.。o○ 出逢いの始まり .。o○
ドアの脇から部屋をのぞきこむと、気配に気づいた彼がふと、顔を上げた。
「ん」
「どうした?」
オレンジ色のやさしい光が、彼の瞳をふちどっている。
その瞳に一瞬、吸い込まれそうになって、私はあわてて首を振った。「ううん」
「なんでもないよ」
その言葉に満足したように、彼は小さくあごを引いて、目の前のパレッドに向き直った。絵を描いている時の彼はいつもそう。無愛想で、いろんなことに無頓着。すこしばかり呆れてしまうほど、彼は“絵描き”だ。
そんな彼の背中を、私はドアの脇に手をかけたまま、じっと見つめた。
彼の背中は答えない。
ただそこにあるだけのそれが、あるだけでこれだけ愛おしいのか、何回確認したら私は気が済むのか。
分からない。
思わず息を漏らして笑った音に、彼が振り向いた。
「もう、なに」
「なんでもないってば」
「突っ立ってないでこっちおいでよ、そこ冷えるでしょう」
「……うん」
声が弾んだ。つま先立ちで歩いて、彼の隣に腰を下ろす。大きいお腹がじゃまくさい。
彼が私のお腹に手を伸ばした。
そ、っと慈しむように目を細め、撫でるように私ごしに紫苑を感じて、また、パレッドに向かってしまう。
「……君ね」
私の方を見ないまま、彼が言った。
「もう紫苑も大きいんだから。ねえ、冷えは大敵なんだって自分で言ってたでしょう? 少しは自分の身体に気を使って、お願いだから」
これにはさすがに黙った。もちろん、反論が思い浮かばなかったからではない。ただ、彼の耳がほんのり色づいていることに気がついてしまったからだ。
彼には、面白い癖が実はたくさんある。……本人は気がついていないようだけれど。
めちゃくちゃくさいことを大きな独り言でいったり、照れるとしきりに鼻の頭を触ったり。耳が赤くなっているときは…大体、ちょっと興奮している。
つまり、心の底では、私が来てくれたことを喜んでいるのだ。
………かわいい。
黙ったまま横顔をじっと見つめていると、ちろ、と彼が細い瞳でこちらを見た。「な、何」
やわらかいオレンジ色に、その瞳が染まっている。
きれいだなぁ、なんて思っていたら次の瞬間、その瞳がずい、と迫ってきたもんだからものすごく驚いた。
不意打ちに倒れそうになった背中を、彼の腕が抱きとめた。
ふわりと、とろけそうな感触がして、思わず目を閉じた。鼻が触れ合って、彼の息を感じて、身体がぞくっ、と一度だけ震える。
長い一瞬が終わって、彼が唇を開放すると、そこには心地いい余韻だけがあるだけだった。
「………」
ぐりぐりと、彼が私の頭を乱暴に撫でる。目を開けると、珍しく顔を真っ赤にした彼がふてくされたように笑っていた。
「ほら、続きはしないよ。………寝ようか?」
「………くんも」
「僕はねな―――…わ、わかったよ、僕も寝るから! そんな顔しない!」
がたがた言いながら、彼は私に背を向けて画材を片付け始めた。その細い背中をぼんやりと見つめながら、
私はいまさら顔を赤くする。
「け…………くんの…ばか…」
私を赤面させた彼が、振り返って首をかしげた。
「ん?」
ж ж ж
彼と出会ったのは、24のときだ。
地方で受けたオペラ歌手のオーディション―――――そこに受かってしまった(まぁ正直落ちる気はなかった)私は、地元から上京。東京の下町に小さなワンルームを借りて、一人で暮らしていた。
仕事場も近くにあるし、遠出するときにも駅が近くにあるので楽だった。
不満はなかった。
この、廻り回る、乱れ往く音の洪水さえ――――なくなってくれたら。
地元ではあまり多用していなかったヘッドフォンも手放せなくなった。
あ、そうそう、言い忘れていたけれども。
私には、世界のすべてが音に聞こえる。
説明するのが面倒くさいので、どうしても話すときにはただ「耳がいいんだ」だけで済ませているが、それは意味合いが少し違う。
色や。匂いや、感触や……味にまで。
そのすべてに、私は音を感じてしまう。
たとえば、オムライスが目の前に運ばれてきたとして。
私はその黄色く、ふわふわしていてそうな見た目、そして甘いその味に軽やかな音楽を感じる。自分にもどれがなんだかわかっていないけれど、それぞれ私の中にひとつずつ対応する音があって、それが混ざり合い、音楽に感じるそうだ。
共感覚者。
脳の専門家は、私たちのような人たちのことをそう呼んでいる。
まあ、原理はどうであれ、辛いことに変わりはなし、私にとっては関係のないことなのだが。
………ヘッドフォンをしていると、少し、楽になるような気がした。耳元で途切れなく流れる低い音をただ聞いているだけで、なんだか気分が落ち着いた。
殻を作ることで。
壁を作ることで。
私は、世界の音から自分の声を守っていた。
そんな、私だけの世界に、彼を引き込んでしまったのは―――――――ある梅雨晴れの、蒸し暑い日のことだ。
その日だけどうしてだろうか、どうしようもなく世界が美しくて。
泣き出したくなるくらいまぶしい虹が綺麗だった。
美しい音を奏でる彼の世界は、
確かに私の世界と惹かれあっていた。
ж ж ж
ヘッドフォンを外し、ロッカーの中に入れる。いつも、この瞬間だけはドキドキする。外した途端、私を傷つける音の波が押し寄せてきそうな気がしていて、いつも怯えていた。
耳がヘッドフォンの束縛から解き放たれて、新鮮な空気を取り入れる。
気持ちいい―――――ふぅ、とゆるく息を吐き出した。
やっぱり、都会は、嫌いだ。
それでもなんとかやってきていれているが……どうしてなんだろうか。ここまでして、しがみついて。何がしたいのか―――。
背後で、またひそめられた声が聞こえた。「あ、ヘッドフォン外した」「天才ぶっちゃって」「恥ずかしくないのかね」
「意味分かんないわ、色が聴こえるとか」
目を眇める。唇が震えるのが押さえられなかった。
こうなることを、予想してはいなかったか。
繰り返す事を、本当は分かってはいなかったのか。
誰も信じてくれなかった、私だけの世界だ。いくら音楽の世界に入ろうが、誰も認めてくれないことくらいは分かっていたはずだった。
舞台の上に立つ時だけ、スポットライトを浴びるときにだけその全てを忘れられた―――
はずだったのに。
彼と出逢った。
出逢って、しまった。
―――――――これの……どこが虹なの?
私の苦し紛れの言葉。彼は気がついていなかったようだけど。
―――――――なんとなく、これは、虹。
そう言い張って微笑んだ彼と、私の小指に赤い糸が絡みついているように。
私には見えたんだ。
これは、私の前日譚。
そして、彼のプロローグ。
灰色の日常に色のついた、私たちの第、一歩のお話。