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メガネが好きな方も、そうでない方も、少しでもクスリとしていただけたなら、私は幸せです。
「あなたが落としたのは金のメガネ? それとも銀のメガネ?」
夕暮れ時の公園。
その中ほどにある池の上に、巫女服を着た長い銀髪の女の子が立っていた。言葉の通り、右手には金ブチの、左手には銀ブチのメガネをそれぞれ持って。ついでに本人もメガネをかけている。大きなだ円形のレンズでフレームが目立たないタイプのものだ。
あまりにもあんまりな出来事に、俺はあんぐりと口を開けたままろくな反応ができないでいた。
考えてもみてくれ。
メガネを池に落としたら女の子が池の中から出てくるだなんて、誰が予想できるっていうんだ? 童話の世界じゃあるまいし。
しかし、実際にそれが起きたのだ。
モーゼの前で起きた奇跡のように水面が割れ、光やドライアイスのような煙があふれ、なんだかよくわからない効果音やファンファーレのようなモノさえ聞こえてきた。
そうして女の子は池の真ん中に立ち、呆然としている俺に泉の女神よろしく声をかけてきたのだ。
「あ、あれ? なんか反応薄くない?」
こうして話しかけられる今となっては、自分自身の目で見たことそのものが疑わしくなってくる。あの子は本当に池の中から出てきたんだろうか、幻覚でも見たんじゃないのか、と。
むしろ最初からそこに立っていたと考える方が自然な気がする。女の子の髪や服装は濡れていないし、池の中で待機していたとは思えない。
夕陽は木々に遮られて池はすっかり暗くなっているが、女の子の姿はよく見えた。女の子の回りは妙に明るい。ライトアップするような設備もないし、街灯もそれほど多くないはずなのに、だ。
そういえば、あの辺に足場になるようなモノってあったっけか……?
そこまで思い至って、はたと気づいた。
落としたメガネを回収しなければ。
「もっしもーし! ねぇ、聞こえてる?」
そのメガネというのは、実は俺のものではない。客からの預かりものだ。
かくいう俺の家は、メガネ屋だ。
さびれた商店街の中にある個人経営の小ぢんまりした店。店主は俺の父親。昨今の不況が影響している、かどうかは知らないが、経営状況はかなり厳しい。
なので、客からの預かりモノをぞんざいに扱うことなどもってのほかだ。まぁ、その辺は経営状況がどうとかいう以前の問題だが。
「無視しないでよぅ! お願いだから!」
「さっきからうるさいな!? こっちはそれどころじゃないんだって!」
「やっと反応した」
「あ……しまった、関わり合いになりたくなかったのに……」
「ひどいっ!」
女の子は、メガネを持ったままの両手で顔をふさぐ。そのメガネのレンズは、手にも顔にも触れていない。器用なもんだ、と思わず感心してしまった。
「聞いていいか? なんで巫女服?」
「なんとなく神様っぽいかなぁって」
「神様って巫女服着てるもんなのか?」
「さぁ?」
で、カミサマってなんだよ? と思わず聞きそうになってあわてて飲み込んだ。
なんとなく、触れてはいけないところのような気がする。
「しかしまぁなんというか……でっかいな」
「ン?」
「大きいことはいいことだ!」
「えっと……」
「つまりおっぱいが大きい!」
「うん? こんなのがいいの?」
「自分でもむな!」
ツッコミを入れつつ、改めて目の前の女の子を見てみる。
両手にそれぞれ金ブチ銀ブチのメガネを持っているのはさっき言ったとおりだが。
目立つのはやはり髪だろう。長く伸びた銀髪を首下で結わえている。色に関しては少し自信がない。透き通るような白色だから、光の加減で銀色に見えているのかもしれない。
顔は、とてもかわいい。
スタイルは、非常にすばらしい。実に見事な女性的凹凸。
おっと、ダメだ。こんな風に無遠慮な視線を向けるのは失礼だな。いまさらだけど。
それに、落としたメガネのことを忘れている。漫才をしている場合じゃない。
