第二章 音根と恋が実り、多賀屋升克に呼ばれて塾の視察と音根の挨拶のため、北島へ出向く途中に再び龍の襲撃に遭う
二-一
野に咲く一輪の花の例えなど、消し飛ぶ美しさに心が打ち震える。
腹の底から熱い物が込み上げて息苦しく、目頭まで熱くなって涙が溢れる。目をバチバチと瞬かせるが、涙の幕で音根がよく見えない。
この昂りは一体何だ、これが感動というものか、それとも……と、自問自答して身悶える。
たまらず立ち上がって音根に駆け寄り、黙って正面から抱きしめた。音根はダラリと両手を下げ、右肩に頭を預けて目を閉じている。
「音根。」
それ以上は声にならない。強く抱きしめると女の香りがした。初めて両手で抱いた女の感触に戸惑いながら、不思議な幸福感が全身を駆け巡り、満たす。
ずっとこのままでいたいと願いながらも、細身の音根が痛がっていないかと思い、腕を解いた。
「ごめんよ音根、痛かったろう。堪忍な。」
小さな声で謝ると、うつむいたまま二度三度、首を横に振り、土産の着物を拾い上げ、黙って逃げるように闇に消えた。
---オラは何てことを。
音根の後姿を目で追い、自虐心が身体から吹き出して止まらない。頭の中が真っ白になって、その場に座り込んだ。
どのくらい座っていたのだろうか、立ち上がってトボトボと我が家に向かい、帰るなり布団に潜り込んで小さく丸まった。
「太郎はまあ、音根さんと喧嘩したんかね。ほら昨日、買って来てくれた白いご飯じゃ。」
おりんが夕食を寝床の横に置いた音がした。布団の中の闇世界で音根の走り去る後ろ姿が、幾度も甦る。
無心の舞に水を浴びせ、衝動に任せて抱きしめるなんて……。何と無粋なことをしてしまったのだろう。
波のように押し寄せてくる自虐にむせびながら、自分を責め立てるうち、いつしか深い眠りに入った。
ふと目覚めた時は、すでに日は高く上がっていて家には誰もいない。夕べの白いご飯がそのまま寝床の傍らに置いてあり、囲炉裏から味噌汁の香りがする。
今日は舟の修理をしなくてはいけない。寝床から出た身体には、衝動で抱きしめた音根の感触が、鮮明に残っている。
食欲はないが、舟の修理は重労働だ。無理矢理ご飯を掻き込み、冷めた味噌汁をすすって木槌を担ぎ、舟に向かう。
昨日の大波による転覆と、塩問屋の船の曳航で、ひどく壊れているだろうと思っていたが、意外に傷みは少なく、修理は早々に片付いた。
砂の上に座って舟にもたれる。音根が美しい大人になっていたのに、子供の頃の面影しか見ていず、衝動で抱きしめ、嫌われた虚無感に胸が締め付けられる。
そこへ漁具の手入れを済ませた万作が来て、横に座った。
「元気がないのう。舟が相当壊れとったんか。」
「いや、それほどでもなかった。」
「そんじゃ腐ることないじゃろう、元気がないのは、ははん……。」
万作が顔を覗き込んでくる。
「音根に、あの着物を渡したんか。」
黙ってうなずいた。
「そうか、そりゃ喜んだじゃろ。こんなきれいな着物を貰って、嬉しいって喜ばんかったか。」
なおも曇った顔をしていると、万作は怪訝そうに首をかしげる。
「突き返されたんか、あの着物。」
今度は首を横に振る。
「そうか、貰うてくれたのに何で沈んどる。音根はええ娘じゃで、おヌシが沈むようなことは無いが、はて……。もし良かったら、夕べあった事をワシに話してみんか。」
父に代わって、悩みや相談を聞いてくれる万作に、事の始終を話した。
「なあ、音根はおヌシを嫌うとらんぞ。恥ずかしかったんじゃ。太郎、女ちゅうもんは……。」
その意外な言葉に驚いて顔を上げた。女心を知らない自分を不憫に思ったのだろう。
普通なら男児が十六歳になると、父親が女と性について細かく教えるが、十五歳で父を亡くしたので、その機会を得ていない。
「女ちゅうもんはなあ、不可思議なことがいっぱいあるでな。音根も同じじゃ。」
そうつぶやきながら近くにあった小枝を拾い、砂に女体の絵を描き始めた。
「ええか太郎、下手な絵じゃが、ここがうなじで、ここがチチ、ヘソ、これがマンボ、尻、そんで太モモ。」
小枝で絵の部分を指しながら、着物に隠れて見えない身体の部分の特徴を説明する。
唐突な性教育が始まったが、その声を聞いていると、まるで父が還ってきたかのような、温かな心持ちになってくる。
説明は男と女が夫婦になって、子作りをする場面まで説明が進む。夫婦は抱き合って交うのは当り前だが、女には男に理解できない生理現象があるので、常に優しく接するものだと、気遣いも教わる。
「太郎は思わず、愛おしいと思うた音根を抱きしめた。それが男というもんじゃ。口吸いはしたか。」
顔も耳も赤くして否定すると、万作が大口を開けて笑った。
「今度やってみたらええ。音根も太郎が好きじゃったら、口吸いは嫌がらんぞ。」
足許の落ち葉を二枚くっ付ける。女への愛情行為を一度にたくさん聞いたので、もう頭の中は錯乱状態。でも万作が言うように音根が自分を嫌っていないなら、こんな嬉しいことはない。




