-2-
「はっ!?」
布団を跳ね飛ばして身を起こした。
周りを見渡して自分が今どこにいるかを確認する。
それから俺は、見慣れた自分の部屋で大きくため息をついた。
「……夢か」
呼吸が静まるにつれて、激しかった心臓の動きも収まっていく。
しかし、なんて夢を見るんだ。欲求不満か?
でもそれにしては、メガネがどうとか叫びながら追いかけてくる女の子というのも意味が分からない。
まぁ、夢の展開に意味なんてないのだろうけど。
「しかし……やわらかかったなぁ」
俺はそうつぶやきながら自分の手を見る。
いや、実際に手で触ったわけではない。夢の中でだって自分の手でもんだわけじゃない。
だがそれでも、あの柔らかい感触の記憶は瑞々しく残っている。夢じゃなかったのでは、なんて気にもなってくるほどに。
「いやいや……あんな奴がそうそういてたまるか」
自分の夢の産物とはいえ、あんなキャラにはそうそう会いたいとは思わない。
関わらないところで見ている分には楽しいかもしれないが。
そんなことをぼんやり考えていると、枕元に置いてあった目覚まし時計が軽やかな電子音を立てる。
右腕だけを動かし、時計を手に取って目の前に持ってきた。同時にスイッチを切って、目覚ましを止める。
7時30分。
いつもの時間だ。
ドアの向こうから、機嫌のよさそうな鼻歌が聞こえてくる。
愛美が朝食の準備をしに来てくれているのだろう。
これもいつものことだ。
愛美というのは、いつも食事を作りに来てくれる幼なじみだ。母親のいないウチと、父親のいない愛美のところとで、家族ぐるみの付き合いがうまくかみ合ったというわけだ。
さて、それはそれとして、もう少し寝よう。
俺は目覚ましを元の場所に戻すと、布団をかぶりなおして寝る体勢になる。
夢見もある意味悪かったんだ。もう少し寝ていたいと思うのは、自然なことだろう?
それにしても、この二度寝がたまらない。
ゆるーく、ふんわり、まどろみの中をたゆたう感覚。
まさに至福と言ってもいい。
目覚ましの音は愛美にも聞こえているはずだ。5分ほどして俺が起きていかなければ、起こしに来てくれるだろう。
目を閉じたところで、違和感を覚えた。
掛け布団ってこんなに軽かったっけとか、なんで俺こんな布団の端によって寝てるのとか、なんかいい香りがするなとか、違和感の理由がいくつも浮かぶ。
しかしこの時の俺は、半分寝ていた。
だからせっかく浮かんだ違和感も、まどろみの波間に消えていってしまったのだ。
そんな俺を、いったい誰が責められるというのか。
寝返りを打った俺の右手に、暖かくて柔らかいものが触れた。
夢見ごこちで触るそれは、やわらかくて、やわらかくて、とにかくやわらかかった。
豆腐かプリンか、蒸かした肉まんのような。マシュマロという言葉も頭に浮かんだが、実際に食べたことがないのであってるかどうかはわからない。質感は布なので一瞬布団かとも思ったが、どうも違うようだ。
じんわりとあたたかくて、かすかに上下している。
……上下? 動いてる?
