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戸惑う日々、「裏庭」にて

作者: 湯田十三

 ♦♦ 夏のホラー2018提出予定作品(#2-2)です。ホラー自体私の守備範囲ではないのですが、精一杯書きました。構想半月、創作一月の自信作です。


   プロローグ

 ♥

 不慮の事故で先妻紗弥子を亡くした俺は、その一周忌を期に彼女から受け継いだリゾートホテルの社長職を妹に譲り、代表権のない会長職に退いて、山腹のホテルから買い取りを依頼された東京の屋敷に移り住んだ。

 ♥♥

 ちょうどその頃、義母(紗弥子の母美沙子)から一周忌も済んだので、娘(紗弥子)の遺言どおり再婚してはどうかと持ち掛けられて、リゾートホテルで社長であった俺の秘書をしていた大平奈緒と再婚した。

 ♥♥♥

 奈緒は一人娘なので、その祭祀を絶やさないために俺は先妻の姓である辰巳ではなく、奈緒の大平姓を選んだ。これで出生名である戌亥岳から二回改姓をしたことになるが、俺には婿入りしたという感覚はない。

 ♥♥♥♥

 我が屋敷は周囲の植生や緑色の銅瓦と頑丈な造りにより、震災と戦災を免れたという明治期の木造平家建て(離れ屋)と、戦後に建築した木造モルタル造り平家建て(母屋)が広大な中庭を挟んで立っている。

 ♥♥♥♥♥

 再婚相手の奈緒は父親が執事、母親が女中頭だったので、この屋敷で生まれ、育った。彼女が両親と暮らしていたという、離れ屋の奥まった辺りを我々夫婦の居住空間にするよう、現在改築に取り掛かっている。

 ♥♥♥♥♥♥

 その新宅ができるまでは、前の持ち主が住居にしていた母屋で生活しているが、やがてここは取り壊し、何か違う用途に使おうと思っている。もちろん手入れの行き届いた中庭を尊重することは充分に考慮しなければならない。

 ♥♥♥♥♥♥♥

 新宅からは中庭は見えなくなるので、裏庭を新しく造ることにしたのだが、崖の向こうの高速道路やビルが眼に入るのが艶消しなため、住み込みの庭師(野上修二さん)に低木の植込みをさせているところだ。

 ♥♥♥♥♥♥♥♥

 もう一つ気に留めたのは、先妻紗弥子が愛し、奈緒も手入れを手伝って、リゾートホテルの庭で育てていたカサブランカを百本余り、周りの土ごと運んで移植をさせたことだ。この白百合には二人の妻の思いが両方とも詰まっているので、徒や疎かにはできないと思っている。

 ♥♥♥♥♥♥♥♥♥

 七月になって本業であるリゾートホテルはトップシーズンを迎えた、その経営指導や、趣味が高じて今や副業と化した馬主業などもあり、このところは忙しく飛び回り、新婚の奈緒に淋しい思いをさせてしまっているので、近いうちに埋め合わせをしなければと思っている。



   初日:七月十三日(日)晴れ

 ♥

 十時五十分、自宅玄関にて、

 「奈緒、それでは行って来ます、帰りは十六日の水曜日になると思う。土産は期待しないで待ててね。それと改築のため毎日職人さん達が来ると思うので、十時と十五時の二回、女中達にお茶と茶菓子を出す様に命じておいてください。頼んだよ」「岳様、承知いたしました、呉々もお気を付けて行ってらしてください。」「ありがとう、それじゃあ。」

 俺は奈緒の見送りを受けて、三泊四日の北海道出張に出掛ける。

 運転手(加藤誠一さん)付き自家用車が屋敷の玄関先に待機しているので、羽田空港まで急がせる。

 ♥♥

 往きはJAL517便で羽田を十三時三十分に発ち、新千歳には十五時五分に着いた。懇意の調教師である国村英司と新千歳空港ビル二階の喫茶店で待ち合わせをしているので、一憩の後、彼が借りたレンタカーでまず札幌まで一時間走行して札幌Pホテルへチェックインした。

 ここでも少憩の後、国村師とハイヤーでススキノ西方のフレンチレストランへ行き早目のディナーを摂り、今度はススキノ北辺の小体なバーで前祝いをして早めにホテルに戻り、二十二時三十分に就寝した。

 ♥♥♥

 この夜か翌日の明け方、先妻紗弥子が夢に出てきて、何か言いたげだったが、何も言わずに消えた。何かの暗示だったのだろうか、気になる。それに未練がましいので、奈緒に済まないと思う。



   二日目:七月十四日(月)曇り

 ♥

 十時から苫小牧のノーザンホースパークで当歳対象のセレクトセールが開かれるので、早目の朝食を摂って七時四十五分に、国村師が運転するレンタカーでホテルを出発して会場へ向かう。俺が選んだ牡牝各一頭と、国村師が選んだ牡三頭と牝二頭のセリに参加して、俺が選んだ二頭と国村師が選んだうちの牡二頭、牝一頭を落札できたので、二人とも上機嫌で札幌のホテルへ戻った。もちろんこれらはできる限り国村師に預託する予定だ。

 ♥♥

 今夜の国村師は有力牧場主達に誘われて他出したため、メインダイニングで一人寂しい食事を摂り、その後ホテルのバーへ行き、顔なじみのバーテンダーと会話をし、泡立つ酒たちを楽しみ、二十二時十分と早めに寝ることにする。

 ♥♥♥

 そう言えば、奈緒はどうしているだろうか、夢の中に出てこないかなと思いながらベッドに潜り込むが、逢えずじまいだった。ちなみに夢に出て来たのは昨年購入したうち一番期待している二歳牡馬の一哩の新馬戦だった、ただし結果は一着か二着の写真判定待ちで終わった。



