2 日々
「では、本日はグランベルク伯爵家の成り立ちをおさらいしましょう。まあ、大まかな大陸史のおさらいでもありますが」
そう言ったのは家付きの男性の家庭教師で、老年期に差し掛かったその容貌は品の良い老人と評するのが相応しい。
老人はかつてグランベルク家の騎士として仕えており、年齢的な問題で隠居を当主に申し出た時に今まで培ってきたその知識と経験を惜しまれて、グランベルク家付きの家庭教師として残ることを望まれた人物だった。
こういった家付きの家庭教師は何人かいて、それぞれが歴史の講義や戦術の講義、グランベルクを率いる者としての心構えとその在り方などを成長期に入った子ども達に教え聞かせていた。
老師が語った話は以下のような内容だった。
かつて大陸ユースティ・ノアは人間の小勢力と魔獣達が入り乱れて互いにその生存圏を拡大する為に争っていた。
魔獣は総じて言葉を解さぬほどの知性しかもたないが、個々の力が強い種が多くその数もまた多い。
これに対し人類は国家という形で諸勢力に分かたれて団結し、魔獣に対抗していった。
そうして何百年にも渡る長い戦いの果て、遂に人類は魔獣を大陸の最北の地にまで追い詰めることに成功する。
魔獣達に残された最後の住処、その極北の半島の地をノースエンド<北の最果て>とよぶ。
そのノースエンドからほど近い大陸の最北部に位置するユークリス王国。
そのユークリス王国の最北部辺境に領地を持つグランベルク辺境伯爵家にはひとつの重大な使命がある。
それは人類のなかでもグランベルクの血を引く者だけがもつある特徴に由来する。
グランベルクの血統はレベルが上がる成長期を迎えるのがグランベルクの血を引かぬ者より早く訪れる。
故にいち早くその資質を見抜いたユークリス王国に請い願われる形でグランベルク家はユークリス王家への臣従を決断した。
当時より北の守護者を自認していたグランベルク家ではあるが独立した小勢力では単独で魔獣に対抗しきれないと判断したからである。戦費とて馬鹿にならず、それらを支援してくれる存在が必要だったからだ。
グランベルク家は魔獣達の最後の楽園である極北の半島ノースエンドに隣接する地であるトリエスタとユークリス王国の守護者としての役割を期待されトリエスタに辺境伯として封じられた。
諸国のなかでも個々のレベルが高くいち辺境伯爵家が持つ戦力としては破格のものを誇るグランベルク家ではあるが、ノースエンドの平定はままならなかった。
その理由はノースエンドに住まう一匹の赤い竜があまりにも強く、人類の諸勢力が何度ノースエンド平定に挑もうとも悉くこれを赤竜が退けてきたからである。
このあまりにも強大な赤竜を人々は魔獣の守護者、極北の赤竜、或いは不墜の竜王と呼んで畏怖の念を抱いた。
この赤竜の行動範囲を越えた南の地にグランベルク辺境伯領トリエスタの領都ノースポイントがある。大陸最北部の人類の守護拠点たれと願われて名付けられた都市名である。
故にノースポイントは領都と言えど諸国にみられるような華やかな都市ではなく城塞都市として堅固に機能するように都市設計し造営された、尚武の気風が色濃く漂う城塞都市である。
その領都ノースポイントに構える巖を彷彿とさせるこの古城こそがグランベルク辺境伯爵家の居城であり、大陸最北部を鎮守する礎なのだ。
では、本日の講義はここまでとしましょう、と老師は締めくくりフィルの返事を待たずに退室していく。
講義の内容自体はフィルは既に何度も聞いていた。
老師にとって、フィルへの講義はこれ以上先に進めてもどうせ無駄なのだから、それならばグランベルクの使命を何度も語り聞かせることで、それがフィルに対する何よりの皮肉になるだろうという意図を込めた仕打ちだった。
◆ ◆ ◆ ◆
