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5 終わりの日

ユークリス王国北部辺境グランベルク辺境伯領トリエスタ、その領都ノースポイントからほど近いカティスの森の中域から深域に差し掛かる所を、仄暗い月明かりだけを頼りにフィリアとフィルは走っていた。


日付は既に変わっている。途中ほんの少しの休憩を挟みながらもここまで走り続けてきた。森の中までくれば一息つくことが出来るだろうというフィリアの目算は、しかし松明の明かりを遠くに認めたことで脆くも崩れていた。


「フィル!止まっては駄目!走って!走りなさい!」


フィリアが焦燥にかられたようにフィルに呼びかける。しかし子供であるフィルの体力はとっくに限界を超えており、いつ倒れこんでもおかしくない有様で、一度止まってしまえばもう立つことすらままならないと思うほどだった。


「はは、うえっ……もう、これ以上は、走れません…」


思い返してみてももうどれくらい走り続けているのかも分からないほどだった。体中が汗に塗れていて、息を切らした肺腑が空気を貪欲に求めるようにぜぇぜぇと喘ぎながらフィルはフィリアに答えた。


「諦めては駄目よ!…ほら、お母さんがおぶってあげるから」


そう言ってフィリアはフィルの前に背中を見せて跪く。


「早くしないと追いつかれるわ。ほら、早く」


既に体力の限界を超えていたフィルが脚を引き摺りながらも何とかフィリアの背中にしがみ付いた、その時だった。


「いたぞ!ここだっ!」


唐突にフィリアでもフィルのものでもない男の声が響き渡る。右手で松明を持ちながら馬を駆る騎士が母子に近づいて来ていた。即座にフィリアはフィルを下ろし外套を脱ぎ捨て腰に下げていた剣を引き抜き騎士に身構える。そうする内に互いの松明の明かりが視認できる程度の距離に散開していたのであろう騎士の仲間達が4人ほど集まっていた。


その騎士たちの中、一際身形の良い騎士が下馬し親子に近づく。エドワードだった。


「義母上…ここにだけは、いてほしくありませんでした…」


フィリアは動揺した。何故エドワードが追手としてここにいるのか。


「エドワード…どうして貴方がここに…」


「……父の命です。背くのならば、廃嫡し妻と離縁させた上で娘と一緒にサザーランド家へ送り返すと、そう言われました」


エドワードの返答はフィリアを驚愕させるものだった。夫は本当に狂ってしまったのかと。

フィリアの胸中に不安が募っていく。


「そんな……エド。お願い、見逃して。後生だから」


「出来る限りのことはしたつもりです。ですが、父には聞き入れてもらえませんでした。ラーハルトのことは、もう……」


エドワードは座り込んでぜぇぜぇと喘いでいるフィルに目を向けた。それは同情とも憐憫ともとれるような何とも言えない眼差しだった。


フィリアは裏をかいたつもりだった。追手は十数組もの数が四方八方に差し向けられているだろう。だが、このカティスの森の深域近くを抜けるのならば或いはかわせるかもしれないと。

まさか夫がここまで本気だったなんて。フィリアの胸中が不安に圧し潰されていく。

諦めるのはまだ早い、と必死に己を叱咤する。そうするうちにふとエドワードと目が合う。


エドワードはフィルに同情的だった。フィルがグランベルクにありえぬ無能と呼ばれ不義の子と忌み嫌われていても優しく接していてくれた。それをフィリアはよく知っている。

そのエドワードが追手のうちの一人として差し向けられた意味合いも、同時に理解出来てしまった。


どうにもならない、そういうことだった。


「我が子が…殺されると、それを分かっていて見捨てろと、貴方は、そう言うの…?」


フィリアは震える声でエドワードに問う。そして問われたエドワードの返答はフィリアにとってにべもないものだった。


「事を治めるには、もう犠牲は避けられないでしょう。少なくとも父上は…当主レオンハルトはその様に判断しました。これを私に覆すことは、最早出来ないのです」


「貴方は…貴方だけは、ラーハルトの味方でいてくれると、信じていたのに……」


「申し訳、ありません……」


エドワードは絞り出すような声でフィリアに答える他なかった。


二人が話している間にも他の騎士たちは下馬して母子の周囲を取り囲むように位置取っていた。フィリアはその様子を見て最早逃げきることが叶わぬのを悟り諦念を抱くとともにある決心をした。