そこまで気づいてから、俺はようやく目を開けることにした。
西向きの部屋だから朝日は差し込まない。遮光カーテンがかかっているから、朝にしては少しばかり薄暗い。とはいえ、目の前に何があるのかくらいはさすがに見える。
いや、何がいるのか、だ。
女の子が寝ていた。
白い着物のようなものを着ており、少し着崩れていて、胸元が大きく開いている。
小さな寝息に合わせて、胸がかすかに上下している。
なるほど。
俺の手が感じた動きはこれか。
そういう俺の手は、女の子の胸の上にあった。
目が開いていても頭はまだ寝ぼけていて、普段通りの思考になっていない。だから目の前に見知らぬ女の子が寝ていても、特に驚かなかった。というより、驚く思考回路が起動しなかったと言うべきか。もちろんそれはエロ方面の思考回路も同じで、もみたいとか、着物をめくってみたいとか、そういう考えは一切浮かんでこなかった。
ただ、一言。
なんだ、夢か。
そりゃそうだ。目が覚めたら目の前で女の子が寝ているなんて、夢以外のなんだというんだ。夢じゃなきゃ、アニメか漫画かラノベだ。
そうか、そういうのもあるのか。
……って、何を考えてるんだ俺は。現実じゃありえないのはどっちも同じだ。
そろそろ起きるか……
身を起こして、あくびをしつつ体を伸ばす。
それから後ろに手をつくと、やわらかいものが触れた。
夢で触った感触に似ている。
振り返って見てみる。
銀髪の女の子が寝ていた。
視線を戻す。そしてもう一度見てみる。
やっぱり銀髪の女の子が寝ていた。
後ろについたと思っていた手は、その女の子の胸の上にあった。
思わずもむ。
「んぅ……」
女の子の吐息がなまめかしい。
というか、やわらかい。あたたかい。やわらかい。
手のひらに全神経が集中した瞬間、部屋の戸が開けられた。
「こうちゃーん、そろそろ起きないと遅刻する……よ」
部屋に顔を突っ込んでいた愛美の表情が、不自然に凍り付く。
おそらく俺の顔も同じような表情をしていることだろう。
愛美の視線が、俺の顔ともう一点を往復している。その表情が次第に変化していくのを見ていると、愛美の考えていることが手に取るようにわかった。
何か言わなければ!
それで出てきた言葉がこれだった。
「チガウ!」
「……言い訳する前に、まずやることあるんちゃう?」
「へ?」
「いつまで人の胸もんどんのん……?」
「……あっ」
いまだに女の子の胸の上に置いていた手を、あわてて引きはがす。
「これはっ、その!」
「これは? その?」
にこり、と笑顔を浮かべる愛美。
かつてこれほど笑顔が恐ろしいと感じたことがあっただろうか。
俺は観念した。
たぶん、何を言っても無駄かなと。
「……いえ。なんでもないです」
「そう。ほな、歯ぁ食いしばり」
「……はい」
俺がそう答えた数瞬後、家中にかろやかな破裂音が響いた。
数秒後には、着替えをする間もなく部屋から引っ張り出されて、食卓の横で正座をさせられている。
愛美は、俺の目の前で仁王立ち。
俺のオヤジ殿は、食卓について新聞を広げつつも、面白そうなものを見る目つきで成り行きを見守っている。
名も知らぬ女の子は、いまだに俺の布団でカースカ寝てやがる。
一言で今の状況を言い表すなら。
理不尽だ。
どうも初めまして。鏡屋浩介です。高校二年生。眼鏡店の息子やってます。
「で?」
「え?」
目の前でおタマを持ったまま腕組みしているのは暮岳愛美。幼なじみで同い年だけど学年はいっこ上。制服の上からエプロン着用、肩までの髪をゴムでまとめている。薄い桜色のチタン製でハーフフレームのメガネもかけている。我が家の食事事情を一手に担っているので逆らえません。
「説明してゆうてんの」
「俺が聞きたい」
「あの子誰なん?」
「俺が聞きたい」
「なんでこうちゃんのお布団で寝たはんの?」
「俺が聞きたい」
「……まともに答える気ぃないん?」
「まともに答えてるって! 俺だってなんでこんなことになってんのかわかんねえんだよ。朝起きたら隣で知らない人が寝てるとか、俺が怖いわ」
「自分で連れ込んだくせに」
「連れ込んでねえよ! オヤジが隣の部屋で寝てるのにそんなことするか!」
「オジさんがおらんかったら連れ込むんや」
「んなワケあるか! オヤジもなんか言ってやってくれよ。俺がなんかやってたら真っ先に気付くだろ?」
