十一
二-十一
「太郎は龍との戦いぶりを、勇ましく話すと思うとったが、まあ正直に話してくれた。あんな怪物と一人で勇ましく渡り合える訳がないもんな。やっぱ、太郎は村の英雄じゃ。」
意に反して、村の衆の心を打ってしまったことが気恥ずかしく、顔が火照っている。もう頭を掻くしかない。
差江でも大変な騒ぎになっていた。身の丈が一丁もあろう巨大な龍に、一人で挑んだ豪傑が見事に退治したと、どこも怪物退治の話でもちきりである。演芸場では張子の龍と英雄の戦いを演じて、連日大盛況だ。
その英雄が見すぼらしい漁衣を着て、港町で鯛を売って歩いている男とは、誰も気付いていない。
差江将光は丸十屋の事件以来、龍の存在を認めて警備を補強したほど、町の安全に細心の注意を払っていた。
今回の龍を退治した男が、裏島に住む太郎という漁師であることを水軍の川奈次兵衛から聞き、一度会って見たいと言ったそうだ。
北島でも、人々は会うごとに龍の話で盛り上がる。だが龍の姿・形や動きを目の当たりにするほど場所が近かったため、誰が龍と戦っていたのか、水軍の爆雷で息の根を止めたのか、といった話題が中心だった。
秋もめっきり深まって、朝夕の風が冷たさを増す。山々は艶やかな紅葉の衣裳に衣替えし、厳しい冬の到来に備えている。人々を恐怖に陥れた龍の事件から月日が流れ、事件の話もめっきり減った。
海峡でも、死んでしまった龍を忘れたかのように、漁に精出す舟で賑わっている。
万作の仲介で、次の春に音根と祝言を挙げる話がまとまった。
近い時分に音根と表島へ、花嫁衣裳を買いに行くことになり、音根が表島の町を一度歩いてみたいと言っていたので、いい機会だ。
舟の手入れが一段落したので、音根の家を訪ねた。祝言の日に着る着物を見に行き、気に入ったのがあれば買おうと話していたが、それが明日だ。
だがそこに、体調を崩して寝床に臥せている音根の母、お佐夜の姿があった。
「母ちゃん、また具合が悪うなったんか。着物は次にしよう。祝言は春じゃで、急ぐこともない。」
音根は母の背中を擦る手を休めず、今晩中に良くなれば、明日でも行けると言う。
「いつでも行けるじゃ。母ちゃんを大事にな。」
看病の邪魔にならないよう早々に引き上げたが、だいぶ容態が悪いようだ。騒がしい蝉が静かになりかけていた夕刻、音根が戸を激しく叩いた。
「母ちゃんが、母ちゃんが。」
そう叫んで西浜の方へ駆けて行った。この慌てぶりは尋常ではない。
勘次に声をかけると、悲鳴に似た音根の声だったので、勘次は気付いて家を出ていた。
二人で音根の家に駆け込み、よもやの光景に立ちすくむ。音根の母、お佐夜が床のムシロに倒れ、多くの血を吐いたのだろう薄暗い行灯に照らされたムシロが、赤黒い血で染まっていた。
お佐夜の口の周りも手も首も血まみれで、吐血の臭いが漂っていた。たまらず勘次と二人で抱え上げ、寝床に運ぶ。喉の奥が、ゴボゴボと苦しそうな音を発している。
「おばさん気を確かに。大丈夫じゃ、すぐ弥助はんが来るで。」
横にして背中を擦りながら、声を掛け続ける。そこへ弥助と大勢の村の衆が、ドタドタ駆け込んできた。
「こりゃまあ、大変なことじゃ。」
弥助が煎じ薬を飲ませようとするが、反応しない。婦人達が水でお佐夜の首と顔、手の血を拭き取る。
弥助は吐血による窒息が危ないと、うつ伏せにさせた。もう弥助では手の施しようがないようだ。
「オラ、これから表島へ行って医者を連れて来る。今からなら朝までには帰れるで、それまでおばさんを、もたせてくれ。」
藤造が立ち上がって、足早に戸口へ向かった。まだ夕暮れだ、これから舟を出したら、医者の戸を叩くことができるだろう。
皆より早く来ていながら、こんな大事なことを藤造より先に気付かなかった愚かさを悔やんだ。
「藤造、オラも一緒に行く。表島はオラの方が詳しいじゃ。」
立ち上がって後を追おうとしたが、万作が着物の裾を掴んで引き止めた。
「太郎はここにおれ。藤造、お佐夜さんは胸を患っていて、血を吐いたと伝えるんじゃ。治市が一緒に行ってくれ。」
納得できない思いで万作を見ると「お佐夜さんは朝までもたんじゃろ。その時は最期を音根と看取ってやれ。」と、顔に書いてあった。
誰も声を出さない静かな時が流れた。行灯の光を求めて、開け放った小窓から黄金虫が飛び込んで、秋の到来を知らせる。まだ夜明けまで、時はたっぷりある。
藤造達は、もう医者を連れて引き返している頃か。婦人達が代わるがわる、暗い浜へ様子を見に出る。
東の空が少し白くなってきた。医者が来るまで、あと少しの辛抱だ。
突然、静寂の空間を引き裂き、お佐夜が海老のように背を丸めて、激しく咳き込んだ。
被っていた布団が弾け、口から鮮血が飛び散る。音根が慌てて口に手拭いを当てるが、見る見る赤く染まっていく。