フィリアは精一杯の抵抗を試みる。子を守ろうとする親はいつ如何なる時でも強くあらねばならない。それが出来るかどうかは別としても、フィルが生まれた時にそう誓ったのだから。



エドワードはフィルを見捨てろと言った。他の誰でもない、フィリアに向かって。

エドワードはフィルを見捨てた。他の誰でもない、フィルの目の前で。


気に入らない。何もかもが気に入らない。


自分までそうしてしまえば、この世界にフィルの味方が一人もいなくなってしまう。


「そんなこと、できる…わけがない……出来る訳がないッ!!」


フィリアはエドワードに剣を突きつける。その所作に迷いはない。


「あの人が…妄執に囚われ…その果てに血を分けた我が子を殺めると言うのなら……このフィリア・リンドハーストは断じてそれを許さない…!」


フィリアは生家であるリンドハーストの姓を名乗った。夫の姓であるグランベルクを名乗らないのは、グランベルク家との決別の意思表示だった。


「義母上、止めて下さい。我々は貴方を害する命は受けていません。どうか…」


「黙りなさいッ!!幼子一人殺める為に5人もの正騎士を送り込む!これがユークリスに武のグランベルクありとまで謳われた名門のすることかッ!!」


フィリアが放つ覇気にその覚悟のほどをエドワードは正確に理解した。これ以上は問答ではなく力ずくで事を成さねばならない。フィリアを傷付けずに。全くもって気が進まないが、既にエドワードに選べる選択肢は他になかった。


「義母上…残念です。お前達は手を出すな。私が義母上を無力化する」


「はっ!」


騎士達は松明を左手に持ち替え右手で抜剣し、フィリアとフィルが逃げられぬよう四方に陣取り警戒する。それを見たエドワードは松明を投げ捨て抜剣し静かに構えた。


「義母上、この身は義母上を無事に連れ帰るよう厳命されています。私が義母上を傷付けることはありません」


「舐めるなァッ!!!」


フィリアは激昂し脇目も振らずエドワードに躍り掛かる。一撃、二撃と剣を振りぬくもエドワードはそれに難なく剣を合わせてくる。

当然だ、とエドワードは思う。フィリアは何時間も無力な幼子を連れて周囲を警戒しながら走り続けてきたのだから。このカティスの森の深域にほど近い場所でそんなことをして魔獣と遭遇しなかったのが不思議なほどだ。

体力のない幼子のフィルほどではないにせよフィリアは相応に消耗している。対してエドワードは馬を駆り母子の後を追ってきた。

常のフィリアとエドワードの実力差以上に互いの余力には差がありすぎる。恐らくフィリアは二十合と持つまいとエドワードは判断した。決着後のことを考える。フィリアには生涯恨まれ続けるだろう。

それを思えばエドワードは気が滅入ってしまう。やりづらくて仕方がなかった。


「ふッ!ぁああッ!!」


フィリアは力任せに剣を振るう。それも難なくエドワードに合わせられ、対して己は今や十合も持たずに肩で息をする有様だ。明らかに精彩を欠いている。

実力差があることは分かっていた。しかしそれでも鍛錬での打ち合いならばともかく殺気を込めた一撃を簡単にあしらわれるほどまでだとは思っていなかった。


見誤っていた。現状を、己の実力と余力を。どこかで甘く考えていたのかもしれない。大切な我が子を守らなければならないのに。エドワードはフィリアの剣に余裕をもって打ちあわせてくる。フィリアの胸中が絶望に染めあげられていく。


届かない。なにをしても、どうしても。


エドワードへの注意はそのままにフィリアは息を整えるために一旦間合いをとろうと後ろに飛び下がる。その時、エドワードの視線が一瞬己から離れその後ろに向いたのをフィリアは見逃さなかった。どこか呆けたようなエドワードの視線。常ならばフェイントを疑い気を向けることもしないが今フィリアの後ろにはフィルがいる。エドワードの意図がどうあれ危惧をそのまま見過ごす訳にはいかず反射的に後ろを振り返ると、周囲を固めていた筈の騎士の一人が己の気付かぬうちにフィルに近づいており、逆手に剣を持ち上段に構えてフィルを突き殺そうとしていた。