   三日目:七月十五日(火)快晴

 ♥

 今日も十時からノーザンホースパークで一歳対象のセレクトセールが開かれるので、八時に国村師とホテルを出発して、会場に向かう。俺が選んだ牡二頭と牝一頭と、調教師が選んだ牡三頭と牝四頭のセリに参加して、俺が選んだ三頭と調教師が選んだうちの牡一頭、牝三頭を落札できたので、達成感に浸りながら札幌のホテルへ戻った。もちろん預託先は国村師の所で約束ができている。

 ♥♥

 今夜はセールに来ていた馬主仲間の誘いを受けて、国村師を含む三人連れでジンギスカンを食べに行く。麦酒と羊肉を楽しみ、もう一軒行くという仲間と別れて早めにホテルへ帰って、二十二時三十分に眠る。

 ♥♥♥

 今夜も奈緒は夢に出てこないのだろうかと思って寝たら、一昨夜と同じように先妻紗弥子が現れて何か言いたげにしながら、無言で消えた。何か知らせたいことがあるのだろうか、近いうちに墓参りに行こう思う。



   四日目:七月十六日(水)晴れ

 ♥

 今日は朝食後に国村師と別れて、ホテルをチェックアウト後、ハイヤーで札幌市内の美術館を三館梯子した。

 帰りはJAL516便で新千歳を十六時に発ち、羽田には十七時三十五分に着いたので、迎えに来ていた自家用車で屋敷へ帰った。

 ♥♥

 十八時四十分の自宅玄関にて、

 「奈緒ただいま、帰り着いたよ。これはお土産。え、何ですかだって、後で開けて見てごらん。まず風呂に入りたいな。何、もう沸いていますって。じゃあ先にひと風呂浴びてから、夕食にさせてもらおう。」

 ♥♥♥

 風呂から上がって浴衣掛けで居間に行くと、奈緒が手料理を卓子に並べ始めていた。おそらく三人いる女中達には手伝わせず、一人で作ったのであろう。

 夏野菜と蛸の素揚げ、鳥わさ、縞鯵の刺身といった前菜が眼に嬉しい。「お酒は八海山の純米吟醸酒を冷しておきました。」と言いながら江戸切子のグラスに注いでくれる奈緒。

 ♥♥♥♥

 俺が奈緒のグラスに注ごうとすると、「少しお待ちください。」と台所に立ってしまった。

しばらくして戻った奈緒は鉄鍋を持って来て、「紫さんからミタツファームの牛肉が届きましたので、鋤焼きにいたしました。」と言いながら卓上に置き、蓋を取った。

 俺がグラスに酒を注ぐと、「出張お疲れさまでした。」と言って一口含み、得も言われぬ笑顔を見せる奈緒、この顔を見ると疲れが一気に吹き飛ぶようだ。

 ♥♥♥♥♥

 こうして、久し振りの食事をともにする新妻が、一層愛しく思えるし、いっそのこと仕事は全部やめて、ずっと抱きしめていたいとも思う。何せ、それができるだけの資産の数倍は既にあるのだから。

 夜更かしをしたいが、明日から二人でリゾートホテルへ行くことにしている、運転もあるので早めに切り上げなければならないのが残念だ。

 ♥♥♥♥♥♥

 寝る前に気になっていたことを訊こう。「奈緒、カサブランカはどんな具合だい。」「はい、上手く根付いたようで、大きな蕾が増えてきました。早い株は来週あたりから咲くと思います。」「そうか、待ち遠しいね。ところで、明日は早く出掛けようと思うので、君も早く休んでください。」と言って寝室へ行くと、二十二時十分に寝てしまった。

 ♥♥♥♥♥♥♥

 奈緒が何時に寝たのかは知らない。

今夜は奈緒と一緒にいるのでさすがに紗弥子は現れなかったが、真夜中に満開のカサブランカの噎せ返るような芳香で目覚めた、もちろん夢だった。これも何かの暗示なのだろうか。



   五日目:七月十七日(木)晴れ

 ♥

 今日は八時四十分に起床して、洗顔、髭剃り、着替えを済ませてから、奈緒が作ってくれたスペインオムレツ・シーザーサラダ・トースト・バージンメアリー・牛乳を二人で摂り、食後はコピ・ルアクの芳香を楽しむ。

 「岳様、お土産ありがとうございました、瑪瑙のペンダントでございましたね。」「気に入ったかい、道北礼文島の名産品だよ。」「はい、とても、でも『お土産は期待しないでね。』なんておっしゃって、お出掛けになったのでびっくりいたしました。」

 ♥♥

 その後、留守中に溜まっていた雑事をあらかた片付けると、運転手の加藤さんを呼び、予定どおり三泊四日で奈緒と旅行するので夏休みを取るように伝え、執事の杉田保さんと女中頭の中島由美さんには留守中にしておいてもらうことを伝えて、奈緒の支度を待つ。

 ♥♥♥

 十一時二十分の自宅玄関にて、

 「それじゃあ、奈緒出掛けようか。」「はい岳様、二人だけで出掛けるなんて久し振りですので、とても嬉しゅうございます。」「いつも一人にして済まないね。今回は仕事も少しはするが、なるべく君と一緒にいることにするよ。」「ありがとうございます。今から楽しみです。」

 二人でガレージへ歩き、愛車である黒のフォルクスワーゲンT5マルチバンに乗り込む、もちろん愛妻奈緒は助手席だ、今日は真紅のタイトスカート・オフホワイトのシャツブラウスにライトグリーンのサマーカーディガンを羽織っている。

