲気は少しでも出せているのかな、と思えました。
この辺は人によってはもの悲しいというより胸糞悪いと感じることもあるかもしれませんが、少しでも本作にもの悲しい印象をもっていただけたなら、作者としてこれに勝る喜びはありません。
では、最後までお付き合いいただきありがとうございました。