3 終わりの日、その前日
数日後、フィルがいつものように城の中で人気のない場所を、静かな足取りで探していた時だった。
「………でな、当主様が遂に忌み子の始末を決断されたぞ」
唐突にそんな話し声が聞こえてきて、フィルは反射的に近くにあった花壇の陰に身を伏せた。
見つからないように恐る恐る様子を伺えば、父レオンハルトの側近の二人の騎士が城の壁に寄りかかって周囲を気にしながら何事か話し合っている。
「やっとか。3年もレベルが上がらなかったのに、よく今まで我慢されたものだな」
心臓の鼓動が激しくなる。
「ああ。あの忌み子がどうこうというよりは、フィリア様を気遣っておられたのだろう」
声が漏れぬように震える手で口を塞ぐ。
「不義の子を孕むような女にどうして当主様はあそこまで執心されるのか」
話の内容は分かるのに、脳が理解を拒否している。
「おい、言葉が過ぎるぞ。誰かの耳に入って当主様に伝わったらどうするんだ」
「分かってるさ。でも、皆思っていることだろう」
どこか軽薄な印象の騎士は、そう言って肩を竦めた。
「そうかもしれないが、お前はもう少し言葉に気を付けたほうがいい」
「分かったよ。それで、いつ始末するんだ?」
思わず声が漏れそうになる。
自分が死ぬ日を、勝手に決められようとしていた。
「今はエドワード様が居られるからな。3日後に任務で城を離れた後になるだろう」
――僕は、死ななければいけないの?
「若様も、どうして不義の子にあそこまで優しくされるのか」
「あの方もそれさえなければ、次期当主として申し分ないのだがな」
フィルはそれ以上聞いていられなくなって、騎士達に見つからぬように静かにその場を離れる。
その表情は青ざめていた。
気付けば、母の部屋の前にいた。
あれからどうやってここまで来たのかも覚えていない。
騎士達が話していた内容は、未だ現実のこととして受けとめきれない。
一所懸命、頑張った。精一杯、生きてきた。
それでも、フィルは認められなかった。
助けてほしかった。命ではなく、今にも圧し潰されそうな、その幼い心を。
フィルは溢れる涙を拭おうともせずに、ただ母の存在を求めてドアをノックした。
ガチャリ、とドアが少しだけ開いて侍女がフィルを見やる。
「は、はうえに…会わせて、下さい…」
「少々お待ちを」
侍女はフィルのただならぬ様子を認めても一顧だにせず、事務的にフィリアにフィルの来室を告げる。
怖かった。家中の誰も彼もが自分を死ねばいいと思っていることが。
この母の側仕えの侍女もそう思っているのだと、その態度で分かってしまった。
「ラーハルト、どうしたの」
フィリアがそう告げた瞬間、躾られてきた常の行儀作法も頭から消えてしまい、フィルはフィリアに走り寄って、その胸に縋り付き嗚咽を漏らす。
フィリアはその様子にただならぬものを感じとるも、先に侍女を離れさせる。
「また、辛いことがあったのね。ごめんなさい。ラーハルトと二人にしてもらってもいいかしら」
「畏まりました。ごゆるりと」
慇懃な態度でそう言って、侍女は退室していった。
フィリアはそれを見届けると、いつものように二人だけの時の愛称で優しくフィルに呼び掛ける。
「フィル、何があったのかお母さんに教えてくれる?」
フィルは応えられない。感情がぐちゃぐちゃになっていて、ただ母に縋り付き、泣き声を上げ続けることしかできない。
「フィル。とっても辛いことがあったのね。泣き止むまでお母さん待ってるから」
フィリアはそう告げてフィルの背中を擦った。
優しい母の愛を感じながら、フィルは少しの間泣き続けた。
少し後、フィルが泣き止むのを待ってから、フィリアはもう一度フィルに優しく問いかける。
「フィル、お母さんに教えて。一体どんなことがあったの?」
「母、上…僕は、死ななければいけないの?」
フィルは震える声で母の問いに応えた。
「だ、れが…フィルに、そんなことを言ったの…」
フィリアは背筋が凍り付く思いがした。フィルが幾ら忌み嫌われているとはいえ、これはあまりにも度が過ぎている。
未だ年幼い子どもにしてよい仕打ちでは、断じてない。
「中庭で騎士の人達が、話しているのを聞いて、それで…」
フィルの返答は要領を得ない。詳細を把握しなければならないとフィリアは思った。
「フィル、その人達は、どういう風に話していたの?」
「あの…父上が、そう決めたって、エドワード兄様が3日後に、城を離れるから、その後にって…」
「嘘…そんなことって…」
フィリアの顔が蒼白になる。
夫が決めた?フィルを殺すことを?どうして?
夫の愛が自分に向いている限り、フィルの身の安全は保証される筈だと思っていた。
――私は、間違っていた?
「フィル、今の話は、本当のことなのね…?」
震える声でフィルに問う。どうか間違いであってほしいと、そう願いながら。
「はい…母上。あの、僕は…死ぬの…?」
だが愛しい息子の応えは、フィリアを打ちのめすものでしかなかった。
「大丈夫よ。フィルはお母さんが絶対に、守ってあげるから」
フィリアはフィルを抱きしめながら、自分に言い聞かせるように、そう言った。
――私は、間違っていた。
夫を愛していた。今この時までは。
いつかきっと、かつてのようにフィルを愛してくれる筈だと、そう信じていた。
だが現実は、フィリアの願いを無惨にも打ち砕いた。
誰よりも愛しい息子に、辛い境遇にただ耐えることを無理強いしてしまった。
フィルは誰よりも頑張った。誰よりも懸命に。
いつかきっと、皆に認めてもらえる日がくると信じて。
その努力の全てが、何もフィルにもたらしてくれなかった。
そして自分は、それをただ見ているだけだった。
かつてフィルが生まれた時に、何に代えても守ってみせると誓った筈なのに。
自分は、愚かだった。フィルは誰より辛い思いをしていたのに。
フィリアの心中にふつふつと怒りが込みあげていく。
認めない。認められる訳がない。
断じて受け入れられない。こんな残酷な結末だけは、絶対に。
この城にはもういられない。
咎のないフィルに悪意を向けるだけでなく、その命までも奪おうとするこの城には。
逃げなければいけない。どこか遠くへ。
フィルを脅かす者がいないところまで。
エドワードは3日後に出立する。ならば彼が城に留まっている今こそが好機だ。
エドワードはフィルに優しかった。その身を案じてくれていた。
家中の全てに忌み嫌われたフィルの誕生日を、一緒に祝ってくれた。
彼がいる今ならば、夫に詰め寄ったり追手の足止めをして、時間稼ぎをしてくれるかもしれない。
逃げなければならない。フィルを脅かす者のいないところへと。
今度こそ絶対に、フィルを守ってみせる。
フィリアは決意を固める。
その瞳にもう迷いの色はなかった。
その夜、二人の母子がグランベルクの古城から姿を消した。