 ♥♥♥♥

 十三時に予約を入れておいた日本橋の独逸料理屋に寄り昼食を認めると、浅草へ回り芋羊羹と餡子玉を買い高速に乗った。途中のSAで一回休憩を取り、十六時過ぎにリゾートホテルDSに着いた。

 客用駐車場に愛車を停めると、奈緒がブルーのキャリーケースを引き、俺が黒のダラスバッグを提げて、別館二階の社長室まで歩く。

 ♥♥♥♥♥

 社長室前室には秘書の小林典子がいて、「会長、奥様いらっしゃいませ、お疲れでしょう。」と言いながら立ち上がり、労ってくれる。

 その声を聞いて妹の紫がパーテーションの向こうから姿を現し、「兄さん、お義姉~奈緒のこと~さんお待ちしていました。」と歓迎してくれる。

 奈緒は「紫さん、お土産です、心ばかりの物ですが、どうぞ。」と言いつつ義妹へ「芋羊羹と餡子玉」の入った手提げ袋を渡した。

 秘書は自席からどこかへ電話をした。すると隣室の副社長室から義弟~紫の夫である~葉太郎がやってきて簡単な挨拶をした。

 紫に導かれて俺達家族四人がソファーに座ると、美しい秘書はアールグレイのアイスティーを淹れて持って来た。

 ♥♥♥♥♥♥

 「兄さん、今回は三泊の予定だったわね。コテージでもスペシャル・スイートルームでも遠慮なく使ってくれれば良いのに。」「いや、客でもない者がトップシーズンに来たんだし、夫婦二人だけだからから、空いている従業員宿舎で沢山だ。」「それで御希望どおり、以前お義姉さんが使っていたP305号室にキングサイズベッドをはじめ、予備の家具や調度品・食器などを入れておきました。それから夕食はパーティーにして、自宅(コテージ九)に用意します。十八時頃にお迎えに伺いますので、それまで自由にお寛ぎください。」「紫さん、勝手を言って済みません、お心遣いありがとうございます。」「お義姉さん、家族なんだから御遠慮なく。」「それじゃあ宿舎へ行くよ。」と言って席を立つ俺。奈緒も付いてきて、エレベーターに乗り五階まで上がると、P305号室に荷物を置いた。

 ♥♥♥♥♥♥♥

 そのあとリゾートの敷地内を散歩する二人、真っ先に先妻紗弥子と奈緒が丹精して育てていたカサブランカを見に行く。昨年の十一月に百本を東京の屋敷の裏庭へ運んだので、以前の半分程に減ったカサブランカの蕾はやっと膨らみ始めていて、かろうじて白百合だと分かる程度である。「うちの方が先に咲きそうですね。」奈緒はそう言うと、病葉を一枚見つけて、摘まみ取った。

 東京へ移植してスペースの空いた花壇には赤玉土などが入れられて、色とりどりの薔薇が咲いている。おそらく紫が選んだのだろう。時の移ろいを感じた。

 その後、乗馬施設へ行き乗馬課長の武智壮君に、クラブハウスへ行き小平美保ゴルフ課長にそれぞれ挨拶した。明日俺が仕事をこなす間に奈緒は乗馬とゴルフを楽しむことになっている。

 一回りしたところでP305号室に戻った。

 ♥♥♥♥♥♥♥♥

 十八時五分、ドアチャイムが鳴った。俺が出ると紫は二歳になったばかりの一人息子を四階の託児所から抱いて来ていた。

 この甥っ子の顔を見るのは半年振りだ。最初に俺の顔を見て驚いたような表情をしていたが、替わりに奈緒が覗き込むと、笑顔になりコロコロコロと笑った。この歳で既に女好きでは先が思いやられる。

別館を出て、夕陽に背中を押されるようにコテージ九への坂を下る四人。紫達の自宅では、先に帰っていた葉太郎が出迎えてくれた。

 夕食は五人で食べるものと思っていたが、妹夫婦は俺が副社長の時代にスカウトした人財を中心に特に親しくしていた社員達を招いていた。

 葉太郎の右腕になっている町屋美紀子、その妹で心理カウンセラーの内田令子、茨木望診療所長はじめとする医師と看護師長の三人、社長秘書の小林典子とその母で秘書室長の谷山経子・昭介夫妻、大人十二人が集まるが、リビングルームでは手狭なので、倍近い広さのある地下一階のパーティールームへ案内される。

 ♥♥♥♥♥♥♥♥♥

 十八時半になると、本館地下一階の厨房で作った料理がケータリングカートに乗って運び込まれる。その前後にはゲスト達も続々と到着するので、紫夫婦は忙しそうに飛び回っている。甥っ子の健太郎は奈緒に抱かれてご機嫌だったが、ゲストが増えるにつれて女性が多いので目移りするのか、しきりにキョロキョロとゲストの顔を見回し始めた。

 予定していた全員が揃い料理もあらかた並んだところで、紫の乾杯でパーティーが始まった。健太郎は紫が横に置いたベビーベッドの中で大人しくしている。

 ゲスト達は誰彼となく俺達夫婦の横へ来ては、それぞれ近況などを報告していく。料理を楽しみ、酒を楽しみ、会話を楽しみ、あっという間に時間が経ち、二十二時過ぎに宴は終わった。

 ♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥

 妹夫婦はしきりに引き留めるが、「明日もあるから。」と言って辞し、宿舎に帰って寝た。

 夢の中に大人になった健太郎が出て来て、社長席に座り、難しそうな顔をしていた。まあ順当にいけば彼がいずれはこのリゾートの社長になるのだろうが、紫が四十二歳の時に産んだ子なので間が空き過ぎている。一体誰が中継ぎをするのか、まだ見ぬ次期社長が夢に出て来る前に朝になった。



