4 終わりの日、その前日の夜
ノースポイントの南側、都市から続く街道を少し外れたところをフィリアとフィルが駆けていた。
その格好は母子揃って鍛練着に外套を纏ったもので、更にフィリアは腰にショートソードとダガーを下げている。
フィルは走りながら少しでも不安を紛らわせたくて母に話しかけた。
「母上、これからどこへ行くの?」
フィリアは立ち止まってフィルに答える。
「フィルが安全に暮らせるところよ。でも、そこまでは遠いから、ここからはお母さんの言うことをよく聞いてね」
「はい、母上。……その、兄様とはもう会えないの?」
「エドワードは…そうね。いつかきっと、また会える日がくるわ。さ、急ぎましょう」
フィリアはそう言って会話を打ちきり、フィルに走ることを促した。
最大の懸念であったノースポイントの南門は抜けることができた。
夜番の衛兵は新入りが任されることが多い。当番兵はフィリアとフィルの顔を知らなかったので、少し鼻薬を嗅がせてやれば門を抜けること自体は簡単だった。
ここからが問題だ、とフィリアは思う。
不審な母子が南門を通った事実はすぐに知られるだろう。
他領や国外との交易を安定させる為、グランベルク家は常の任務としてトリエスタ南部の治安維持に力を割いている。
故にノースポイントから南は魔獣も殆どおらず、城の者達は南に向かった可能性が高いと判断するに相違ないだろう。
だからこのまま南へ逃げる訳にはいかなかった。
裏をかかなければならない。西か東へと。
北へは向かえない。北は危険過ぎる。赤竜と魔獣の脅威があるからだ。
トリエスタ北部の魔獣討伐は赤竜の行動周期を勘案して行われているほどで、その脅威度はトリエスタ北部への入植、開拓が一切認められていないことからも察せられる。
その理由はただひとつしかなく、単純に防衛しきれないからである。
東へ向かうか。西へ向かうか。
東は地形の起伏も少なく草原が広がっている。
今のように夜ならば視界が制限される為に捕捉されにくいだろう。だが昼間は違う。身を隠せる場所が殆どない東は選べない。
南と東は危険が少なく移動しやすい。重点的に追手が差し向けられるだろう。ならば西しかない。
フィリアは思考の末に、西へ向かうことに決めた。
――カティスの森を西へ抜ける、きっと上手くいく。
ノースポイントの西にほど近い場所から北のノースエンド近くまで広がる大森林、そのカティスの森ならば身を潜めながら移動するには最適だとフィリアは判断する。
問題は森に住まう魔獣だが、深域まで踏み込まなければフィリアの腕とレベルならフィルを連れたままでも何とか対処できる筈だ。
フィリアのレベルは39を数える。
元々子爵令嬢であったフィリアはレオンハルトへ嫁ぐまではレベルも10にも届かぬほどだったが、グランベルク家の一員となってからはその責務を少しでも共有する為に鍛練に加わった。
そしてフィルが生まれてからは、子を守れる力が欲しい、と積極的に魔獣の討伐へも志願してそこまで鍛えあげたのだ。
最終的には夫の懇願に近い形での説得によって魔獣討伐へ出ることはなくなったが、そのレベルはグランベルクの正騎士としても通用するほどで、だから今この時こそ積み上げてきた経験を活かさなければならなかった。
――森を抜け、そのまま西に向かい国境を越える。きっと、上手くいく。
フィリアは自分に言い聞かせるように、そう思い込んだ。
◆ ◆ ◆ ◆
「父上、何とぞご再考を。そのようなご命令は必ず後に禍根を残します」
グランベルクの居城、当主レオンハルトの執務室にてエドワードは父を諌めていた。その後ろには10名ほどの騎士達が整然と並んでいる。
レオンハルトは茶色の髪を後ろに撫で付けた41歳の偉丈夫で、品の良い上質な服装に身を包んでいる。
「ならぬ。ラーハルトは不義の子であった。今更それを疑うべくもない。であればこそ当家の汚名は濯がねばならんのだ」
「リンドハースト家にはどのように説明なさるおつもりですか。黙って引き下がるとは到底思えません」
「フィリアは殺さぬ。あれは我が妻だ。ラーハルトのみを不義の子として誅殺するだけであれば、子爵を納得させることは出来よう」
当主の決定を覆せるだけの材料をエドワードは持たない。それがこの上なくもどかしい。
「義母上は…どうされるのですか。離縁してリンドハースト家に送り返すのですか」
エドワードのその言に、レオンハルトは疑問げな表情を浮かべる。
「フィリアは我が妻だ、と言うたであろう。何故実家へ戻す必要がある」
フィリアが不義密通をなしたと断ずるならば、それを処罰しないというのは明らかにおかしい。
ここへきてどこかおかしな父の返答にエドワードはレオンハルトの目を見る。その瞳は微かに狂気を孕んでいるような気がした。
「そのような始末では、それこそ他家のいい物笑いの種となるでしょう。父上は、それでよいと?」
レオンハルトの表情が嫌悪に歪む。
「フィリアも誅殺せよと言うつもりか」