「ああ、くそ。メガネどこ行った」
「メガネメガネ……」
「うるせえよ」
「ちょ、ひどくないそのツッコミ!?」
女の子の非難がましい声を無視して、足下の池の中をすかし見る。こっちはそれどころではないのだ。
陽はもうほぼ落ちているし、街灯も離れた位置にあって水の中まで光が届いていない。つまり何も見えない。真っ黒な水面があるだけだ。
「くっそ、手探りで探すしかないか……?」
このあたりの水深は膝下程度だったはず。やってやれなくないだろうが、水に入るのはさすがに寒い。4月も半ばにさしかかろうという頃だが、夜になればまだまだ冷えるのだ。
「しょうがないか……俺の不注意だったしな」
覚悟を決めて靴を脱ぎだすと。
「あなたが落としたのは金の……」
「チガウ」
「正直者のあなたには……」
「イラネエ」
「ひどい! せめて最後まで言わせて!?」
「客から預かったメガネを勝手に金ブチやら銀ブチに変えたら怒られるだろうが!」
「えー」
「えーじゃねえよ……」
思わず溜息が漏れる。関わりたくないとは思っていたが、ここまで疲れるとは想像もできなかった。
とにかく、池に落としてしまったメガネを拾わなければ。
そう思って手すりに手をかけると、女の子はいつの間にか俺の横に立っていた。
「え? あれ……」
元いた場所と今いる場所を交互に二度見してしまう。
「いつの間に……」
「はい、これ」
そう言いつつ差し出してくれたのは、金ブチでも銀ブチでもない、俺が池に落としてしまったメガネだった。
「それでいい?」
「あ、ああ……ありがとう?」
「どういたしまして」
メガネを受け取ったとき、俺はそんなに間の抜けた顔をしていたのだろうか。
女の子は屈託もなく笑っている。
なんだ、案外素直な子じゃないか。
にこにこと笑っている女の子を見て、俺はそんなふうに感じた。
最初はメンドクサそうだと思ったけど、付き合い方さえ間違えなければそれほど苦になることもないかもしれない。とはいえ、人にあわせて付き合い方を変えられるほど器用でもないが。
ま、それはさておき。
そろそろ離脱しないと面倒なことになる予感がする。
そう思って口を開いた。のだが。
「ね、さっき客のメガネって言ってたけど、もしかしてメガネ屋さんなの?」
オゥ、シット。タイミングを逃してしまった。
無視して逃げる選択肢もなくはないが、池に落としたメガネを拾ってもらった手前、それもはばかられる。
「……そうだけど。まぁ、メガネ屋なのは父親で、俺は手伝ってるだけだが」
「へー、メガネ屋さんの息子さんかー。そのわりにはメガネかけてないんだね」
「どんな理屈だ。そもそも俺、視力悪くねーし」
「だってメガネ屋さんなんでしょ? だったら自分でもかけてなきゃ。伊達メガネだってありだと思うの」
「偏見だろ……そっちは?」
「あたしは神様」
「……は?」
「メガネの女神様ってところね!」
一瞬、この子が何を言っているのかわからなかった。
耳から入ってきた言葉を頭の中でくるくると回し、反すうしてどうにか意味をつかもうとする。
何秒かその作業をくり返して、ようやく理解することができた。
「ああ……お脳がかわいそうな人なのか」
「ひどっ!?」
「おっと、思わず口に出してしまった」
「わざと!? わざとよねそれ!?」
なんだろう、この打てば響くようなボケとツッコミ。初対面とは思えないノリの良さ。こちらのネタ振りに、戸惑うそぶりもなくついてきてくれるのは嬉しいものだ。
内心では少し楽しい気持ちが出てきている。
これで自分のことを神様だとか言いださなければ完璧だった。
「じゃ、俺はこれで」
「スルーした上に放置プレイ!?」
「いや、いくらなんでも神様て。ボケるにしても、もうちょっとこう……」
「ボケてないから!?」
「いやそれ、もっと悪いだろ……自分で変人ですって言ってるようなもんだぞ」
「へ、へんじん……」
あ、本気でヘコんでる。
「あたし神様だもん、変"人"じゃないもん……」
今度はいじけた。
やっぱめんどくせーなこいつ!
