五
一-五
鯛は避難している小魚を狙って、群れで集まる習性がある。
「こんだけ海が荒れたら、鯛はつばくろ岩の内側に集まっちょる。北の岬じゃ。」
勘次が低く声をかけ、つばくろ岩へ舟を向けた。海は昼間の荒れ模様が嘘のようにひっそりと静まり、勘次の漕ぐ櫓の小さな波音だけが、闇に漂う。
雲間から時折りのぞく半月が、舟の航跡をほんの少し照らしている。
その頃、浜では万作と弥助が大声で叫び合っていた。
「オーイ太郎や、海は静まったぞい。勘次も漁に出るんじゃろ、ワシの舟も使え。ワシも弥助も一緒に行くでな。」
万作は、おりんから事情を聞き、浜の方から怪物を翻弄しようと狂言を始めたのだ。
家から飛び出したおりんが、続いて万作達に叫び返す。
「万作はん、太郎はもう表島へ走ったじゃ。もう漁には出られんさぁ。」
「なら、呼び戻さんかい。今からでも鯛を獲らにゃ間に合わんぞ。」
「湾の半分くらいは走っとるで。万作はん舟を出して、海の方から呼び戻してくれんかぁ。」
おりんも万作も、この掛け合いを怪物が聞いているよう祈りながら、渾身の演技を続ける。
「わかった、すぐに舟を出そう。弥助はん行くぞぉ。」
万作は湾に向かって叫ぶと、けたたましく舟を漕ぎ出す。湾の奥へ近づくと、陸伝いに走る仮想の太郎に向かって、声の限りに叫ぶ。
弥助も叫び、時にはバシャバシャと櫓で海面を激しく叩いて、目立つように騒ぎ立てる。
「太郎やぁ、引き返せぇ。すぐ戻れぇ。」
風もなく、とっぷり暮れた静かな海に、それは異様な騒がしさだ。
万作と弥助は漁火をいくつも灯して高々と掲げたり、振り回したりして途切れなく大声を上げる。今頃は、太郎と勘次が漁を始めているだろう。
勘次の巧みな櫓さばきで、つばくろ岩の間に舟が滑り込んで止まった。急いで枝糸の付いた釣り糸六本を、舟の胴から垂らして漁を開始する。
そこでしばらく釣ると、舟を別の岩間に移して釣る。それを何度か繰り返すと、予想を超えて鯛が釣り上がる。順調だ。八十尾と言わず、百尾でも釣れそうな勢いだ。
湾の奥の方で漁火が明々と灯り、何やら叫んでいる声が聞こえる。
あれは怪物の意識を湾の奥へ引き付けるための、漁師仲間による援護だと気付いて、心で手を合わせた。
---かたじけない。怪物よ、浜の方に気を向けていてくれ。
つばくろ岩の根元は無気味なほどの静けさで、ピチャピチャと岩をなめる波の音だけが聞こえる。
真っ暗で見えない手元は、雲間から照る月明かりに頼るが、この漁場は岩の形状も間隔も、礁の位置さえも分かっているので不安はない。
鯛釣りは物音を立てずに淡々(たんたん)と続いた。
「もう三刻ほど経ったかのう。」
勘次は釣り上げた鯛をトロ箱に詰めながら、小さな声で聞いてきた。
「まだ二刻ちょっとじゃろう。鯛はどのくらいになったんか。」
「今んところ箱四つ目で、六十を超えたくらいじゃ。」
目標の半分は超えている。まだ怪物が気付いた様子はないが、ここで気づかれたら確実に二人の命はない。
浜で援護してくれる漁師仲間達と家族のために、何としてでも百尾を釣り上げて、無事に帰らねば。
---慌てるな、慌てても事は同じじゃ。
何度も何度も自分に言い聞かせて、余力を振り絞る。
時おり、冷たい風がヒューッと岩を抜けるたびに、二人は舟底に身を伏せ、辺りの様子を確かめる。
背後や頭上に、何かしらの影を感じては身をすくめ、振り向く。月明かりに浮かぶ尖った岩が怪物に見えて、手が止まる。
何ごともないと分かると、また漁を始める。それを繰り返す。
陸は爽やかな春なのに、今夜ばかりは勝手が違う。凍てつく冬より寒く感じながらも、汗が額や首筋から吹き出して止まらない。
それを拭いながら、懸命の漁が続く。
この汗は、いつ怪物に気付かれるかもしれない恐怖と、目標の百尾を目指す緊張の汗だ。
これほど釣りを急いだのは初めてだが、一時も早くこの場を去りたい心が、作業の手を緩めさせない。かじかんだ手は感覚がなく、指が千切ていても、今なら気が付かないだろう。
「太郎、百じゃ。百じゃぞ。急いで引き上げじゃ。」
勘次は低く、しかし歓喜に似た声で叫ぶと舟尾に立ち、櫓を漕ぎ始める。
自分は六本の釣糸をたぐり上げて、音を立てないように鯛が詰まったトロ箱を重ねた。その上にムシロを被せながら、じわじわ遠のくつばくろ岩に目をやる。
---怪物を出し抜いたじゃ。どうか浜まで見つかりませんように。
かじかんだ手を合わせ、何度も何度も神仏に祈る。西に傾きかけた月の明かりが、舟の航跡を海面に映している。急げ、急げ。
浜では数多くの松明が、右へ左へと交錯している。おそらく村の全員が浜に出ているのだろう。舟は松明に引き寄せられるように、まっすぐ浜の方へ進む。
松明や湾に入った舟の漁火は、二人への目印にと企図したものか、偶然なのかは定かでないが、目印として充分すぎる効果があった。