二
一-二
なぜ怪物が出たのか、なぜ家に戻っているのか。考えるほど父が生きたまま、怪物に飲み込まれた記憶が脳裏を渦巻き、心をかき乱し痛い。
父と一緒に出漁した舟も浜に戻っていたと、母のおりんは言う。
つばくろ岩で大きな怪物が現れ、父が食われたと断片的な記憶を辿りながら、母と妹に打ち明けるが、信じてもらえない。でも父は戻っていないのだ。
昼間は母も妹も加わって、村の衆が海に出て父を捜し、夜になると「明日は帰ってくる。」と、つぶやきながら祈る。
漁の途中に怪物が出て襲われたことを、母と妹だけでなく村の衆も、だれ一人認めないまま十日が経った。
「あの記憶は夢幻じゃったんか。話すたびに、嘘を言うとると思われる。」
もう何も信じられない、本当のことが知りたい。
「太郎、早う出て来い。あそこじゃ、あそこを見ろ。」
隣に住んでいる舟造りの勘次が、乱暴に戸を開けた。異常なあわて振りで、海の方を指さす。
まだ怪物の恐怖が繰り返し襲うので、家の中にこもっているのだが、勘次に引っ張られて外に出、身がすくみ上がった。
「あー、あれじゃぁ。」
湾の真ん中辺りだ。黒くて細長い物体が海面から高く突き出し、クネクネと天空へ向かうように動いている。頭上のカモメを追っているのだろうか……。
浜からは遠いが、半丁近い高さがあるように見えて、相当に大きい。物体の周りに激しい波が立っている。
あの時の、あの怪物が、いま出ている。
顔や腕や背中に、トゲが無数に生えたかの感覚を覚え、痛いほどにしびれる。
「あ、あれが父ちゃんを食うた怪物じゃ。本当じゃ、嘘は言わん。」
「そうか、あれが太郎の言うとった怪物か。うーん、でっけえな。見つかったら、こっち来るかもしれんぞ。早う舟の陰へ行こう。」
目を吊り上げた勘次が袖を引く。ガクガクと震える膝を引きずって舟の陰へ移った。あの恐ろしい姿が甦り、飲み込まれた父を想うと胸が張り裂ける。
怪物は、ゆっくり東のほうへ移動していたが、スーッと海に消えた。我に還ると、母と妹が背後に来ていた。
西の浜にも人が出ている。勘次や大勢の村の衆が、あの怪物を目撃してくれた。
しばらくして村の長老である万作と、弥助ら数人の村の衆が、家へ来た。
「太郎、さっき海から突き出していた蛇のような怪物な、見たか。」
「見た。あれが父ちゃんを食うた怪物じゃ。本当じゃ。」
万作が腕を組む。学問に心得のある弥助もしばらく腕組みしていたが、首をかしげながらつぶやくように口を開く。
「太郎は船の転覆で気が動転し、つばくろ岩を怪物と見間違ごうたと考えとったが、あの怪物じゃったんか。昔の言い伝えに、海の鬼神が漁師を襲うという話がある。魚は鬼神の大事な食い物じゃで、漁師に取られるのを嫌うて、出たんじゃろう。」
それを聞いた万作が、うなずきながら、きびしい顔で皆に声をかける。
「太郎は正直に話しとった。今まで信じんで悪かったのう。じゃが、海の鬼神が何匹出ようが、ワシらは魚を獲らんと生きてゆけん。次に出たら、返り討ちにせにゃならんぞ。」
集まった者は顔を見合わせ、神妙な顔でうなずく。
だが弥助には解せない点があった。あの朝、丘に住む音根という娘が、万作の納屋に炭を運ぶ途中で太郎を見つけた。
だが太郎は丘に近い乾いた砂の上で倒れていて、舟は浜に引き上げられていたと言う。
「太郎は覚えとらんでも、大事な舟を曳いて泳ぎ帰ったんじゃ。」
おりんが讃える。だが村の衆はそれには触れず、好き勝手に話を広げる。
「鬼神とやらが目の前まで迫って来たのに、何で太郎は食わんかった。」
「まだ子供じゃったからか。」
「そんな情けが鬼神にあるか。」
若干十五歳の太郎が襲われ、目の前で父親を食い殺されたのだ。
その後、転覆した舟を戻して海水をかい出し、半里以上ある浜まで、曳いて帰ったとは考えられない。
さらに浜に着き、一人で舟を浜に引き上げるなんて不可能だ。誰も気付いていないようだが、弥助は腑に落ちない。しかし太郎が無事だったことで、あえてそれには触れないようにした。
捜索を打ち切った翌日、村の衆が丘の上に父、太作の墓を建てて弔ってくれた。しばらくは重く悲しい日が村をおおった。
あんな恐ろしい海にはもう出ないと、漁師を断念する者が表島や北島へ出稼ぎに出る。
タコ漁の万作組、コンブ採りの弥助組だけは、漁を続けている。
村の衆は鬼神が出たら退治すると、自分で叩いて作った槍を舟に積んで漁に出るが、浜に以前の活気はない。
あの事件以来、波の音に震え上がり、海水に足を浸すのさえ恐ろしい。
鯛漁には出ず家にこもっているか、丘の木を伐ってマキ割りの日々を過ごす。これは病気母の看病をしながら、一人で炭を焼く音根の手伝いだ。
音根の父は若くして病死しているが、同じ鯛漁師だったので、幼い頃は兄妹同然でよく遊んでいた。