フィリアの全身が粟立ったその瞬間、スローモーションのようにフィリアと周囲の動き全てが遅くなる。


「させるかァッ!」


フィリアは咄嗟に叫んでラーハルトと騎士の間に反射的に体を捻り込む。後ろからエドワードが何事か叫んでいるがフィリアはそれを意味のある言葉として理解することはなかった。フィルが放心したようにフィリアを見つめている。フィルを抱き寄せようと手を伸ばすも体が密着すれば己諸共刺し貫かれることに思い至りその場で体を踏ん張らせる。剣の切っ先が背中に当たる。剣はそのまま何らの抵抗なくまるで受け入れるのが当然とばかりにフィリアの体を貫いていく。そして遂にはフィリアの体を突き抜けその先にいるフィルをも刺し貫かんと切っ先が迫っていく。フィリアは渾身の力を込めて体を捩らせ必死に切っ先をフィルから反らそうとした。


その全てが瞬きの間の出来事だった。


「あ…あ、あっ……ぐっ……」


胸を貫くその痛みにフィリアは堪らず呻き声をあげるものの、その視線はフィルへと注がれている。己の体から生えた剣の先を見る。咄嗟の機転が効いたのかその切っ先はフィルからほんの僅かに反れていた。絶望的な状況なのに思わず安堵してしまう。恐怖に目が見開かれた我が子を安心させようと精一杯微笑もうとするも激痛に顔が歪んでしまう。


呆然とそれを見ていた者達のなかでエドワードがいち早く反応する。


「何をしている!!誰がこんな真似をしろと言ったかァッ!!!」


剣を突き刺した次席正騎士カインは己の成したことに理解が追いつかないのか放心したまま動かない。エドワードは心の中でそのカインに思いつく限りの罵倒を浴びせながらもその口は冷静に指示を出してフィリアに駆け寄る。


「秘薬と鎮静剤を出せ!早くしろッ!!」


怒号にも似たその言葉に囲んでいた騎士の一人が弾かれたように動き出して馬に駆け寄りその背に下げていた革袋の中から秘薬と鎮静剤を取り出してフィリアの元へ向かう。


未だフィリアに剣を突き刺してから放心したままのカインを倒すように押し退けてエドワードはフィリアの傷を確かめる。剣はフィリアの胸部を刺し貫きその右肺に深刻な損傷を与えている。秘薬は飲ませて傷口を密着させれば出血を止めることはできるが傷を完治させるまでには至らない。早急に処置し治癒師に見せなければ致命傷となるのは明白だった。


「は、は…うえ……?」


半ば呻き声をあげるようにフィルはフィリアに呼びかける。


エドワードの視界に呆然とフィリアを見つめているフィルが映る。今はフィルのことを考えることすら煩わしい。エドワードはフィルの存在を努めて無視し、駆け寄ってきた騎士から秘薬と鎮静剤を半ば奪うように受けとるとその騎士にフィリアの体を刺し貫く剣を引き抜くように命じた。


「いいか、慎重に抜け。絶対に手元を狂わせるな。これ以上義母上を傷つけることは断じて許さん」


「は、はいッ!」


ともすれば重圧に押し潰され震えそうになる体をエドワードは必死に制する。ゆっくりと剣が引き抜かれてゆく。フィリアの服が胸部から血に染まりだす。まだか、早くしろと思うままに怒鳴れたらどんなに楽だろうか。凶器が体に埋まったまま秘薬を服用してもさして意味はない。それで血が止まってもその状態でフィリアが城まで持つとは思えない。人の足よりは速く体力の消耗を避ける、何より逃してはならない、その為に馬を使った。そしてその馬の歩みがもたらす振動のひとつひとつが確実にフィリアの命を縮めていくだろう。だからこそ凶器が体に埋まったままなど悪手でしかなかった。剣を引き抜き血を止める。傷が開かぬように胸部を布できつく縛りそうしてやっと馬上で揺られるのにも耐えられるかもしれない。見ればようやくフィリアの体から剣が全て引き抜かれたところだった。素早く秘薬の栓を開けフィリアの体を抱えて秘薬を口元に近づける。その口からも血が流れ出している。急がなければならない。


「義母上、秘薬です。これを飲んで下さい」


フィリアは口に添えられた秘薬を力なく口内に含み、そうして激痛に途切れそうになる意識の中で己がどんな状況におかれているのかを理解すると、その液体を飲み込むことを拒んだ。弱々しい動きで秘薬を弾く。瓶はエドワードの手から零れ落ちていく。フィリアはべ、と口内に込み上げる血とともに秘薬を吐き捨てた。


