四
二-四
着物の上からだったとはいえ、初めて女の胸に触れた。波打つ興奮が収まらない。しばらく言葉も何もない、幸せな時が流れた。
「母ちゃんが心配しとるかもしれん。もう帰ろうか。」
来るときには出来なかった帰りは、手をつないで歩いている。喜びが全身を包む。
「嫌なことしてしまって、怒っちょるか。」
敢えて申し訳なさそうな声で切り出したが、何も言わない。だが手を少し強く握ると握り返してきた。天にも昇る気分とはこのことか。
「あたい怒っとるよ。太郎さんが、こんなことするとは思わんかった。」
顔を覗き込むと口を尖らせている。万作の言った、女心が不可解で難しいとはこのことか。本心で怒っているとは思えないが、こんな場合の対応までは教わっていない。
浜や集落が見える栗の木の根元まで戻った。まだ一緒にいたい気持ちは強いが、母親の咳がひどくなって、寝込んでいるのだ。引き止めてはいけない。
分かれ道で声を掛けようとした時、つばくろ岩に近い海中で光るものが見えた。それは金色で、目を凝らすと横に二つ並んでいるではないか。
---あれは龍の目じゃ、まだこの湾におる。こっちを見とる。
背筋が泡立って、膝が音を立てて震える。音根は気付いていない様子なので、急いで目を反らす場所を捜す。
「なあ、月が笑うとるように見えんか。」
わざとらしく月を指さし、ことさら明るく振る舞って見せるが、声は震えていた。音根も真上の月をまぶしそうに見上げた。
「お魚ありがとう。じゃここで。」
良かった、音根は気付かなかった。足早に帰る後姿を見送ったあともう一度、恐る恐る海を見たが、すでにあの無気味な光はない。
「オラ、龍に監視されちょるかもしれん。いつか喰われるかもしれん。」
震える膝を励ましながら、家へ急ぐ。
この海峡に龍がいる限り、漁ができない。母にも勘次にも、頭痛で舟に乗れないと断り、弥助から薬を貰って呑むふりをしている。
満月の夜以来、音根が家によく来るようになったが、音根にも仮病でごまかしている。早く龍がどこかに去ればいいと願いながら。
東の小窓から見えるのは黒い雲ばかりだが、今日は晴れる。龍がこの海峡にいた話を誰にもしないまま、夏の香りがする季節になった。
恐怖を抱きつつ、勘次と漁を再開しているが、もう長く龍は現れていない。それが、さらに恐怖を煽り、海面に立ちこめる朝霧さえ龍に見えて、身が固まる。
早々に二十尾の鯛を釣り浜へ戻ったが、龍がどこかで見ているという恐怖感は、心に付きまとって離れない。
漁が終わる度に、なぜ出ないという疑問が強くなっている。舟を洗いながら、勘次にそれを投げかけてみた。
「勘次、どうして龍は出んのじゃろう。」
丸十の船が龍らしき怪物に船底を攻撃されたことで、表島はもちろん、北島でも大騒ぎになり、漁に出る舟がめっきり減っていると聞いた。
あの日以来、表島の港には五寸弾の大筒が、四門も海に向かって配備された。港に出入りする商船には、軍船の警護が付くほどの厳戒態勢が強まっているという。
勘次は、もうこの辺に龍はいないと考えていた。
「こう警戒が強いんじゃ、龍も出て来られんわさ。」
今はどこか遠くに行っているが、突然この湾に戻って姿を現わし、表島の大筒の餌食になるだろうと笑う。
そんなことはない、湾のどこかにいる。密かに見張られているのだ。
「龍はただの凶暴な怪物と違うじゃ、オラたちよりずっと賢いかもしれん。こっちの動きを見ていて、いつか仕掛けてくるで油断できん。」
「人間より賢い生き物なんざ、おりゃせん。太郎は心配性じゃのう。」
勘次は凶暴な獣に過ぎないと言うが、相当な知能を持った生き物のような気がしてならない。
「ただの凶暴な怪物なら、商船も軍船も襲うはずじゃ。漁師だけが狙われるというのは、どうにも解せん。」
漁の最中に龍に出くわしたら、槍だけでは心許ないので、丸十の船で教わった火縄銃も舟に備えておきたいと思い、弥助の家へ立ち寄った。
能勢右門あての手紙を書いてもらうためで、内容は舟に備える火縄銃を貸して欲しいというものだ。
「龍が出てからでは、火縄銃なんぞ役に立たんと思うがのう。」
弥助は、そう言いながらも快く手紙を認めてくれた。明日表島へ出向く兼吉に手紙を託したが、果たして貸してくれるだろうか。
日も暮れかけ、兼吉が表島から帰る時分だ。
勘次を誘って浜へ迎えに行くと、既に弥助と万作が来ていた。兼吉は烏賊を売り終えた足で、弥助に頼まれた薬を買い込んできた。
裏島では弥助が医学知識を持ち、山草などで薬を作るのだが、軽い病いには間に合っても、重病には手が出ないためだ。
「兼吉、火縄銃はどうじゃった。」
舟にそれらしき物が見当たらない。やはり断られたか。
「おう、能勢殿が二つ返事で貸してくれたじゃ。その箱に入っとるぞ。」
見ると、長さ二尺(約六十㎝)ほどの木箱はあるが、こんな小さな箱に火縄銃が入るわけがない。