広げていた新聞を、音を立ててたたむ。湯呑みのお茶をすすり、それからようやくオヤジ殿はしみじみとつぶやいた。
「浩介……お前も女を連れ込むような年になったんだなぁ」
「ちょおおおおおい! 今はそういう冗談はやめろってぇ! シャレにならねえから!」
「なっはっはっは」
愛美の目つきがかなりきつくなっている。
俺が悪いわけじゃないのに、なんでこうなるんだ。勘弁してくれよマジで。
「ま、冗談はさておき。少なくとも俺は、こいつが誰かを連れ込む場面なんてのは見てないし、隣の部屋でなんかごそごそやってるってのも聞いてないよ」
「ほら! 俺は潔白だ!」
「……胸、触ってたやんな?」
「誤解だ! 布団に手をついたらそこにあの子がいただけ! 事故だ事故!」
「ふぅん?」
ゆらり、と体を揺らす愛美。包丁なんかを持っていたら画になる状況かもしれない。怖いけど。
そういえば、あの子の胸は大きかったな。仰向けに寝ていてもそうとわかるほどだった。それにやわらかかった。クセになりそうな感触だったなぁ。
「……こうちゃん? 何、考えたはんの?」
「は!? ……そ、そりゃお前、あの子は誰だろうとか、どこから入ってきたんだろうとか」
どうも愛美は、自分の胸の小ささにコンプレックスを感じている節がある。
確かに、愛美の胸は大きいとは言えない。だが、決してなくはないのだ。そこまで思いつめるようなことでもないと、男の俺は思うのだけど。女の子にとっては大事なことなんだろうか。
「……ホンマに?」
「か、考えないほうがおかしいだろ? それから、愛美さん? そろそろその関西弁やめようよ。怖いって」
俺に言われて、愛美はぐっと言葉を飲み込んだ。指摘されるまで気づいてなかったらしい。愛美は昔からこうだった。本気で怒るとなぜか関西弁になる。
それはともかく、とりあえずは話題そらしには成功したようだ。
あとはこのまま落ち着かせる方向で……
「おふあああああぁぁぁ……ぁふぅ……よーぅございまーすぅ」
そして再び凍り付く空気。
何が起きたのか振り返らずともわかる。例の女の子が起きてきたのだ。
「なっ……」
「ぶっ、ごっふっ」
愛美は絶句し、オヤジ殿はお茶を飲もうとしてむせていた。
なんだ……?
振り返ってみると、ものすごいものが目に飛び込んできた。
着崩れた白い着物と、大きく広がる肌色面積。胸のところには極端な曲線を描く物体があって、自然と目がそちらへ吸い寄せられる。白い着物(襦袢という名称なのは後で知った)は内側をヒモでくくり付ける構造になっているのか、肝心なところは見えなかった。が、それが逆にそそるというか、裸よりもよほどエロい格好になっている。
と、いきなり頭をつかんで無理やりひねりこまれた。
「がっ」
首から変な音が聞こえたような気がする。
目の前に愛美のにらみつけるような顔。
「見ない」
「くび、首から変な音した、痛い痛い痛い!」
「あっ、ご、ごめん」
「……大丈夫?」
背後から聞こえる女の子の心配そうな声。
初対面の子のほうが優しいってどうなんだ?
「ちょっと、あなたはその格好なんとかしなさい!」
「えー……」
「服をちゃんと着てきなさい言うとんの。聞こえんかったんか?」
「は、はいっ、ごめんなさい!」
「いやー、おじさんは別にそのままでもいいと思うけどなぁ」
軽口をたたくオヤジ殿を、愛美がひとにらみで黙らせる。
俺は黙ったままそのやり取りを聞いていた。首をひねったりさすったりしながら。
あれだな。愛美はおかんだな。
なんてことを考えながら一人でうんうんとうなずいていると、俺まで愛美ににらまれた。
それからため息がひとつ。
「……私だって朝から怒ったりなんかしたくないのに」
「わかってるよ」
兄妹みたいに過ごしてきて、付き合いだけは長いんだ。愛美がどういう人間かなんてよくわかってる。さっき叩かれた頬も、音だけは大きかったが、実はそんなに痛くなかった。
それよりも問題は。
「おはよーございまーす!」
無駄に機嫌がよさそうだった。
気持ちが荒んでる時に能天気なヤツと会うと、無性にイラつくことってあるよな。
今はまさにそんな感じ。俺も、愛美もだ。
だから言葉じりにトゲが混じってしまうのもしょうがない。
「で、あなたは誰? なんでここにいるの?」
「あたしは神様。メガネの女神様ってところね!」
……うん?
「ここってメガネ屋さんでしょ? だから祀ってもらうことにしました!」
ンンン!?
