第六章 乙姫に気持ちを伝え、ショウの甲羅に乗って帰った地上は家や人が変わって茫然とするが、音根は生きて待っていた
六-一
「襲われたら。」
「そりゃもう、イチコロですな。」
一太夫が、つぶやくように即答したので恐怖が膨らみ、冷や汗が噴き出す。あの熊に四人が襲われて辺り一面、血の海となった風景が容易に想像できる。
---いよいよ終わりじゃ。
熊はゴザの横まで来た。強い獣臭が鼻を突く。差江でよく似た大きさの、黒牛を間近に見たが、まるで比較にならない威圧感だ。黒く鋭い視線を浴び、思わず居すくむ。
乙姫が熊の顔の前に、赤い果物を放り投げる。熊はそれを、おいしそうに食べた。一太夫も、二太夫も投げる。続いて投げるよう催促されたが、硬直した身体は動かない。
いくつかの果物をもらった熊は、満足げな歩調でゴザから離れ、丘を駆け上がって姿を消した。
「ふう、もう終わりかと思うたじゃ。」
大きく息をつく。乙姫が怪訝そうに、顔を覗き込んできた。
「あの熊に襲われると思ったのですか。」
「そうじゃ、ここの食べ物を奪うために来たでな。」
一太夫が呆れ顔でつぶやく。
「ほう、食べ物を奪うために来たのですか。でも大人しく帰りましたな。」
「ゼクスの作り物じゃから、帰ったじゃ。」
「そう言うことではありません。私達が食事をしていたので、何か貰えるかと来たのです。それで果物をあげたら帰りました。全ての動物は、わが子やわが身が危険にさらされない限り、むやみに戦いません。相手に殺意や敵意がなければ、敵と見ないのです。」
乙姫の言葉につなげて、一太夫が嘆いた。
「多くの動物が恐れる地上の人間は、近づくと逃げられたり、威かくされたりで、天涯孤独でしょうな。太郎殿のようなお方ばかりだと良いのですが。」
人間は地上で天涯孤独と言われ、何も返す言葉がない。
すぐ近くに小川が流れていると言うので、出向くことにした。小川に着き、清らぎに足を浸けると、ひんやりと気持ちがいい。
そこにも小さな魚が、群れて楽しげに泳いでいる。ここは海底なのに、まるで地上と変わらない。
叶わない夢だが、母ちゃんや梓や音根、村の衆を呼んで、この楽園に住みたいと思う。
「どうですか太郎殿。地上の楽園は面白いでござろう。」
「まっこと面白いじゃ。いつもここで楽しんどるんか。」
「たまに来ます。今日は丘でしたが、海辺もあります。もちろん夏も、秋も、冬もあります。乙姫様の激しい執務から解放できるようにと、ゼクスの計らいです。では花見の場所に戻りましょう。」
一太夫が手をポンポンと叩くと、そこはゴザの上であった。乙姫が座り直して着物を整えると、一太夫と二太夫も、並んで正座した。
その顔は、先ほどの陽気な表情でも酔っ払いでもない。突然の変わりように戸惑っていると、乙姫から酒を勧めてきた。
「太郎様がこの国に来られて、人々に活気が出ました。誰もが心から歓迎しているのですが、太郎様はまだ何かを疑い、警戒されているようですね。」
乙姫の大きな瞳の奥に、心の底を射抜くような、鋭い輝きを感じる。
大騒ぎから一変して、静かで緊張感のある空気に面食らい、たじろぐ。周りの景色は色鮮やかで、柔らかな風が桜の花びらを運んでいるのに……。
「地上では考えられない現象が、この国には普通にありますから、疑われても仕方がないのでしょうね。」
「あまりに綺麗で、光がいっぱいで。絵師の盛親でも、この景色は描けんじゃろう思う。すごい国じゃ、ここは。」
絶賛してみるが、乙姫に笑顔が戻らない。この機会に疑いを払拭しようと考え、思い切って龍の話を持ち出してみた。
「オラ達や、この国を襲った龍は死んだじゃろうなあ。」
乙姫が顔を伏せて反応しないので、二太夫が割り込む。
「拙者せっしゃ)は東の海底で、龍の死体を見ましたぞ。ボロボロになって死んでおった。二頭目が現れるかと、警戒しておったのですが、あれ一頭だけ、だったようです。」
さらに追い打ちをかけるように、一太夫も口を開いた。
「先の乙我様、真紀姫様はお気の毒でしたが、乙姫様が常におっしゃるように、あの事件があったからこそ、今の平和と豊かな暮らしがあるのです。」
心の底で、ずっと龍への疑いがくすぶっていたが、この会話で吹っ切れた。もう龍はこの世から姿を消し乙姫も、国の人々も、龍の一味ではなかったのだ。
「この国をどう思われますか。やはり地上とは、比較になりませんか。」
唐突な質問を、直接乙姫から聞くとは……。気が動転して返事に困っていると、一太夫と二太夫が膝でズリ寄って来て、頭を下げる。
「拙者からもお願い申す。乙姫様と力を合わせて、この国を治めてもらえまいか。」
「乙姫様は二十四歳、太郎殿は二十二歳ですな。」
「もう二十三じゃ。」
「そうですか。ひとつ年上の女房は旅をしてでも捜せと、地上では言いますな。」
話が核心を突いてきた。乙姫と祝言を挙げて、この国の王になれといっている。
承諾すればこの国と、美しい乙姫を手に入れるが、引き換えに二度と地上には帰れない。乙姫はまるで音根でもあり、心を惹かれた加奈もいる。もう龍はいないし、サメも襲って来ない。




