十
一-十
弥助が龍の話を持ち出すと、左兵衛は笑って否定した。
「龍というのはな。南蛮の密林に棲むワニという獰猛な生き物と、大蛇を組み合わせて描いた、世にも恐ろしい空想の怪物じゃ。そんな怪物がウジャウジャいたら、この世は終わっとるじゃろう。」
突然、ゴーンと響くような大きな音と振動が伝わり、船が大きく右に傾いた。船室の調度品がガタガタと音を立てて右方向へ滑る。左兵衛は窓から辺りの様子を探っている。
「座礁か。いや、この辺りに岩礁はないが。」
見張りの侍たちが慌ただしく甲板を走り抜け、召使いの一人が船室に飛び込んで来た。
「大変でございます。今しがた、船の下を長い物体が通り過ぎ、それが船底に当たって塩の倉が浸水しております。」
「その物体とは、大きいのか。」
首をかしげながら、左兵衛は召使に問う。
「はい。見た者の話では太くて、やたら長い物体だったそうです。」
そう叫び、身を翻して船底へ走って消えた。左兵衛も船底へ走る。
直後に火縄銃を抱えた万作、弥助、勘次が船室に来た。顔が紅潮し目は吊り上がっている。
「すげえデカい何かが、船底に穴を開けよったと言うぞ。龍が出たに違いない。これで応戦じゃ。」
火縄銃を脇に抱えて甲板に出ると、すでに侍達が四方八方の海に向かって銃を構えていた。十二本の櫓が忙しなく海面を掻き、裏島方向へ急ぐ。
海は静かで波は低く、いつ何処から龍と思われる怪物が現れるのか、誰にも予想がつかず、凍るような緊迫した時が流れる。
左兵衛が首を傾げながら船底から戻ると、近くの召使い二人を呼び付けた。
「船の下を通った大きくて長い物体を、確かに見た者をここへ呼べ。」
召使い三人と、侍二人が来た。物体は黒で、右舷前方から近付き、船底をかすめて左舷後方へ去ったと言う。黒く長い物体の形は大きな蛇のようだったとも。
長さは船の五倍、いや十倍はあったと言う者もいる。光る波でよく見えなかったが、太さも二丈(約六m)くらいはあったと証言した。
「うーん、皆がそう言うのなら、見間違いではなさそうじゃ。」
左兵衛は召し使いに最大級の警戒を促し、差江に向かって救援旗を揚げるよう指示を出した。
あと半刻で裏島に着く。それまで何事も起こりませんようにと、銃を構えたまま、神仏に祈る。
その後は何事もなく、船は裏島の浜辺から一丁(約百m)ほど手前で停船した。ここからは水深がなくて船が入れないため、表島で買った荷物は曳航してきた三隻の舟に積み換えねばならない。
龍が出ずとも、大波が襲ってくるかもしれない場所だ。浜からも、二十人が手助けに海へ入って来た。
ピリピリとした緊張の中で、荷物が舟に下ろされていく。
荷物を積み込んだ舟は一人が櫓を漕ぎ、四人が泳いで左右の胴部を押し、浜へ急ぐ。
全部の荷物を浜へ運び終えたが龍は出ず、高波も来なかった。
人間の慌ただしい行動とは対照的に、海と空が蒼く静かに広がっている。
表島で買い込んだ荷物を万作の納屋に運び込み、村の衆が家路につくと、夕日が沈みかけた浜に静けさが戻った。
我が家に帰り、大仕事の成功を祝って、土産の饅頭を家族で頬張った。
昨夜の漁と百尾の鯛の納品、龍の仕業による大波、侍や絵匠との話、丸十の船へ龍の攻撃、初めて持った火縄銃が重かったこと。
まさに緊張の連続で心も根も果て、翌日は昼過ぎまで目が覚めなかった。
日暮れまで間もないので、炊き出しをくれた音根に、土産の着物を渡すと告げ、足早に家を出た。
音根を呼び出し、丘の大きな栗の木の根っ子に並んで腰を掛け、着物を手渡す。ここは幼い頃、遊び疲れると二人でよく休んだ場所だ。
音根が今朝、炊き出しを自分に持って来たのは、妙な胸騒ぎがあったからと言い、無事に帰って来たことを喜んでくれた。
「表島の侍は怖かったが、親切じゃった。能勢殿には馳走までよばれた。鯛は祝いに食する魚じゃで、鯛を釣るオラは必要なんじゃろう。」
鯛漁師で良かったと胸を張り、町の浮かれた様子や、塩問屋の大きな船のことを話したが、龍の話は伏せた。
こうやって話をするのはいつ以来だろう。夕日が沈んで辺りは暗くなったが、頭上に半月があるので少し明るい。
いつ以来か、肩を並べて話すのが嬉しく、喋りながら音根に好意を抱いている自分を感じる。
話は弾み、幼い頃に二人でヒエ畑を荒らしたり、鯛の餌にする小海老の池に石を投げ込んだりして、父にこっぴどく叱られた思い出話に花が咲く。
音根は口を押さえて身体を揺すり、笑う姿がかわいい。
「着物のお礼に、母ちゃんに教わった舞を見せちゃる。」
そう言うと、小走りで目の前にある広場に出た。そこは二丈角ほどの平らな地面で、芝草が密集している木立の空間。その真ん中に立つと、静かに舞い始めた。
お囃子も小唄もない静寂の中で、緩やかに舞う。周りは木々の陰で暗く、音根だけが月明かりに照らされて浮かび上がる。
何も手にせず無表情ではあるが、流れるような手の動きと足の運び……。