   六日目:七月十八日(金)快晴

 ♥

 いつもどおり六時前に起きる。ドアの下に差し込まれている新聞をピックアップしてヘッドラインを拾い読みしていると、奈緒が起きてきた。「お早うございます岳様。」「お早う奈緒。気分はどうだい。」「とても爽やかに朝を迎えられました。」俺が淹れたアーリーモーニングティーを飲み、シャワーを使い、身支度をする。

 今日の朝食は本館四階のメインダイニングで和定食を摂った。食事の途中で和食担当の草野静香料理長が来て挨拶していった。

 ♥♥

 朝食後は宿舎で休んだが、取締役会長である俺は十時から、大江紫代表取締役社長、大江葉太郎取締役副社長、石垣舞専務取締役総支配人、本郷衛士常務取締役総料理長。島田弘子取締役支配人、宮川理恵子取締役総務部長、徳川修平取締役観光部長、安達君子取締役スポーツ部長、谷山経子取締役秘書室長と四半期に一度の辰巳観光株式会社の定例取締役会に出席、第2四半期(4~6月)の営業実績報告と第3四半期(7~9月)の経営計画(案)を中心に審議し、いずれも提案どおりに了承・決定した。

 一方奈緒は、小平美保ゴルフ課長や練習生の大妻琴美とワンラウンドのゴルフを回りながらレッスンを受けた後、武智壮乗馬課長の指導で乗馬をした。

 ♥♥♥

 昼食はやはりメインダイニングで四川担々麺を食べた。食後は甜点心ではなく、ピーチ・メルバを楽しんだ。中華担当の鈴木裕子司厨長と富士寛子パテシエ―ルが相次いで挨拶に来た。

 一旦宿舎へ帰るが、十五時からは合名会社辰巳興業の社員総会を開き、全社員である俺と奈緒、紫と葉太郎の四人で辰巳観光株式会社と同様に経営実績報告や経営計画(案)について審議するとともに持ち分の変更と商号変更について審議したが、将来的には子会社に当たる辰巳観光株式会社やリゾートホテルDSも含めて一斉に名称変更することに決した。

 ♥♥♥♥

 紫達は夕食をともにするため、十八時に迎えに来ると言い置いて帰って行った。

 時計を見ると十六時十分なので、陽が沈むまではあと一時間程の間がある。

 ドライブに行くことにして駐車場へ急ぐ、行き先は先妻紗弥子とも、もちろん奈緒とも行ったことのある、秘密の展望台だ。ホテルの敷地の西側を走る未舗装で細い私道を登ること二十分、平坦で開けたテラスに出た。

 麓の方角を見ると、リゾートホテルDSの建物と付属のスポーツ施設が見え、その下には夕陽に輝く湖面とその畔を走るローカル線と昨日走って来た国道が並行しているのが見える。この景色はいつ来ても心を癒してくれる。奈緒と並んで深呼吸をする。「岳様、だ~い好き。」「俺もだよ、奈緒。」そう言うと新妻を抱きしめる。いつまでもこうしていたいとも思う。しかしながら、陽が傾くとともに頬に当たる風が冷たくなってきた。

 ♥♥♥♥♥

 「さあ、戻ろうか。」奈緒は「はい。」と答えて、名残惜しそうに密着した身体を離すと車に戻る。

 宿舎に帰って待っていると、約束した時刻より少し早く、葉太郎が健太郎を抱いて現れた。四人でコテージ九へ行く。紫は先に帰り料理を始めていた。菜緒も合流して手伝う。本当は俺が一番手慣れているのだが、折角、義姉妹が仲良くしているのを邪魔することも無いと思い、健太郎の相手をしていた。良く笑う子だ、子供の頃の紫の面影がある、親子であるから当然なのだが、快活で社交的な性格も似てくれると嬉しい。

 四人の大人が席に着くと夕食が始まった。健太郎はベビーベッドで起き上がりしきりに奈緒の顔を見ている。「彼の審美眼は確かなようだ。」とも思う。

 ♥♥♥♥♥♥

 紫より八歳年下の義姉である奈緒が、出産と子育てについて、あれこれ訊いている。「奈緒さん、子育てそのものはとても大変です。でも、嬉しいことが一つありました。今まで家事を一切しなかった葉太郎が、育児に覚めて私が忙しい時には、その他の家事も分担してやってくれる様になりました。」葉太郎は照れ笑いをしている。「やっぱり歳を取ってから生むと肉体的に辛いので、若いうちに産んだ方が母子共に幸せだと思うわ。最も兄さんは葉太郎と違って、家事全般を熟してくれるで、その点の心配は要らない様ね。」今度は俺が照れ笑いをする番だ。

 健太郎がしきりに欠伸をする様になったので葉太郎が抱きあげて、寝かしつけに行った。

 ♥♥♥♥♥♥♥

 紫が「実は二人目ができたの。予定日は来年の五月末ぐらい、診療所の白江副所長に定期的に診てもらっているから安心なの。」と爆弾発言をした。

 妹は間もなく四十五歳の誕生日を迎える、大丈夫なのだろうか。「道理で、昨日も今日も一滴も飲まなかった訳か、体を大事にしろよ。」「ありがとう兄さん。」

 そこへ葉太郎が戻った。時計を見るといつの間にか二十一時半を過ぎている「そろそろ宿舎に帰って寝るわ。明日は山向こうの関連会社を尋ねてみようと思っている。葉太郎パパ、子育て頑張れよ。」と言って立ち上がり、奈緒と手を繋ぎ宿舎へ帰り、風呂に入って寝た。



   七日目:七月十九日(土)快晴

 ♥

 いつもどおり六時に起きて、アーリーモーニングティーを飲みながらのヘッドラインチェックというルーチンワークを熟していると、窓外がすっかり明るくなって、快晴の空が広がっている。

