十二
六-十二
枕元に座っただけで、まだ面通りの挨拶をしておらず、自分の名は名乗っていない。
だが老婆の方から「太郎さん。」と名前を呼んでくれたのだ。
膝に届いた骨ばった手を、両手で包み込む。そのまま布団にずり寄って、胸に迎えた。この気持ちを伝える言葉が見つからない。声さえも出ない。
「太郎さんが帰って来たっちゃ。嬉しい、懐かしいっちゃ。あたい、こんな歳になってシワくちゃで、髪まで抜けとるのに……太郎さんは若いままで、ずるい。」
しわがれてはいるが、まさしく音根の声。胸から熱いものが、何度も何度も込み上げて、目が滝のように涙を押し出す。
胸に当てた音根の手の甲を、熱いうれし涙が濡らしている。
「音根、会いたかったぞー。ずうっと会いたかったじゃ。」
「あたいも。太郎さんが帰って来るのを、ずうっと待っとったんよ。会えると信じとったんよ。今まで生きてきて良かったっちゃ。」
音根は若い頃のことを、鮮明に覚えていた。
幼い時に二人でヒエ畑を荒らし回ったことから、満月の夜に丘で夫婦になる約束をしたこと、裏島で鯛を売る店を出す夢、北島沖で二人を襲った龍を倒したこと。
さらに大きな海亀に乗って旅立った後の、大きな地揺れと大波に遭ったことなど、想い出を四半刻(約三十分)近くも話し続けた。
「そうじゃったなあ、それも覚えとったか。そうそう、そうじゃった。」
あいづちを打ちながら聞き、震える声を隠して笑顔で、懸命に応えた。
歳は重ねても、大きな瞳と色白の肌、笑顔と口調は二十歳の音根そのままだ。音根は話しながら起き上がろうともがく。
弥恵と次郎が、背中を支えて起こしたので、両腕で包み込むように迎え、強く抱き合った。
「会えて良かったですのう。さあさ、よう話をして疲れたじゃろう。もう横になって少しお休みなされ。太郎さんはずーっとおるで、安心してな。」
次郎が涙声で話しながら、そっと寝かせる。弥恵は両手で顔を覆い、泣きむせんでいる。
音根は微笑んだまま、自分を見つめたまま、眠りに入った。次郎に音根の歳を聞くと、七十歳と言う。
---そうか、五十年も海底にいて、帰ったのか。
「本物の浦浜の……太郎さんに会えるとは……あの話は作り話……じゃと思うとったが。」
弥恵の感極まった途切れ途切れの言葉に、顔中を涙で濡らした次郎が、鼻をすすりながら大きくうなずく。
「この浜は、浦浜というんか。」
「土地の名でな。浜だけではのうて、丘も全部が浦浜と言うんじゃ。」
ここが裏島ではなく、浦浜という地名に変わっていた。
「オラが住んどった頃、この辺は裏島という名じゃった。」
「ええっ、裏島ですかー。そういえば……。」
目を見開いて驚いた次郎は、腕を組んで山手にある寺の話を始めた。
「子供の頃じゃ、この浜に旅の僧が来た。僧は村の衆にタメになる話を聞かせてくれたり、病いを治してくれたり、子供には読み書きを教えてくれる、ありがたいお方じゃった。
僧は、ここを裏島と言い張って、山手に寺を建てた時も裏島寺と名付けた。太郎さんの住んどった頃を知っとる、僧じゃったんじゃ。」
その僧は作周と名乗っていた。今は差江の寺から来た、作佐という若い僧が寺を継いでいると言う。
次郎にも、あの時いた村の衆を一人ずつ聞いてはみたが、誰も知らなかった。生きているのは音根だけだろうか。
「太郎さんが海に入ったと言う、五十年も前のこと。この地に大きな地揺れがあったそうな。地揺れで全部の家が壊れてしまい、そのあとすぐ大波が来て丘の中ほどまで駆け上がり、引く波で家も舟も、人も、海に流しよった。あの時の人は皆、大波に呑まれたと聞いちょる。」
地揺れと大波で、村が壊滅した。対岸の差江も大波を被って、甚大な被害が出たと言う。
海に入った直後の出来事であれば、知った人がいないのは道理である。
「母ちゃんも梓も、その大波に流されて死んだんじゃろうか。」
こればかりは確かめようがない。
音根はずっと自分の帰りを待っていたが、多賀屋升克の計らいで北島の漁師の家に嫁いだ。地揺れに遭う前の年だったと、本人から聞いたと言う。
被害が小さかった北島に住んでいたため、無事だったのだ。
音根は一男一女を授かったが、夫は若くして海難で死んだと言う。
忌まわしい地揺れから三年が経ち、復興に明け暮れる浦浜へ戻って、以来この家で暮らしていると言う。
聞きながら海に発つ前の晩、音根の同意を得て、二人だけの祝言を挙げた。そのとき音根に託した我が子は、どうだったのか確認したくなった。
「音根が嫁ぐ前まで、オラの帰りを待っとったと聞いたが、子連れじゃったという話は聞かなんだか。」
「そうは聞かなんだ。」
子供は生まれなかったのだ、音根の話にも出てこなかった。残念だが仕方がない。
「そんで、音根が授かった一男一女の子供は、今どこにおる。」
「ワシが子供じゃよ。妹は差江の呉服商に嫁いだ。」




