四
六-四
言われるままに目を閉じると、乙姫が優しい力で手を引く。十歩ほど歩いただろうか。
「もういいですよ太郎様。目をお開けください。」
そっと目を開けた。ところが目の前には、大きな木が立ち並んでいるではないか。
「え、外に出たんか。」
「いいえ、太郎様にお寛ぎいただく、とっておきの部屋です。」
ここが部屋か、どう見ても薄暗い雑木林の中だ。木の枝の隙間から青い空が見える。
本当に、ここが部屋であっても木に遮られて、広さが予測すらできない。
足許には背の高い雑草が生い茂り、それを掻き分けたように細い小路が通っている。
「行きましょう。」
ずっと手を離さず先導する乙姫の手は、柔らかくて少し冷たい。
この乙姫と夫婦になれば、こんな幸せな日々が送れるのか……。夕べ決断した地上に帰るのだという、強い気持ちが少し揺らぐ。
「あの木の下で、休憩しましょう。」
指さす前方に大きな松の木があり、太い根が地面から出て、横たわっている。二人は松の根に並んで腰掛けた。二太夫は、離れた小路の石に腰掛けている。
「ここが部屋の中とは……お天道様が上から差しとるで、妙な気分じゃが、乙姫様の手がオラの手に付いとるで、ちょっと落ち着いてきた。」
少し強く手を握り返す。乙姫は口を押さえ、身体を揺すりながら笑う。その丸い横顔がとても愛らしい。
「私の舞をご覧いただけますか。心を込めて舞いとうございます。」
前方に日が差した小さな芝草の広場がある。黙ってうなずくと立ち上がり、広場の中央に出て静かに舞を始めた。
お囃子も小唄もない静寂の中で、何も手にせず緩やかに舞う乙姫に、日差しが当たって浮かび上がる。豊作祭の宴で見た舞とは違い、素朴で可憐な美しさに心が震える。
腹の底から熱いものが込み上げて、息苦しい。流れるような手足の運びを見つめているうち、涙が溢れる。拭っても、拭っても、涙の幕で乙姫がよく見えない。
前に音根が舞ってくれた、満月の夜と同じだ。駆け寄って抱きしめたい衝動が起こり、少し腰が浮いた。
だが脳裏から、身体の動きを制止する別の感情が、沸き起こる。
「太郎ええのか。ここは海底じゃぞ。地上を捨てるんか。」
ここで乙姫を抱きしめたら、いよいよ愛おしさが増すだろう。そして地上も家族も乙音も、全てをあきらめる結果になる。
まだ地上に帰る願望が強いので、別の心が抵抗したのだろうと、松の根に座り直した。
舞い終わった乙姫が戻った。立ち上がって拍手で迎え、自分から乙姫の手を取り、並んで松の根に腰掛ける。
「いかがでしたか。与という愛おしい人に、心身を捧げる舞は。」
「もう、素晴らしかったじゃ。気持ちが震えて、どうにも涙が止まらんかった。」
正直な気持ちなので、繋いだ手に気持ちを込めた。
「よかった。」
でもどこか寂しげな、乙姫の表情と声。
やっぱり駆け寄って、抱きしめるべきだったのかと考える。いや今日は、地上に帰ることを伝えに来たのだ、踏み留まって良かったと思った。
ふと乙姫が立ち上がり、腕を両手で引っ張りながら、元気な声で誘う。
「もう少し奥へ行きましょう。きっと太郎様は驚きますよ。」
「もう、大抵のことで驚かんようになっとる。」
「まあ来てください。絶対に驚きますから。」
「いや、驚かん。」
「驚きますとも。」
乙姫は目を輝かせて、自信たっぷりに言う。
「それは、恐いもんか。」
「さあ、恐いものか、眩しいものか、とっても美しいものかも、しれません。」
「そりゃ楽しみじゃ。遠いんか。」
「あの路の角を曲がると見えるはずです。あっ、あれです。」
乙姫の指さす方向を見ると、草むらの向こうに笠を被った旅人らしき女人が、こちらを背にして歩いている。
「太郎様、早く。旅人が行ってしまいますよ。」
乙姫が背中を強く押したので、その勢いで旅人を追った。さほど遠くなかったので追い付いて前へ回り、顔を見て仰天した。
「ありゃ、加奈さんじゃ、何で加奈さんが旅に……。誰かの用事か。」
矢絣の着物姿で、斜に荷物を背負った加奈。白粉の香りが辺りに漂う。問いかけられてうつむく加奈は、格別きれいに見えた。
「どこへ行くんじゃ。国の外に出るんか。」
加奈はその場に崩れ落ち、声を抑えて泣き出した。国の外なら、前の逃亡中に加奈が言っていた森か。
「今生のお別れです。行先も理由も聞かないでください。」
何があるかしれない、危険な所と聞いているので、一人で行かせることはできない。
「一人で旅に出ちゃいけん。これからオラとハクビを栽培しようじゃ。」
何てことを口走ってしまったのか……引き止めたくて、つい口からこぼれた言葉に気付き、慌てて口を押さえたが、後の祭りだった。
その言葉で加奈が、いつもの明るい顔に変わった。
「この国で太郎様と、ハクビを収穫できるのですね。乙姫様とではなく、この私と。」
加奈は、愛する人を乙姫に奪われた悲しみで、この国を去る決心をしたと、旅の理由を話した。
「うれしい。」