七時前に奈緒が起きてきたので「お早う奈緒。」「お早うございます、岳様。」と挨拶を交わすと、ダージリンを淹れ直して、ティーカップを渡す。

 奈緒が「ありがとうございます。」と言いながら、嬉しそうにカップに口をつける。

 八時十分になったので、本館一階のラグジュアリーラウンジへ行き、コンチネンタル・ブレックファーストを摂った。本来ここは会員専用施設なのだが、もちろんのこと会員権を持っていない俺達が摘まみ出されることはない。

 ♥♥

 食後は、駐車場へ向かい愛車に乗り込む、今日の奈緒はライトブルーのカットソーにテラコッタのワイドパンツ、ライトグレーのサマー二ットを手に持っている。

 八時五十分、リゾートホテルDSを出発して、緩やかな坂道を下り、合流した国道を東へ走り、高速道路に上る。

 ホテルの裏山の東側を迂回する形で、しばらく北上すると、県庁所在地の一つ手前のICで高速を下りると、北西に向かう国道を走る。県境の小峠を越えて、さらに走ると、十時二十分、裏山の向こう側に当たる地~地主は合資会社辰巳興業である~に着いた。

 ♥♥♥

 まず北斜面の一番下にある「有限会社ミタツファーム」の農園に着いた、三塚秀一社長が出迎えてくれる。ここは紗弥子の父親であった、初代社長の辰巳明男が戦争直後に所有した山林・原野を三塚社長の父親ら三戸の農家が自墾し、生産法人を作って、野菜のほか、小麦や蕎麦などの穀物の生産を中心に据えて、最近は広大な採草放牧地を活用しての乳牛・肉牛・羊・山羊・銘柄豚の飼育にも取り組み、各種の加工品も出荷しているのである。三塚社長の説明を聞きながら一巡すると、ひとまず分かれて、一段上のミニ動物園である「株式会社ふれあいどうぶつえんDS」へ行く。

 ♥♥♥♥

 ここも関連会社だが、義父の辰巳明男が戦争直後に飼育困難になっていた各地の動物園から、動物を掻き集めて開園したもので、今は獣医師の大須賀三男を中心に運営している。園内を歩きながら大須賀社長の説明を聞くと「希少動物の飼育は経済的にも、技術的にも諦めていて、『動物に触れられる動物園』『動物から見られる動物園』をコンセプトに赤字を出さない様に努めている。」とのことであった。ここは何か梃入れが必要だなと思いながら大須賀社長と別れて、やはり関連会社である「株式会社飛龍スポーツ倶楽部」の山麓ロッジへ行く。

 ♥♥♥♥♥

 ここは、北斜面なので冬季はスキー場になるが、今時期は熱気球やパラグライダーなどの体験・訓練を行っている。

 実は今回の旅行の主目的は、ここで夫婦して空を翔ぼうと思ったことである。俺は熱気球でのんびり空中散歩ができれば良いなと思っていたが、説明してくれた飛鷹隼一社長は「熱気球は風が弱い早朝と黄昏時しか安定的に飛べず、日中は風を掴むパラグライダーがお勧めです。」と言うのだ、奈緒の顔を見るとやる気満々なので俺が断れる雰囲気ではない。

 飛鷹社長に導かれてリフトに搭ると、七合目付近の飛行基地に着く。スキーであればもう一本リフトを乗り継ぎ、九合目付近まで上がるのだが、ここからタンデムで跳ぶので、担当してくれる二人のインストラクターを紹介すると、飛鷹社長は下りのリフトに乗って行った。バンガローの様な管理棟に案内された俺達は注意事項を説明されて、「同意書」にサインさせられ、再び外に出るとインストラクターに抱えられて安全ベルトの確認を受けて、緩斜面を数歩駆け下りたと思うと、あっという間に空に浮かんでいた。緩やかに旋回すると、奈緒のペアが後ろを飛んでいるのが見える。麓から風が吹き上げていると見えて、時々は上昇しながら、徐々に降下していく。やがて地面が目の前に見えるとゆっくりと近付き、四~五歩で停止した、不思議と恐怖感はなかったが、自分で操縦した訳ではないので達成感は薄い。少し離れたところに着地して、近付いてくる奈緒の顔を見ると、少し上気をしている。帰り道にでも感想を聞こうと思いながら、インストラクターに礼を言うと、愛車を停めてある「ミタツファーム」へ戻る。

 ♥♥♥♥♥♥

 駐車場の横に生産物直売場と農家レストランがある。先程から空腹を覚えているので、レストランへ行く、三塚社長の妻である道子専務が陣頭指揮をしている。「奥さん御無沙汰してました。」「大平会長いらっしゃいませ。」「今時期のお勧めは何ですか?」「夏野菜の精進揚げと夏蕎麦に新物のとろろを乗せた冷しぶっかけそばがお勧めです。」「それではそれを二人前ずつお願いします。」すると。メニューを見ていた奈緒が「ストロベリーアイスクリームはありますか?」と訊く「もちろんございます、今年の苺は出来が良いので、とても甘くなっています。」「岳様はどういたします?」俺が「それも二つお願いします。」「お持ちするのは食後でよろしいですか。」「はい。お願いします。」「それでは少しお待ちください。」専務は厨房へ注文を通しに行った。それにしても正午少し前だというのに結構な数の客が入っている。関連企業を一か所にまとめた義父の思惑が当たった形だ。

