二
六-二
乙姫が言うには、オラは国民にも歓迎されていて、断る理由がどこにも見当たらない。だが……どこかに得体のしれない抵抗を感じる。
「ちょっと待ってくれ。そんな急な話に返事はできん。この国は好きじゃが、オラは読み書きができず、武力もない一介の漁師じゃ。国を治めるなど無理じゃ。」
だが迷っている心の隙間に、一太夫がズカズカと割って入る。
「地上のような戦いも、食べ物に窮することもない穏やかな国ですから、ご心配は無用です。太郎殿は人望がお有りなので、お願いするのです。国を治める人に必要なものは、読み書きや武力ではなく、人望です。」
潤んだ眼差しで見つめる乙姫、詰め寄る一太夫と二太夫。身動きも瞬きもせず、言葉を待つ三人との間に、張り詰めた時が過ぎる。
そよ風に揺れる色とりどりの花に、蝶や蜂が思い思いに群がる心地よい風景が、嘘のようだ。
長い沈黙を裂いたのは乙姫だった。
「ごめんなさい。太郎様のお気持ちが一番なのに。」
その言葉で、ふと我に返り「私より、乙姫様を選ぶのですか。」と叫んで泣いた、昨日の加奈の言葉が甦った。
こうなることを加奈は予知していたのか。もし加奈と一緒になりたいと言ったら、この話を断って地上に帰ると言ったら……果たして乙姫はどう出るか。
楽しかった楽園を後にして黒い建物を出たものの、気持ちが重い。
「ええ国かもしれんが、オラは母ちゃんや梓と暮らすのが性に合うとる。抵抗は帰りたい気持ちの方が強いからじゃ。」
前庭の撒き石に腰を掛けていると、二太夫が後ろから軽く肩を叩いて前へ回り、しゃがみ込んだ。
「ほれほれ、何を悩んでいなさるかな。」
足許の小石を拾っては投げながら、チラチラと見上げる。
「太郎殿はどっち道、地上には帰れないとお思いでござろう。」
「……。」
「乙姫様と夫婦になれば、国王になれる。だが断れば殺されるか、牢に放り込まれる。どちらを選んでも、帰ることができない。そうですな。」
「……。」
「何かしらの駆け引きで生きている人間は、そう考えるのです。富や権力や名誉を得るために、人を陥れたり殺したりする人間って、悲しい生き物ですなあ。」
「二太夫さんも人間じゃ。」
「あ、そうでした。拙者は地上の人間はと、言いたかったのです。」
「ここは違うんか。」
「この国には、他者を押し除けて目的を果たすといった、ちっぽけな考えはありません。だから深海ザメやウミヘビ、紫ヒトデを防ぐ槍と刀、弓矢以外に武器はありません。牢という代物もありません。」
この国が平等で平和であることは、痛いほど理解できる。でも、こんな刺激のない国に住んで、果たして幸せと言えるだろうか。
欲望があるから知恵を絞り、夢を持ち、それを追って強く生きていけるのだ。二太夫は心境を察したように背を向けた。
「お気持ちを正直に話せばいいのです。乙姫様は心の広いお方なので、太郎殿が望むようになされる。」
故郷より素晴らしい場所はない。二太夫の言うとおりで、最悪の事態を考えて悩むより、本心を伝えるべきだ。
美しく豊かで平和な国が、手からこぼれ落ちるのは惜しいが、ようやく地上へ帰る決心がついた。
「もう屋敷に入りましょう。今日は楽園で遊びましたので、遅くなりました。」
「ああいう所には、何回でも行きたいもんじゃ。」
「明日は出立される五日目ですから、太郎殿のお望みのままにお過ごしなされては如何でしょう。何か希望はございますか。」
二太夫はオラが出立すると、はっきり言った。この国に永住しない決心を汲み取ったのだ。
だが希望など思い浮かばない。ここに来た一日目から、見るもの聞くものに驚きっぱなしで、まだ思考の混乱は収まっていない状態なのだから。
「そうじゃな。乙姫様の舞いと加奈さんの踊りを、もういっぺん見たい。それからゼクスの墓に参りたい。」
「承知しました。明日は乙姫様とよく話し合いなされて王になるもよし、ショウの背に乗って地上に帰るもよし。太郎殿のお心のままに……ですな。ハハハ。」
平原の片隅にある、大きな岩の鏡の前。
リュウビを囲んでマイス、ミンクにショウ、トポスまで加わり、寝所で熟睡している太郎を眺めながら会談している。
「地上では、入江に大きなタライを浮かべて乗り、釣り糸を垂らす町人の遊びが流行っています。」
「町人の遊びですか。」
「釣った魚を食料にもしますが、暇つぶしの娯楽で、糸に罠を仕掛けて魚を釣り上げるのが愉快なようです。
また山の動物を弓矢で追い、殺す遊びも増えています。」
不愉快そうに顔をゆがめるマイスに、リュウビが口調を合わせる。
「人間同士の殺し合いが収まったので、海の魚や山の動物を殺すのですね。これに飽きたら、人間同士の殺し合いが、再び始まるのでしょう。」
「遊びであろうと何であろうと、抵抗できない弱者の命を奪って遊び呆ける人間の性根は、実にけしからん。」
トポスも嘆き、鏡の中の太郎を睨んだまま、黙った。




