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二-六
嵐は治まりつつあるが、まだ東の岩場から波の音が繰り返し響き、強い風がヒューヒューと木の枝を鳴らしている。母の賛成を取り付け、ますます夢が膨らむ。
厳しかった夏が駆け足で遠のき、秋の臭いが濃くなってきた。
いつものように多賀屋へ鯛を納めに行くと「塾舎は基礎工事が終わって、もう柱が立っているぞ。」と升克に案内された。五人の大工が忙しそうに働いていて、檜の香りが心地よい。
「太郎、ここがお前の鯛釣りを極める場所じゃ。ここに集まる学び徒を育てることも大事じゃが、お前にも学ぶ姿勢がなけりゃ学び徒は付いて来ん。教えるちゅうことは、学ぶより何倍も難しいことぞ。」
「母ちゃんにも、同じことを言われたじゃ。オラに出来るかのう。」
升克は腕を組んだまま空を見上げて高笑いし、真顔に戻ってニタリと笑った。
「それじゃよ太郎。自信がないから何とかしようと考え、工夫し、努力する。これが大事じゃ。自信がないことに自信を持て。」
立派な塾舎がもうすぐ完成する。楽しみな反面、不安もある複雑な心で、升克の言葉を噛みしめながら戻った。さらに鯛釣りの腕を磨くために、開塾の日が待ち遠しい。
音根が料理や賄いの修行を承知しているので、近いうちに升克に会わせねばならない。
「母ちゃんが元気になったら、多賀屋へ行こう。朝早う出たら、昼過ぎには帰れるで。升克さんは早い時期に来るように、と言っておったし。」
「母ちゃんは、もう元気だっちゃ。」
「そんじゃ、あさって行くとするか。あさってなら、ええ天気じゃ。」
明日は表島に鯛を納めて、米を買わなきゃならない。二日後に、初めて音根と二人っきりで舟に乗ると思うと、心が踊る。
今日は音根と、多賀屋を訪問する日だ。漁を終え、すぐ音根を迎えに行った。穏やかな風、空に一面の白い鱗雲が輝き、二人の初航海を祝っているように思えて清々(すがすが)しい。
小花柄の着物姿で舟に乗った音根を、舳先に座らせて櫓を漕ぐ。音根の座姿が水平線に重なると、岩に佇む人魚のように見えて、幸せ感が満ち溢れる。
「ええ天気でよかった。北島まで一刻少々じゃから、ゆっくり海でも眺めて寛いでいたらええ。」
だが音根は緊張した様子で、前方に霞んで見える北島をじっと見ている。まだ半ばも進んでいないのに、時たま不安そうに振り返る、その表情が何か険しい。
「どうしたんじゃ。舟酔いか、具合でも悪うなったんか。」
「ううん、妙な胸騒ぎがするっちゃ。何か恐ろしいことが……。」
言葉に詰った音根は、顔色がよくない。
「太郎さん、帰ろう。急いで戻って。」
泣きそうな声で叫びながら、立ち上がろうとする音根。だが北島はもう目の前だ。あと少し辛抱してくれと言い聞かせながら、漕ぐ手を急ぐ。
そのとき半丁(約五十m)ほど離れた右舷に、ザザーと音を立てて大きな渦が発生した。すぐ波が舟の胴部に押し寄せ、舟が持ち上がり大きく傾く。
---いかん、龍が出る。
五年前は何が起こったのか見当が付かず、戸惑うだけだった。今はそれが龍の襲来だと判る。
巨大で恐ろしい形相の怪物が、赤い口を開けて襲って来るのだ。
---いやじゃ、こんな大事な時に。頼む、頼む、やめてくれぇ。
もう逃げることはできない。我が身はともかく、音根が襲われる理由はない。何とかして護らないと……。
「音根、揺れで飛ばされんよう、身を伏せて舟の底板に掴まるんじゃ。」
とっさに能勢右門に借りた鉄砲に手が伸びた。すでに火薬と弾は込めて蓋をしている。松明の灯火用でもある火種を箱から取り出し、火縄に点火する。
だがこの鉄砲は水軍用で、水を浴びても消えないように火縄に蝋が塗ってある。ジリジリと音はするが、火が点かない。
「早く、早く点いてくれぇ。」
渦の中から龍が現れたようだ、音で判る。激しい水音が聞こえ、バシャバシャとしぶきが降り掛かった。
---あぁ、間に合わん。いや慌てるな、慌てても事は同じじゃ。
点火に集中しよう。波が舟の胴部に激突し、再び三たび大きく傾く。
胴の両側に板を取り付けてあるので、転覆こそ免れているものの右へ、左へと海中に振り落されるほど舟が傾き、しぶきが雨のように降ってくる。もう龍は上空に舞い上がっているのだろう。
「音根、心配するな。龍はオラがやっつけちゃるで。」
どこからそんな勇ましい言葉が出たのか、自分でも驚いた。ようやく火縄に点火した。縄に息を吹きかけながら上を見ると、すでに上空に龍の頭があり胴体をくねらせて、こちらを見ている。
---やっぱり龍じゃった。食われる、嫌じゃあ。
全身に旋律が走り、頭の中はドンドンと太鼓の音が絶え間なく響く。
龍が上空からこの舟に狙いを付けたようだ。舟の揺れと膝の震えで照準が定まらず、命中する自信がない。
弾は一発限りなので、外したら万事休すだ。