 道子専務がワゴンに載せて料理を運んで来た。茄子をはじめ・ピーマン。パプリカ・オクラ・南瓜・トウモロコシが軽い口当たりで揚がっている。粘りの強い長芋と夏蕎麦の喉越しも捨てがたい。いつもより多めの食事だが残さず食べた。続けて奈緒が希望したデザートが運ばれてきた。濃い色のアイスクリームの上に丸ごとの苺とジャムが乗っている。口中に鮮烈な甘みと微かな酸味が拡がる。つい手が止まらず全て食べてしまった。菜緒も満足げな顔をしている。

 俺が支払いに行くとレジ前で、道子専務は「お代はいただけません。」と言うので、強いて茶色い紙幣を一枚渡して店を出た。

 ♥♥♥♥♥♥

 帰路は裏山とその西側に続く、一際高い山脈を大きく迂回する国道を通ってリゾートホテルDSへ帰った。車内でパラグライダーの感想を訊くと菜緒は「もう一度飛んでみたいですし、熱気球にも乗りたかったですね。」と答えた。日頃の慎重な物腰に似ず案外積極的なので少し驚いた。

昼食を終えてミタツファームを発ったのが十二時五十分なので、五時間強かけて十八時十分に帰り着いた。

 ♥♥♥♥♥♥♥

 夕食は十九時に予約しておいた、本館四階のメインダイニングに行く。

 俺が、のちに岳父となる辰巳明男からヘッドハンティングされて、このホテルにチーフバーテンダーとして移って来た時に、一番先に親しくしてくれたのは年齢が近くて、今は常務取締役総料理長に昇任している本郷衛士料理長だった。

 今夜のコースのポワソンは松皮のムニエル・バルサミコソース、ヴィアンドは夏鹿のコンフィ・フランボワーズソース、デセールはさくらんぼのパンナコッタだった。それを食べていると、私服に着替えた本郷君が来たので、三人でバーへ行く。

 今のチーフバーテンダーは、俺がチーフの時に一番熱を込めて指導した木村雄二君だ。

 木村君にマティーニを三杯作ってもらって乾杯する。その後は銘々にオーダーをするが、奈緒はニコラシカを、本郷君はフローズン・ダイキリを、俺はマッカランの十八年をストレートで頼む。本郷君との昔語りは懐かしく、それを聞いている菜緒や木村君も随分興味をそそられていた様であるが、麓の街に居を構えている本郷君が連絡車で帰る時間になったと言うので、小宴をお開きにして宿舎に帰って寝た。



   八日目:七月二十日(日)曇り

 ♥

 今日は自宅へ帰る、いつもどおり六時少し前に起き出すと、ルーチンワークに取り掛かる。七時前に奈緒が起き出してきたので、プリンス・オブ・ウエールズを菜緒にも入れる。彼女はそのウーロン茶を二杯飲むとシャワーを浴びに行く。その内ドライヤーの音がしだしたので、入れ替わりに俺もシャワーを浴びて身支度をする。朝食はメインダイニングへ行き鈴木裕子司厨長の手になる鮑魚粥を食べる。

 一旦宿舎に戻って、帰り支度をして九時前に、二階に降りて社長室へ行く。紫夫婦に別れの挨拶をすると、駐車場に行き愛車を駆って東京へ戻る。途中で高速を下りて有名な滝や鍾乳洞に寄ったため、東京に帰り着いたのは日が暮れてからだった。予約を入れておいた向島の鼈・鰻料理屋へ行き、鼈のコース料理を食べてから帰宅した。

 ♥♥

 さすがに菜緒も疲れているようだったが、鼈のせいか風呂上がりの浴衣姿の顔は光り輝いていた。俺もひと風呂浴びたが、さすがに疲れが抜けきらないので、二十三時前には寝た。

 夢に奈緒が出て来て、五歳くらいの女の子の手を引き二歳くらいの男の子を抱いて微笑んでいた。こんな夢を見るのは一昨夜、菜緒が紫に子育てについて事細かに訊いていたので、やはり子供が欲しいのかと思ったためであろうか。


   九日目:七月二十一日(月)雷雨

 ♥

 昨夜は早めに寝たせいか、はたまた鼈のおかげか、朝の目覚めは良い。外を見ると篠突く雨で庭に出るのも憚られるくらいだ。オレンジペコーを淹れて飲んでいると、女中頭の中島さんが新聞を持って来た。そのヘッドラインを斜め読みしていると、七時に奈緒が起きてきた。「岳様、お早うございます。」「お早う奈緒。疲れてはいないかい。」「お気遣いいただきありがとうございます。ゆっくり休みましたので、すっかり抜けました。」

 ♥♥

 そこへ執事の杉田さんが留守中に届いていた郵便や宅配便を台車に乗せて持って来るとともに「先程工務店の鈴木社長から電話があり、『今日は職人さん達を休ませる、御主人様の御都合が良ければ明日の午後二時に設計士と一緒に来て第二次・第三次の造作について打ち合わせをさせていただきたい。』とのことでした。」と言う。「『都合は良いので、ぜひおいでください。』と答えておいてください。」と伝言を頼んだ。

 郵便物などは、見る必要もないダイレクトメールなどが多いが、さすがに四日分となると本腰を入れなければならないほどの分量だ。

 朝食は中島さん達が作ってくれた和食を食べ、午前中は荷物などと格闘だ。馴染みの問屋からは頼んでおいたワイン十二本が、札幌の小体なバーのマスターからは自家製のジンと紫蘇漬けのオリーブが、国村調教師からは二歳馬の調教を記録したディスクが届いている。忘れないうちにと、礼状を書いていると正午になった。

 ♥♥♥

 外は雷まで鳴り出し、風もついて吹き降りになっている。とても外出する気にはならないし、出前を頼むのも気が引ける。どうしようかと迷っていると、中島さんが来て「私達は稲庭饂飩でお昼にいたしますが、御主人様はどうなさいますか?」と訊いてきたので、「私達の分もお願いします。」と答えると、「温かいのと冷たいのどちらがよろしゅうございますか。」と重ねて訊くので、「冷たい方でお願いします。」と答えた。