「義母上、なにを…」


フィリアは増悪に満ちた眼差しをエドワードに向ける。弱々しい手つきでエドワードの襟首を掴む。そこには敵意以外のどんな感情も見いだせない。


「お、まえ…たちの…思い、通りにな、ど…ならない……」


エドワードは動けなくなった。つい先日まで己に優しい笑みを向けてくれていたフィリアが一度も見せたことのない表情に全身が凍り付く思いがした。呆然と見やることしかできない。 このような眼差しを向けられることは分かっていた筈だ。フィリアの目の前でフィルを誅殺せねばならなかったのだから。だというのに、実際にそうされるとそんな思いなど最初からなかったかのように消し飛んでしまった。


フィリアはエドワードから離れ後ろにいる筈のフィルへと力なく向き直る。体は重く、その動きは緩慢としたもので否応なくフィリアに現実を突き付けてくる。秘薬を拒んだ以上はもう持たないのだと。

情けを拒んだことそれ自体に後悔はない。我が子を見殺しにして己だけが生きながらえるつもりなど毛頭ないからだ。

ただ一つの心残りはフィルを守りきれなかったことだ。自分が生きようが死のうがその後でフィルの命が助かる光景をどうしても思い浮かべることが出来ない。

フィリアはフィルが己の眼前で殺される光景だけは、どうしても見たくなかった。その為に己が命を諦めこの子が生まれた時に立てた誓いまで破ってしまった。

自分はどうしようもない母親だ。不意に涙が溢れ出してくる。無能と蔑まれ忌み嫌われた息子のことを煩わしく思ったことだってある。しかし無垢な表情で母上、母上と嬉しそうに呼び慕ってくるこの子をどうしても嫌うことができなかった。


見捨てることが、どうしても出来なかった。


愚かで、浅ましい自分。こんな私がこの子にどんな言葉をかけてやれるというのか。しかしフィリアのそんな思いはフィルの顔を見れば全て吹き飛んでしまう。愛しくて堪らないのに、結局は最後まで諦めるなと、そんな、現状では何の役にも立たない残酷な言葉をかける他なかった。


「ラー、ハルト…フィル……」


フィルは動けない。母が死んでしまう。そのあまりの惨状に恐怖がフィルを支配する。全身が射竦められたかのように指一本満足に動かせない。それでも母の呼び掛けに答えなければいけない。己が意思に逆らう体を強引にでも捩じ伏せて口を動かす。言いたいことは沢山あった。大丈夫だから。すぐに治せるよ。秘薬を飲んで。生きて。死なないで。そんなに悲しい顔をしないで、と。しかしその思いのどれも言葉にならず、ただ母を呼ぶことしかできなかった。


「はは、うえ…」


フィリアは力なくフィルを抱き寄せる。


「フィル…お、母さん……弱く、て、ご、めん、ね……」


フィルは弾かれたようにフィリアを抱き締め返す。とめどなく涙が溢れ出してくる。錯乱したかのようにまるで幼子の我が儘のような言葉しか返せなかった。


「母上、嫌だ!嫌です!死んじゃ嫌だ!!」


「フィル、を…ま、も…て……あげ、ら……な、て……ご、め…ね……」


フィル。誰よりも愛しい私の子。私だけの愛し子。


「母上!死なないで!母上!母上ッ!…お母さんッ!!!」


フィリアの瞳から光が失われていく。


「フィ、ル……お、ね…が、い……い、き…て……」


フィリアは祈った。誰でもいい、誰かフィルを助けてと。その最期にフィリアの脳裏に浮かんだのは、物心ついてより信仰を捧げ続けてきた癒しの女神だった。


「め…」神アマナよ。どうかこの子に憐れみを。その加護を――


フィリアの体から力が抜け落ちる。フィリアを掻き抱くフィルは否応なくその死を悟らされた。美しい母の顔を見る。


瞳は既に光なく、この場の何も映してはいなかった。


「あ…あ、ああ……ぁぁああああッ!!!」



ユークリス王国グランベルク辺境伯領トリエスタ、その領都ノースポイントからほど近いカティスの森の中域から深域に差し掛かるその場所で。




幼子がただ泣き叫ぶ声だけが響き渡っていた。

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