三
二-三
予想外の事態にあうと気が動転して、戸惑う気の弱い自分がもどかしい。
音根は小さい頃から、それを鎮めてくれた。今度はこちらから、何か働きかけねば。
「今夜は月が明るいで、ちょっと上まで歩かんか。」
丘の上の方を指さして立ち上がると、イワシを家に入れて来た音根が、横に並んだ。幼い頃は手をつないで、無邪気にこの辺りを歩いたが、今はそんな度胸がない。
二人並んで歩くだけでも、こそばゆい感じだ。
いつしか集落も、浜も見えない所まで上っていた。
前方には森が広がって、音根の炭焼き場に近く、森の手前の小さな野原に腰を下ろすと、草はひんやり冷たく、ふくらはぎに心地いい。
「音根がその着物を着てくれて、まっこと嬉しいじゃ。」
横に座った横顔が微笑んだ。伸ばした足に手を当てたたまま、キラキラと光る眼下の海を眺めている。
「花嫁衣裳にと思うちょったけど、早う着てみたかったで。」
花嫁衣裳……。音根が誰かの妻になる日を考えていると知り、言いしれない不安が沸き上がった。
意中の男がいるのか聞いて「おる。」とでも言われたら辛いが、思い切って問いたい衝動に駆られる。こればかりはグダグダ悩んでいたくない。
「え、ええ男が……お、おるんか。」
目を細めて海を眺めていた音根の、穏やかな顔から笑みが消えた。そして厳しい表情でこちらを向く。
---しまった、問わなければよかった。
話題を変えなければと手で制しかけたが、もう遅かった。
「おる。」
一番聞きたくない答えが返り、心底たまげた。もしや藤造だろうか、まさか勘次か。
器量よしで、よく働くと評判のいい音根だ。北島や表島から嫁の貰い手が来てもおかしくない。今さらではあるが、問いかけたことを後悔した。
「やっぱり……おるんか。」
遠くの海を見つめていた音根が、草の上に投げ出した足を見つめるように、ゆっくり下を向いた。
「それが誰か、言うよ。」
音根の唐突な言葉に、絶望の予感が走る。この幸せな時を台無しにしたくない。今は聞きたくない。
「あたいが好きな人は。」
そう言うと両手で顔を覆って前屈みになり、立てた膝の間に顔を埋めた。この世も終わるほどの衝撃が、全身をつらぬく。
---やめてくれ。聞きとうない。
心の中で叫び、両手で耳を覆う直前に、意外な言葉が飛び込んで来た。
「それは…………太郎さん。」
膝の間から籠った小さな声。まさか、まさか意気地なしで泣き虫で、引っ込み思案の自分が、意中の男である訳がない。
きっと聞き違いだ、いや戯言か。気持ちのやり場を見失ってうろたえる。
本心ではなく、この場の情けで言ったのだろう。だが音根は戯言に聞こえたと思ったのか、泣きそうな声で叫んだのだ。
「本当だっちゃ。他の誰も好いとらん。」
弾けんばかりに昂揚する頭の中、平静を装うのが難しい。
やぶれかぶれで手を頭の後ろに組み、草の上に仰向けに寝転がった。
「おう、月がだいぶ上に来た。出た時より小ちゃくなったな。」
すると音根も仰向けに寝転がって来たので、素早く右手を伸ばして腕枕をした。音根は一瞬頭を浮かせたが、すぐ腕の上に頭を置いた。
サラサラと髪の毛が、腕に擦れる。
「出た時より小ちゃいけど、ずっと明るうなっちょる。」
そう言えば、野原()の草花が月明かりに照らされて、青白く光っている。対岸にある北島の山並みが臨めるほどで、空も明るく雲まで白く見える。
今、音根と並んで横になっているのだ。夢見心地とは、このことか。しばらく星が瞬く夜空を眺めていたが、腕枕をした肘を折って、音根の顔をこちらに向けさせた。
「オラも、す、す……。」
ここから言葉にならない自分が情けない。好きと言うのは、嫌いと言うより百倍も勇気が必要だと気付いた。音根は勇気を振り絞って言ったのだろうか。
ふと万作の太い声が耳元を通り過ぎる。
「音根が太郎を好きじゃったら、口吸いを嫌がらんぞ。」
---そんなことはできん。オラにその勇気はない。
落ち着きのない自分に、音根は何かを感じているのか目を閉じてじっとしている。
意を決して顔を近付けた。微かな吐息を感じて、頭が爆発しそうだ。
勇気を出して音根の唇に、自分の唇をそっと重ねた。だが拒否も抵抗もせず、受け止めたではないか。
柔らかな唇に触れたのは一瞬だったが、女の体温を感じたのが初めてのことで、心臓は半鐘のように高鳴る。
ついに音根と口吸いをした。万作が言った通りだと、心の中で何度も万歳を繰り返す。まだ音根は右腕を枕にしたまま、目を閉じている。
すると、口吸いをする時に肩に置いた左手が、不意に着物を伝って胸部に滑り落ちた。
意表を衝かれたのだろう音根が、手で払おうとしたので、とっさに手を離した。膨らみの弾力が掌に残る。
---音根のおっぱいが大きい。
この瞬間、幼い音根の面影が消し飛んだ。今更だが、音根が年頃の大人になっていることを実感した。