 しばらくして中島さんが持って来たのは、山菜おろしのぶっかけであった。菜緒と二人で美味しくいただくと、器は彼女が厨房へ持って行った。

 ♥♥♥♥

 明日、設計士が来るのなら丁度良いので、前から考えていた奈緒の両親との同居について相談しようと思い、「昼食を差し上げるので、正午頃にお揃いでお出でください。」という電話を奈緒に掛けて貰う。

 食休みの後は手紙や書類の整理だ。もっとも社長時代のように頭を悩ませなければならない物はほとんどない。請求書などは杉田さんに渡して代わりに処理してもらうし、奈緒宛ての物は封を開かずに渡す。

 そのうち、雷が近所に落ちたと見えて轟音が響き渡る。菜緒は驚いてしがみついてくる。抱き留めて「心配ないよ、大丈夫だ。」と言いつつ、背中を擦る。俺の目を見上げて、やっと怯えを解く。すずろの香りが漂う。

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 思い切って子供のことを訊いてみる。「奈緒、子供が欲しいんだよね。紫ににいろいろ聞いていたし。」「はい、女ですもの早く欲しいと思っています。できれば紗弥子様の遺言にあった様に、男の子と女の子を一人ずつ。でも母として育てる自信はありません。」「それは問題ない、君が立派な母親になることは俺が保証する。それよりも気掛かりなのは俺の年齢さ、君とは一回り違いだ、あと四年で五十になる。子供が成人するまで生きていられる自信がないのさ。」「岳様、ここに移ってからは以前の様に我武者羅に働いたり、夜更かしをなさったり、深酒をなさったりしていませんから、きっと大丈夫です。どうか長生きをしてください。」「分かった、一層精進するか。」抱き合いながら笑う二人。菜緒の体温が少し上がった気がした。

 夕食は奈緒が中島さん達と造った和食を摂り、若妻の仰せに従い二十時半と、早めに寝た。



   十日目:七月二十二日(火)小雨のち曇り

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 午前中は手紙への返事を書くなどして過ごした。

 正午前に奈緒の両親が来訪、懇意の鰻屋に出前を頼む。四人で食事をしながら「今住んでいる母屋は、改装中の新宅ができ次第解体して、跡地には二階建ての高級下宿を建てる。義父母にはその奥まった一遇に住んで貰い、管理人としての手当を支払う。実際の管理は使用人がするので指図だけして欲しい。」と説明して了承を貰った。

 十四時少し前、工務店の鈴木社長が設計事務所の設計士二名と来訪した。雨はいつの間にか止んだようだ。早速、二次・三次の工事について打ち合わせをする。

 第二次として、先程義父母に話したとおり、全三十二室の高級下宿を新築し、その一隅に管理人住居を作る。

 第三次は新宅の部分を切り離した離れ屋を、バリアフリーの貸席にして「華道・日舞などの発表会や囲碁・将棋・歌留多の大会などに使用して貰う。」という方向での設計を頼んだ。

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 新宅の完成は、八月末頃なので、それまでに第二次分の設計書を作ってくると約束して、鈴木社長達は帰って行った。菜緒は両親を彼女の愛車であるブレイジングレッドのミニ7・クーパーSD5ドアに乗せて送って行った。

 皆が出て行き居間で一人になった。当面急ぎの仕事もないので放心していると、奈緒が帰ってきた。両親は「またあの屋敷地に住めるのか。」と悦んでいたとのことである。

 それを聞いて紗弥子の母であった辰巳美紗子のことを思い出した。明日は彼女を誘って紗弥子の墓参りに行こうと思い電話を架けてみる「もしもし美沙子さん、岳です。明日はお忙しいですか?」「ああ、岳君、明日は何の用事もないわ。」「それでは紗弥子の墓参りに行きませんか。」「良いわよ。」「それでは十一時にお迎えに上がります。」「奈緒さんともお話ししたいから御一緒してくださる?」「それでは二人で伺います。」

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 夕食は、居間ではなく食堂へ行き、杉田さん夫妻や中島さん達と焼肉をした。肉は先日、紫が送って来たミタツファームの生産品で、俺達夫婦で食べきれない分を下げ渡したものだ。こうして大勢で食事をするのは楽しいものだ。それでもやはり肉は食べきれず、再び下げ渡した。

 食後は風呂へ入り、二十三時に寝た。



   十一日目:七月二十三日(水)晴れ

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 六時少し前に起きて、ルーチンワークを熟しているうちに奈緒が起きて来て身支度をし始めたのはいつものことだ。

 そこへ中島さんが昨夜の礼を言いに来たので、代わりに今朝は無理を言って茶粥にしてもらった。俺も身支度に掛かる。ダークスーツに着替えると身が引き締まる思いだ。

 奈緒と茶粥を食べると、少し早いが愛車で出掛ける。途中、等々力渓谷で息抜きをし、二子玉川の百貨店に寄ってお供え物と花を買い、十時五十五分に、かつては義母であった、美沙子の住むマンションへ着いた。駐車場に入れて待っていると、少しして黒のワンピースに生成りのサマーカーディガンを羽織った美沙子が出て来た。やはり黒を着た菜緒が下りて二言三言話していたが、二人して車に歩み寄り、乗り込んできた。「岳君、待った?」「いいえ二、三分前に着いたところです。それじゃあ、向かいますね。」 車は青山霊園を目指す。一時間強で墓地に着いた。

