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家に帰りつくころには、すっかり暗くなっていた。
誠司はあれからも自称女神(仮)を小一時間ほど問い詰めていたが、成果はまったく得られなかったようだ。下校時間が過ぎ、顧問のちなみちゃんに部室から追い出されたときには、精神的に打ちのめされてゾンビのようになっていた。南無。
まだ営業している眼鏡店の入り口をくぐる。
奥で本を読んでいたオヤジ殿が顔を上げてこちらを見た。
「おう、おかえり」
「ただいま」
「ただいまー」
背後から続いてきた声に、俺はがっくりと肩を落とした。
オヤジ殿はまだ傍観を決め込むつもりのようで、面白そうなものを見る顔のままだ。
俺はしかたなく、ため息めいた声を吐き出す。
「いつまでついてくる気だ?」
「え?」
この顔はさっきも見た。
心の底から不思議に思っている顔。なぜそういうことを言われたのかまったくわかっていない表情だ。
「そろそろ自分の家に帰ろうとか思わないのか?」
「だから、ただいまって」
「日本語が通じない……」
多分こんな返しがくるんだろうなと思ってはいたが、実際に返ってくると脱力感がハンパない。
俺はそれ以上言い返すのをあきらめ、店舗スペースを横切って奥へ上がる。
当然のようについてくる自称女神(仮)のことは、なるべく考えないようにした。
「こーうーちゃーんー」
「……なんだよ」
「なんか冷たい」
「えらいえらい。少しは空気を読めるようになったじゃないか」
「ひど!?」
オーバーなリアクションを繰り返す自称女神(仮)を無視して、階段を上り始める。
その俺の首に、後ろから腕が巻き付いた。
「こーうーちゃーんー!」
「ぐッ……ばっ、やめろ! 首が……!」
のけぞりかけた状態を無理やり戻して、首にかかった腕を引っ張る。どうにか呼吸を確保すると、自然と自称女神(仮)を背負う格好になった。
「む……う……」
「ん? なに? どしたのこうちゃん?」
「なんでもねえよ!」
ホントはなんでもなくないのだが。背中にやわらかな感触が押し当てられて、非常に好ましい、いや、よろしくない。
「ってか、こうちゃんて呼ぶな」
「えー」
「えーじゃねえ。あとおりろ。重い」
「ぶーぶー」
こんなやり取りももう何度目だろうか。
おかしいな。初めて出会ってから、まだ1日しかたってないはずなのに。
2階へ上がり、ダイニングキッチン(というほどしゃれた部屋ではないけれど)に入る。
台所では愛美が夕飯の準備をしていた。
「ただいま」
声をかけると、まな板に向かっていた愛美が包丁を持ったまま振り返った。
「ひっ」
漏れた悲鳴は俺のものだったのか、それとも自称女神(仮)のものだったのか。
「……ナカ、ヨサソウヤネ」
怨念がこもっている、と言うのだろうか。
かくんと横に倒した顔の奥で、ふたつの目がうす暗く輝く。
腹の奥底をきゅっとつかまれて、背筋に冷たいものが走る感覚。
「まっ、ちょっまて!」
「待つ……? なにを待つって?」
言いながら、愛美が一歩踏み出す。包丁は持ったまま。
怖いよ、マジで怖いって!
「お、おぅけぃ、とりあえず落ち着こうか。まずその包丁を置こう。なっ?」
言われて気づいた、という様子で、愛美は手に持っていた包丁を見る。
そして俺と包丁を見比べるように、何度か視線を行き来させる。
「あ、あの……愛美さん?」
「なに?」
無表情。声にさえ感情がこもってなかった。
相手を本当に怖がらせる顔って、怒り顔じゃないんだな。俺、初めて知った。知りたくなかったけど。
でも、どうしたんだこいつ。今までになくマジギレしてるんだけど。
「……俺、そんなに悪いことした?」
「わからへんの?」
わかってたら聞いてない。
ゆらり、と愛美がまた一歩。
「じゃ、あたしはこれで……」
言いつつ逃げ出そうとする自称女神(仮)の手首をつかむ。
「どこへ行く?」
「いやー、お邪魔かなって」
「いやいや、そんなことはないぞ」
「さっきまであんなに帰れ帰れって言ってたくせに!?」
「それとこれとは話が別だ!」
「巻き込む気なの!?」
「お前も当事者だろうが!」
「え!? うそ!?」
言い合ってる間にもまた一歩。
俺たちが短い悲鳴を上げる間にまた一歩。
知らず知らずのうちに、ふたりして壁に背をつけ、手を取り合う格好になっていた。
「ま、愛美さん……?」
「お、落ち着こうよ……?」
「……」
無言で迫る愛美。
ちょ、マジでこわっ、こわっ!?