月日は流れ、1年ほどの時が過ぎた頃。
フィルは古城の中庭の一角で日課である肉体の鍛練に勤しんでいた。
調練場は使えなかった。そこにいれば必ず兄姉達がフィルに絡んでくるから、フィルはいつも城のなかで人気のない場所を探しては、そこで走り込みや木剣の素振りを行っていた。
見つかって絡まれることも多々あったが、それでもフィルは諦めることはなかった。
「…78っ、79っ、80っ!……はぁ、はぁっ…」
未だレベルは上がる気配を見せず、木剣の素振りも連続では80回が限界だったが、1年前は50回がやっとだった素振りも今では体の成長とともに80を数えるまでになった。
嬉しかった。例えレベルが上がらずとも、体は確かに成長しているという実感が感じられたから。少しは背も伸びている。だから後は自分の頑張り次第だと、フィルは自分にそう言い聞かせることができた。
そうして素振りを終えて息を整えているうちに、唐突にフィルに呼び掛ける声が響く。
「ラーハルト!ここにいたのか」
声の主へと振り向くと、そこにはフィルの兄であるエドワードがフィルの下へと近づいてきていた。その容姿は短く纏めた金色の髪に端正な顔立ちで、よく鍛えられ引き締まった体はサーコートを品良く着こなしている。当主レオンハルトの第1夫人の子で22歳になるグランベルク家の嫡男である。
「エドワード兄様!お戻りになっていたのですか」
ぴょん、と跳ねるように喜色を露にしてフィルはエドワードの下へと駆け寄った。
「ああ。先ほど帰還したところだ。父上への報告も済ませてきた」
「兄様、じゃあ…」
フィルの期待とは裏腹に、エドワードは苦笑して告げる。
「すまないがあまり時間はとってやれないぞ?妻と娘の顔もまだ見ていないからな。まあ、お前の様子を少し見ておきたかったんだ」
エドワードが真っ先に自分に会いに来てくれたことにフィルは嬉しくなったが、それと同時に兄の妻子に対して少し申し訳ない気持ちになった。
「あ…、ごめんなさい。兄様」
「気にするな。すぐに謝るのはお前の悪い癖だ。何も悪いことをしていないのだから、そう自分を卑下するな」
エドワードはそう言いながら、フィルの頭を優しく撫でた。
フィルは兄エドワードのことが母と同じように大好きだった。
騎士として、嫡男としての勤めで度々城を留守にするけれど、この古城で過ごしている間はフィルを強く励ましてくれるから。
フィルが9歳を迎えた時の誕生日は、家中の者達は誰もフィルを祝おうともしなかったから、この優しい兄が領都の料理店で買い求めてきてくれた、市井の者達が祝いの席で食べるような少しだけ良い料理で、母の居室でフィルとフィリアとエドワードの3人でささやかにフィルの誕生日を祝ってくれたのだった。
つい先日迎えた10歳の誕生日は、エドワードが勤めで城を離れていたから一緒に誕生日を祝うことができなくて、母と二人だけの誕生日で少し寂しい思いもしたけれど、勤めを終えて帰還してきた時にフィリア以外で唯一フィルに祝いの言葉をかけてくれた、優しい自慢の兄だった。
「ラーハルト、留守中に何か辛いことはなかったか」
「大丈夫です。兄様がいないのは少し寂しいけれど、母上がいてくれるから」
「そうか。何もないならそれに越したことはない。じゃあ、私は妻と娘の元へ行くとしよう。ラーハルト、あまり無理はするなよ」
エドワードはそう言うと、踵を返しフィルから離れていく。フィルは兄の気遣いに嬉しくなって感謝を告げた。
「兄様!あの、いつもありがとう!」
エドワードは姿勢はそのままに、右手をひらひらと振って中庭から去っていった。
時に強く、時に優しく自分を励ましてくれる。
皆がどれだけ自分を忌み嫌っても、見捨てずにいてくれる。
この優しい兄のことが、フィルは大好きだった。