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 辰巳家の墓は立派な代々墓と隣のささやかな新墓がある。紗弥子の骨壺は新墓の方に入っている。美沙子は明男の後妻であり本妻達と同じ墓に入るのを嫌がり、たまたま空いていた隣地に墓を建てて、明男の分骨を納め、娘紗弥子の骨を納めたのだ。

 義母は月命日の十六日にも参ったようで、既に墓は奇麗になっている。

 型通り拝むと、心の中で紗弥子に訊いてみる「何か言いたいことはないかい?奈緒が子供を望んでいるがどう思う?」

 もちろん返答はない。

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 精進落としではないが、三人して赤坂の寿司屋へ行き軽く摘まむ「岳君、随分長く拝んでいたけど、何か紗弥子に訊きたいことでもあるの?」「ええ、このところ何回か夢枕に立って、何か言いたげだったので。それと奈緒が子供を欲しがっているので、紗弥子はどう思うだろかと思って。」「まず子供のことは、紗弥子も遺言していたとおり、遠慮せずに産み・育てて欲しいわ。特に紗弥子が指名していたのは奈緒さんなのだから、紗弥子に否やはない筈よ。それに紗弥子は既にいないのよ、忘れて欲しくはないけれど、今は奈緒さんを全力で愛して差し上げるべきよ。ねえ奈緒さん。」「分かりました。」この八歳違いの元義母の言葉は強いが、心は優しいので、俺の苦悩を解こうとしてくれているのだろう。

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 美紗子をマンションまで送り、我々は井の頭公園に寄って、黄昏の自宅へ帰った。

 夕食は、昼に呑めなかったので冷酒を三合だけ口にした。菜緒も付き合い頬をほんのり染めている。酒は会津ほまれの純米大吟醸、芯のしっかりした旨味とキリッとした後味だ。肴は百貨店で買った蛍烏賊の沖漬けや唐墨、冷奴などだ。

 運転で疲れた俺だけ二十三時前に寝た。菜緒は文机で何か書き物をしていたので、何時に寝たかは知らない。



   十二日目:七月二十四日(木)快晴

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 八時過ぎに朝食を摂るまではいつもと同じだ。今日は朝から天気が良いので、気になっていた新宅を奈緒と二人で見に行く。

 既に外構を含む外観はでき上がっており、広間などの後で貸席にする部分との間は切り離されていて、屋根付きの渡り廊下で繋がっている。中を覗くと、畳や襖などはなくキッチンにワインセラーやダブルシンクを据え付けているところであった。現場代人の岩崎さんに挨拶すると「社長から納期は守れよと厳命されているので、御満足いただけるような建具を作るよう、自社工場を督励しているところです。」とのことだった。

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 邪魔になりそうなので外へ出て、久し振りに裏庭を見に行く。昨年九月に生垣として金木犀と柾を植えさせておいた。十一月にはその手前にカサブランカを移植したのだ。

 しかし今日来て見ると、その間から正体不明の木が四本生えている、しかも高さが四メートル程あるので、誰かが相当に大きな苗木か親木を植えたとしか考えられない。

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 住み込み庭師の野上修二さんを呼び、問い質すが、「何も植えておらず、そもそも、この様な幹の細い木は見たことがない。」という答えだ。

 念のために岩崎さんに訊いても「庭部分には一切施工しておらず、職人達に訊いても木を植えたことなどない。」と言われてしまった。

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 結構大きな木が四本なので、解せはしないのだが、抜く手間も惜しいと思いながら、敷地を一回りして居間に戻り、昼食を食べ、無為に過ごした。

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 そこへ、旧知の恩人である向田翁が予告もなく来訪してきた。この爺さんは屋敷の前の持ち主の津野氏とも幼友達なので様子を見に来たのだ。

 奈緒が冷たい麦茶に茶菓子を添えて出すと、お代わりを所望して都合三杯飲んだ。博識なので裏庭に連れて行き、例の木を見せたが「儂は東京生まれの東京育ちだ、戦時中も疎開はしていない。だから樹木には全くに不案内だ。」と答えた。この爺さんは節目、節目でとても有用な助言をしてくれるが、いざとなると役に立たない。訊いた俺が馬鹿だったと思いながら、屋敷内を今後の計画も含めて説明して歩いて、お引き取り願った。

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 結局疑問は解けず、モヤモヤするばかり。そんな気持ちを抱きながら、夕食を食べ、早めに寝た。



   エピローグ

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 モヤモヤが晴れないので、強いて忘れることにして日常の仕事をチマチマと熟しているうちに、カレンダーが八月に変わった。

 「そろそろ盆参りについて美沙子と打ち合わせをしなければな。」と思っていた八月四日の日曜日にミタツファームの三塚道子専務から電話があり、明後日の午後四時頃伺います。」との連絡があった。

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 予約があった八月六日の十六時過ぎに、ミタツファームの道子専務が、新作のマンガリッツアのベーコンを持って訪ねてきた。こうした物を辰巳グループと取引がある北武百貨店のバイヤーに見せて、取り敢えず、ハム・ベーコンと野菜ジュースを扱って貰えるようになったとのことだった。

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 丁度良いので裏庭を見てもらおうと案内したところ、生垣やカサブランカを誉めるでもなく「会長さん。私達でも植えておかない様な珍しい物を四本も育てているんですね。まあ来春に孫生えが生えるのを楽しみしてください。」と意味深なことを言って、帰って行った。

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 盆も疾うに過ぎ、新宅へ移る手立てを纏めている今でも、あの農婦の言葉に絡みつかれて、煩悶とした日が続く俺である。



 ♦♦ 拙い上に短編という割にはかなり長めの作品を最後までお読みいただきありがとうございました。厚かましいお願いですが、感想や評価をいただければ幸いです。

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