額がくっつくほど近くに突き出された愛美の顔は、表情と言えるものが完全に抜け落ちていた。それどころか、目と口のある場所には、なぜか真っ暗な穴がぽっかりと開いていた。
「うわああああああああああああ!」
叫び声を開けると同時に目を覚まし、布団を跳ね飛ばして身を起こした。
肩で息をしながら周囲を見回す。自分の部屋だと確認して、大きく息をついた。
「……またかよ」
なんだか立て続けに悪夢を見た気がする。
それに、どこからどこまでが夢だったのだろう。
判断がつかないのは、寝起きだからか、それとも他に理由があるからか。
考えたところでわかるはずもない。
俺は右腕だけを動かして目覚まし時計をとりあげ、目の前に持ってくる。
7時29分。
アラームが鳴り始めるまえに、スイッチを切ることにした。
そのまま、また布団に倒れこむ。
と、左腕に暖かくやわらかな感触。上下に軽く動かしてみると、ふよふよと心地のいい反発を受ける。
なんか、昨日もこんな感じじゃなかっただろうか。
「……まぁいいか」
心の片隅になにかころりとしたものを感じるが、たぶんそれは夢見が悪かったせいだろう。なんとなく不安な気持ちがあるような気もしなくはないが、きっと気のせいだ。
そんなことより、今はこのまどろみの感覚を大事にしたい。
ふたたび意識を手放しかけたとき、部屋の戸が開けられた。
「こうちゃん? さっき大きな声が聞こえ……」
不自然な位置で途切れる声。
なんだ……?
薄目を開けてみると、部屋の入り口で愛美が立ち尽くしていた。台所の蛍光灯で逆光になっていてよく見えないが、なんだかあんまり愉快そうな顔はしていないようだ。
俺は寝るのをあきらめて、身を起こした。
「ふぁ~……ぁぁ……どしたー愛美ー?」
「こ、こうちゃん……そ、それ……」
「……あ? それ?」
俺の横あたりを指さす愛美。つられて目を向けると、自称女神(仮)が薄い襦袢一枚でくーすか寝ていた。
俺の時間が止まった。
ここでなにをするべきか、なにを言うべきか。運命はそれで決まるというのに、全身の関節は接着剤で固められたかのようで、思考はと言えば熱で溶けたアメの中に放り込まれたかのようだ。
そうこうしているうちに、自称女神(仮)が目を覚ました。
むくりと身を起こして、眠そうな目をこする。
「……おぁよー」
「あ、ああ……おはよう?」
同じ布団の上で固まっている俺と、部屋の入り口で固まっている愛美を交互に見る自称女神(仮)。
それから、にっこりと笑った。
「おぁふみなふぁい……」
言ったかと思うとふたたび倒れて寝てしまった。
そのとき、俺は見逃さなかった。
ふたつのふくらみが、揺れてはずんでふるえるのを。
はぁ……眼福。
「……」
「はっ!?」
殺気を感じて振り向くと、目に涙を浮かべた愛美が右手を大きく振りかぶったところだった。
「バカー!」
「うおっま――」
待てと言い切る間もなく、軽やかな破裂音が響いた。
またこのパターンかよ、と理不尽に思いつつ。
これも夢だったりしねぇかなぁ、などとも願いつつ。
俺はまた、布団に倒れこんだ。