四
一-四
「聞くと、半月前から魚商に手配しておったそうじゃが、釣り人が急に病んで揃わんらしい。あちこち手を尽くしたが、かなわなんだと。」
一晩で百尾もの鯛を揃えるなんて無理だし、今日は昼から海が荒れて、舟を出せそうにない。
「万作はん、百は無理じゃ。そうじゃろ勘次。」
今まで一晩で六十尾が最高だった。鯛釣り名人とおだてられ、いい気になっていた自分が情けない。
「やる前から無理ちゅうなら、お手上げじゃ。なあ勘次、ワシんとこの治市では釣れんかのう。吾平とこの吾作が、加勢したらどうじゃ。」
万作がしかめ面をして、チラチラとこちらを見ながら、低い声で聞く。
「一度に百の鯛は、太郎しか釣れんじゃ。日暮れには静まるかも知れんし、海が荒れたあとは鯛がつばくろ岩の根元に集まる。今朝の二十尾がまだ家にあるで、早目に出て八十釣りゃええ。」
勘次は前向きだが、一晩で百尾もの鯛を釣り上げる自信がない。気が動転して身体の揺れが止まらない。
背中を押され、しぶしぶ出漁準備をするものの、荒れている海は静まりそうにない。何度か荒れ狂う海に出ようとはするが、そのたび大きな波に阻まれる。
何としてでも百尾の暁鯛を釣って、城に届けねばならないのに……。
「もしも鯛が届かんかったら、婚礼はどうなるんじゃ。オラは能勢殿に成敗されるんか。」
勘次と二人で浜に立って荒れ狂う海を、恨めしく見つめていると、勘次がある現象に気がついた。
「ありゃ、こんなおかしなことがあるんか。」
三里ほど離れた北の水平線沿いに、北島と呼ぶ多賀の大きな島がある。小さな町や村が点在し、鯛を買ってくれるお得意さんの多い島だ。
その島の海岸線をよくよく見ると、高波などなく、穏やかだ。山頂付近には西に傾きかけた陽が淡く光っている。つまり海が荒れているのは、ここだけではないか。この荒れもようは不自然だ。
「こりゃ、あの怪物の仕業かも。」
勘次が腕を組んで、じっと海をにらむ。
「この湾に怪物が戻っとるんか。オラたちの出漁を知って邪魔しとるんか。」
背筋が凍りつき、身体の血が泡立つ。五年前の出来事が、鮮明によみがえった。
「いやじゃ、いやじゃ、いやじゃ。舟を出したら怪物に食われる。もう漁には行けん。」
浜に座り込んで天を仰ぎ、頭を抱えて叫んだ。すると勘次の手が肩にかかった。
「シッ。これ以上、大きな声を出すな。オラに考えが浮かんだ。」
勘次が口に手を当てて、耳元で小さくつぶやいた。
「太郎は今、もう漁には行けんと叫んだじゃろ。それでええ。太郎が出漁をあきらめたと、怪物に思わせたじゃ。もうすぐ海は静まるで、日が暮れたら出漁じゃ。」
さらに、楽しそうに言葉を続ける勘次。
「そんでな、万作はん達に浜で騒いでもらって、怪物の気を浜の方に引き付けちょるうちに、つばくろ岩で鯛を釣ってしまおう。さあ、家に入って策を練ろう。」
考えは分かるが、怪物がこの海峡に潜んでいるのに行くのか。勘次の家で細かな手筈を聞きながら、仕方なく懸命に勇気を奮い(ふる)い立たせる。
策を聞いてすぐ家に戻り、前に試した釣術のひとつで、一本の釣り糸に五尾が掛かる枝糸の取り付けを、母と妹に頼んだ。返す足で丘に駆け上がり、勘次の家に向かって精一杯の声で叫ぶ。
「勘次、オラはこれから表島までひとっ走り行ってくらあ。この天気では殿様も勘弁してくださるで、もう漁には出んじゃあ。」
大声で叫び、低い姿勢で裏のヒエ畑伝いに、勘次の家に転がり込んだ。
「ようし太郎は、陸伝いに表島へ走った。さあ、今度はオラ達が怪物をダマす番じゃ。」
勘次の自信に満ちた顔を見て、どういうわけか怪物への恐れも、一晩で百尾もの鯛が釣れるのか、という心配もなえている。
何かに背を押されているような、妙な感覚がある。
「もうじき海は静まる。日も暮れかけたで、東の岩場から舟を出せるよう準備する。太郎は釣り糸と餌を用意して、舟に来てくれ。」
再びヒエ畑に身を隠しながら、這うように家に戻った頃、激しく岩に打ち付けていた波の音が、気のせいか小さくなっていた。
「やっぱり……勘次の言うた通りじゃ。」
頼んでいた新しい釣り糸を、母から受け取った。辺りは真っ暗になったが、あの怪物は夜でも目が見えるだろう。
慎重に身を隠しながら、束ねた釣り糸を肩に巻き、餌箱を背にして、勘次が待つ東の岩場へ急ぐ。
もう恐怖を感じる余裕などない。勘次はすでに出漁の用意を整えて、岩陰で待機していた。
「行こう。」
「お、おぉ。」
言葉少なに、舟を海面に押し込んで飛び乗った。舟は漆黒の海に溶け込む。
波の音を立てて怪物に見つかってはならないと、勘次が慎重に舟を進める。
その間、ほとんど見えない手元を探りながら、束ねた釣り糸をほどき、針に餌を付けながら、舟の胴部に結んでいく。
海が荒れると小魚は湾の中に避難して、複雑な岩間に身を潜め、沈静を待つ。