「そのような事は、断じてありません。ですが、ラーハルトの処遇はご再考願いたいのです」
「ならぬと言うたぞ。あれは既に逃亡しておるではないか。その命惜しさにフィリアをかどかわしたのであろうよ。そんな者にかける慈悲がどこにある」
父の言っていることは明らかにおかしい。フィリアがラーハルトを愛しているのは皆が知っている。ラーハルトが、というよりはフィリアがラーハルトを助けたい一心で連れ出した筈だ。
妄執、不意にそんな言葉がエドワードの脳裏に浮かんだ。
「父上、どうかご再考を。これではラーハルトと義母上があまりに不憫です」
エドワードの諌言も、しかしレオンハルトに届くことはなかった。
「黙れ、これはグランベルク当主としての決定だ。これ以上の意見は聞かぬ」
「父上…」
レオンハルトはエドワードを無視し、無感情に配下達へと告げる。
「追手の編成をせよ。騎士は今どれだけ動かせる」
当主の言に筆頭正騎士が進み出て答えた。
「城の防備要員を最小限に留めればおおよそ60名ほどが動かせます。領都の兵士も含めればその4倍は動員できるかと」
「兵士は必要ない。馬に乗れぬ者達を引き連れても捜索の足が鈍るだけだ。ノースポイントの防衛を疎かにする訳にもいかぬからな」
それに、とレオンハルトは続けた。
「兵士達に仔細を知らせれば秘密など守りようもなくなる。いつまでも隠し通せるなどとは思わぬが、どうであれ発覚するのなら遅い方が良い。故に、この件は城の者達のみで片付ける」
「承知いたしました。それでは4名1組の15班で進めてもよろしいでしょうか」
「それでよい。北は赤竜と魔獣の危険がある故向かわぬだろう。北は除外してよい。であれば東と南に各6班ずつ、西は3班を向かわせろ。西もカティスの森は魔獣が出る故可能性は低いだろうが、特に森の浅域を念入りに捜索させるように」
「はっ、ではそのように手配いたします」
「うむ…。ああ、少し待て。エドワード、お前は西へ向かう1班を率いろ。森ならばあの忌み子もおるまいよ。お前は…そうだな。森の中域から深域までを捜索せよ」
「父上、それはどういう…」
エドワードは困惑してしまう。父の真意が読めない。
「優しいお前のことだ。あれが見つからねばよいと思っているのだろう。ならば一番可能性の低い場所へ行けばよい」
「私は、城に残るという訳には」
エドワードはラーハルトの処遇を覆せなかった。ならばせめて城で待っていれば可能性は低くても、もし生きて連れ戻された場合に助命嘆願ができるのではないかと思っての意見だった。
「そういう訳にはいかぬ。お前はグランベルクの嫡男として責務を果たさねばならん」
「ですが、後方で指揮をとる者も必要では」
「それは私がやればよいことだ。お前は捜索に行け」
「私は…やりたく、ありません」
エドワードは父の真意に気付いた。父はエドワードが邪魔なのだ、だから遠ざけようとしている。
二人がいる可能性が一番低い場所に向かわせるのも、そこで時間を浪費させていればその間に誰の邪魔もなく終わらせることができるからなのだろう。
もうこれ以上打てる手がない。エドワードは最後の抵抗として命令を拒否した。
レオンハルトの表情が怒りに歪む。
「お前は、自分が何を言っているのか、分かっているのか」
「分かっては、いるつもりです」
「いいや、分かっておらぬ。この場で当主たるこの身の命に背くのならばお前は廃嫡とする。妻子も離縁させ実家に…サザーランド伯家であったか、そこへ戻すこととする。これを踏まえた上でもう一度答えよ」
「な、にを……」
エドワードは驚愕する他なかった。まさか父がここまで強硬な手段を用いるとは夢にも思っていなかったからだ。
レオンハルトの顔を見る。その瞳は確かな狂気を孕んでいた。
「どうした。早く答えよ」
エドワードは俯き逡巡する。震える腕で血が出そうなほど強く手を握り締める。
廃嫡される。次期当主としての志も積み上げてきたものも全て無駄になる。
離縁させられる。愛する妻子に会えなくなる。これが何より辛く、受け入れ難い。
もう自分に出来ることは何もない。打てる手がない中で出来ることは全てやった。
フィリアには生涯恨まれ続けるだろう。だが、もうどうしようもない。
「最後だ。答えよ」
レオンハルトが無感情に告げる。
「承知……いたしました……」
エドワードは俯いたまま、そう答える他なかった。
「ならばよし。では当主として厳命する。不義の子ラーハルトを殺し、フィリアは必ず無事に連れ戻せ」
「「「「はっ!」」」」
「エドワード、カインをお前の目付けとする。カイン、お前の班はエドワードに付け」
「承知いたしました」
カインと呼ばれたグランベルク次席正騎士は厳かに承服の意を示した。
「では動け。これ以上時間は無駄に出来ぬ」
レオンハルトがそう締めくくると騎士達は一斉に動き出した。
騎士達が忙しなく動き回るその中で、どうか森にだけはいないでほしいと、エドワードはそう願う他なかった。