「変人でも変神でもなんでもいいけどさ。俺、そろそろ帰るから。お前も気をつけて帰れよ。じゃな」
背を向けて歩き出そうとすると、服のすそをつかまれた。
「……なに?」
「謝罪」
「は?」
「謝罪をよーきゅーする! 神様に対する数々の暴言、ばんしにあたいするぅー!」
「ああ、ごめん」
「素直に謝られると、逆にむかつくのよぉ!」
「どーしろってんだ……」
「メガネかけて」
「……は?」
「メガネ、かけて!」
「……言ってる意味がわからん。なんでそうなる」
どこから取りだしたのか、女の子はメガネを差し出してくる。そのメガネはさっきの銀縁や金縁ではなく、シンプルなフレームレスのものだった。とりあえず相手にかけさせようとするなら、無難な選択だと言えるだろう。
「どこに持ってたんだそんなもの……ってか、さっきのメガネはどうした」
「細かいことはいーのよ! ほらこれ! かけて! はやく! 今すぐナウ!」
「なんでだよ! つーかなんなんだこれ、罰ゲームか何かか!?」
「あなた、メガネ、かける。あたし、シアワセ」
「カタコトになるな! 断る!」
「なんで!? どーして!? ほわい!?」
「その必死さがなんかイヤ」
「ひどい! 謝罪の代わりにかけてくれるだけでいいのに」
「だからちゃんと謝っただろ」
「そんなの知らない、聞いてない!」
「カミサマを自称するヤツがウソついていいのかよ!?」
じりじりと後ずさりをするが、女の子の方もにじり寄ってくる。いつでも逃げ出せるように身構えているのだが、なかなかそのスキが見つけられない。
仕方ない、あまり通用するとも思えないが。
これでもくらえ!
にらみ合わせていた視線を、すいと女の子の背後に投げかける。
「あ、メガネのイケメンが歩いてる」
「えっ、どこ!?」
女の子が振り返るのを見た瞬間、身をひるがえして一気に走り出す。
「逃がすかぁっ!」
「なにぃっ!?」
トップスピードにのる前に、背中から抱きつかれた。
転倒こそ免れたものの、崩れたバランスを取り戻すのが精一杯で、それ以上走ることもできなかった。
女の子1人にのしかかられた程度で動けなくなることはないが、そもそもその当人から逃げようとしているのだから、動けたところでくっつかれていては意味がない。
「は、はなせ!」
「いや! メガネかけてくれるまではなさない!」
「だからそれは断るって言ったろ!」
「ちょっとだけ! ちょっとだけだから!」
女の子はほとんど変質者のノリで、ぐいぐいと体を押しつけつつメガネをかけさせようとしてくる。
当然ながら、背中にやわらかい感触があるわけで。
「む、胸があた……あたって……」
「ん?? なんのことかな、フフフ」
首にからみつく腕を引きはがそうとするも、背中の感触に気を取られてうまくいかない。
「ほらほら、どうしたの?? 抵抗が弱くなってきてるよ??」
「ぬああ、ひ、卑怯者めぇ……この俺がこんな、こんな……」
まずい。
非常にまずい。
女の子にここまで密着された経験など持っていない思春期の男に、この攻撃はあまりにも効果的すぎる。
背中に当たる柔らかさもさることながら、首筋に組み付かれた腕のしっとりした肌の感触、そしてなにより鼻孔をくすぐる女の子の香り。石けんなのかシャンプーなのか、それとも異性特有のフェロモンなのか。
このまま押し流されてしまいたい欲求と、どうにかそれを押し止めようとする理性のせめぎ合いが、ここまではっきり知覚できるとは想像もできなかった。
「ほらほら、もうすぐ入っちゃうよ? 抵抗しなくていいの?」
女の子が持ったメガネのテンプルが、耳を目指して近づいてくる。
ええい、誤解を招く言い方を、と思いはするものの、ツッコミを入れるほどの気力もすでになく。
「よ、よせ……!」
メガネが顔にどんどん近づく。
「や、やめ……」
背中に柔らかい感触。
首筋にしっとりした腕の肌。
耳にかかるくすぐったい吐息。
「うふふふふふえっへっへ」
「やめろォーッ!」