思わず振り返って女の子の姿を見た俺は、あんぐりと口を開けて間抜けな表情をさらしてしまった。
女の子は巫女服を着ていた。そして丸いレンズのフレームレスメガネ。長い銀髪を毛先のほうで、赤いリボンを使って丁寧にまとめている。美少女と言えるがとっつきにくさは感じさせず、人懐っこい笑みを浮かべている。
その姿を見てから俺は思わずつぶやいていた。
「ああ、こりゃ悪夢の類か」
「ひどっ!? ひとの顔を見るなりそのセリフ!?」
「いやだっておまえ、昨日、俺の夢に出てきてただろ? だったらどう考えても悪夢じゃねえか。おーい俺ー、早く起きろー。遅刻すんぞー」
「ねぇ、こうちゃん。この子と知り合いなの?」
「いいや。名前も知らない」
「でも、会ったことはあるんだよね?」
「まぁ。夢の中で」
「なにそれ?」
「俺もわからん」
「夢じゃないから! 現実だから!」
「一番現実離れした言動の人から言われた」
「現実を見つめようよ! 戦おうよ、現実と!」
俺はすいっと手を上げると、両側から女の子の頬をつまんでぐにぐにとひっぱりまわす。
「お、ま、え、が、い、う、な」
「いひゃいひゃいひゃいひゃい」
……あれが夢じゃなかったって? そんなバカな。
とはいえ、目の前にこうしてこの女の子が存在しているのも事実。
「なんか、頭が痛くなってきた」
「こっちはほっぺたが痛いよ!?」
まぁ確かに、この打てば響くようなボケとツッコミには覚えがある。ある種の心地よさもあるこの感じには、既視感もついてきている。
とは、言え。
「とりあえず、まず名前を聞こうか」
「ヒトに名前をたずね……」
「俺は鏡屋浩介。こっちは暮岳愛美。そっちは俺の父親の慎太郎」
「お、おぅ……かぶせてくるね」
「いちいち付き合ってたら話が進まないからな」
「フフン? あたしの扱い方がわかってきたようね」
「そういうのはもういいから」
「あたしは神である。名前はまだない」
「愛美、電話とってくれ」
「あ、うん。どうするの?」
立ち上がって受話器を受け取りつつ、簡潔に答える。
「警察呼ぶわ」
「わー! 待って待ってごめんなさい! 真面目にしますから!」
俺はわざとらしく大きなため息をついて見せる。
それからイスに座って、受話器を食卓に置いた。
「で?」
「すいません、ホントに名前ないんですぅ……」
無言で電話を持ち上げる。
「ホントなんですって! ホントのホント、マジホント」
「あのな……そんな話が信用されると思うか?」
「ですよねー……でもホントなんだからしょうがないじゃないですかー」
ため息をつきたいのをぐっとこらえて、女の子をまじまじと見つめる。多分、俺は疑わしそうな目をしているんだろう。
女の子はといえば、必死になって愛想笑いを浮かべている。その様子からは、ウソを言っているようには感じられない。なんて、見ただけでわかるはずもなく。最近はタチ悪いのが多いしなぁ。
女の子から視線を外して、愛美を見た。
愛美のほうも、最初の怒りはどこかへ行って困惑しているようだ。
オヤジ殿はというと、にやにやと笑いながらも静観の構えを崩していない。
「まぁ、悪気はなさそうだ、ってのはわかるよ。そんなものがあったら、俺たちが寝てるあいだにやる事やって出ていってるだろうし」
「でしょ!?」
「そのすぐ調子に乗るところさえなければな」
「ぐぅ……」
それまでずっと黙って見ていたオヤジ殿が、ようやく口をはさんだ。
「今のところは、その辺にしておいたらどうかな。そろそろ準備しないと学校に遅れるんじゃないか?」
「えっ、もうそんな時間?」
愛美とふたりで、時計を確認する。
まだ遅刻が確定するほどではない。が、着替えて朝食をとって、となると余裕はほとんどなさそうだ。
「やっべ。とりあえず話は帰ってからだな」
「えー……」
「ああ、いや、帰りたいなら帰ってもいいぞ。二度と来ないって約束してくれるなら」
「ひどっ!?」
それ以降は女の子を気にする余裕もなく、あわてて着替え、朝食をかきこんで、愛美と並んで家を飛び出した。