五
六-五
肩に置いていた手に頬ずりをする、加奈の涙が甲を濡らす。最愛の女は加奈だ、もう加奈と夫婦になってもいい。
鯛を釣るのも、ハクビを栽培するのも同じだ。熱い涙を甲に受けながら、地上を捨てても後悔しない考えになった。
---こうなる運命じゃ。
そこへ乙姫と一太夫が追い付き、拍手を送る。
「太郎殿、よくご決心なされました。王にならなくても良いのです。加奈殿とハクビを育てながら、時には乙姫様の片腕にもなってくだされば。」
乙姫が横に座って、耳打ちしてきた。
「ね、驚いたでしょ、私の勝ちです。でも太郎様が加奈さんと夫婦になられ、この国に残る決心をされるなんて……。私も驚いたので、引き分けです。」
音根に似た愛くるしい乙姫と、端正な顔立ちと無限の魅力を秘めた加奈。どちらと祝言を挙げても幸せだろう。
だが心の底に、地上を捨てる抵抗が押し寄せ、再び苦しい葛藤が始まる。
「加奈さん。こんな大事なことは、ゆっくり話し合うて決めることじゃ。とにかく旅は思いとどまってくれ。」
四人は、川のせせらぎ沿いに歩いたり、椎の木の下でどんぐりを拾ったり、小路を覆う低木を助け合いながらくぐる。
時にははしゃぎ、また声を掛け合い、和やかな散歩を楽しんで金の扉に戻った。
「これからの事は、この部屋で話し合いましょう。」
「そうじゃ。それがええ。」
今日はこの国を発つ。なのに「これから。」とは、海底での暮らしを決めたことになる。でも今は、それでも良いと思った。
加奈が旅立ちを止めてくれたお礼に、宴の間で踊りを見せたいと申し出た。
四人は七色に輝く廊を大声で話しながら渡り、細かな彫刻を散りばめた、赤い扉を入った。
ここは初日に来た大広間だ。もうすでに多くの侍や農民が、食膳を前にして酒も酌み交わしている。
「ちょうど今が、お昼の支度中です。こちらへ。」
一太夫が迎えに出て、金屏風の前の席に案内された。フカフカのぶ厚い座布団に座ると、両側に一太夫と二太夫が座った。
大広間を見渡すと、まるで時が逆戻りしたかのように、初日の宴と変わらない風景だ。
---ええっ、最初の日に戻ったんか。
まさか、まさか、豊作祭が繰り返される……と、不気味な感覚が脳裏を走る。神仏に祈る心地で座っていると、奥の扉から笛の音色とともに、花笠を手にした大勢の踊り子達が、大広間の中央に走り出た。
笛や太鼓、小鼓、鐘の音が大きくなった。踊り子達は花笠を被って、食膳の間を踊りながら練り歩く。すると侍も農民も、一緒に踊り始めた。いかん、これは初日の再来だ。
だが少し違った。加奈が席まで来て、踊りに誘ったのだ。豊作祭の繰り返しではなかったと安堵し、加奈と至極の時を過ごした。
魅惑の笑顔と白粉の香りが、全身を包み込む。
---加奈とずっと一緒にいたい。加奈となら、何もかも捨てられるじゃ。
加奈にどんどん惹かれていく心に、また別の心が押し寄せ、強く戒める。
「一時の感情で決めるのか。母ちゃんや梓、音根が家で待っとるぞ。」
揺れる心を引きずりながら、踊りは終わった。加奈は他の踊り子達と奥に消えた。
「どうすりゃええ。」
思わずつぶやく。傍目からも苦しんでいるのが分かるのだろう。二太夫が酒を勧めながら静かに話を始めた
「悩んでおりますな。大事なのは、今の幸せが一生続くかどうかです。十年後、二十年後、三十年後の太郎殿をお考えになり、そなたの後悔のないように決めなされ。」
二太夫の言葉は衝撃だった。加奈との間に男子が生まれても、ここでは鯛釣りを教えることは出来ない。果たして十年後、二十年後もこの農園で、この小さな国で、幸せな生活が続いているのか。年老いて住んでいる世界が、海底でもいいのか。故郷の地上では家族や音根、村の衆が待っている。
答えを探して焦っていると、ふと雑木林の部屋を思い出し、疑問が浮かんだ。
部屋の出入口は、金の扉だけと二大夫が言っていた。加奈は部屋から旅立とうとしていたが、他に外に出る扉はないはず。
あれは永住を決心させるよう仕組んだ、狂言ではなかったのか。乙姫の態度にも疑問が浮かぶ。
王になるのを蹴って加奈と一緒になるのに、一も二もなく賛成し、拍手までした。これは皆で共謀した狂言だ。
巧みにダマされていたことに気付き、無性に腹が立った。同時に海底に永住する考えは、霧が晴れるように掻き消えた。
今ここで、気付いたことを誰に悟られてもいけない。あえて大袈裟に苦しそうな顔をして、料理を口に運ぶ。
「二太夫さん、ゼクスの墓に参りたいんじゃが。」
早々に昼食を終え、横で食膳を片付けている二太夫に、重苦しい口調で案内を頼んだ。
「そうですな。案内して進ぜましょう。」
どうやら二太夫は地上に帰った方がいいと、暗に教えてくれている。
楽園では、乙姫と祝言を挙げるよう進言していたが、本心は反対の意見を持っているようだ。
味方になってくれそうだが、乙姫の側近なので、大っぴらには話せない。




