第八邪
おれは洞窟の暗闇の中、一人歩いている。
初めて来るにもかかわらず、危なげない足取りで洞窟を進められている事に、少しだけ疑問を感じながらも、誘われるように足を進めた。
アザトゥルス様はすでに洞窟を抜けている。今頃は勇者様と合流して戦いを始めていることだろう。
洞窟の中に入っていく姿は見られていない。
広い場所に出た。
篝火に照らされて、周囲の状況がよくわかる。
そこにはグルルルと唸り声を上げる、肌の赤い、角の生えた化け物がいた。
そこで、そいつは見るからに死んでいると思われるゴブリンと抱き合ったまま蹲っている。
体を上下に揺らし、謎の行為を行っているそいつに、おれは恐る恐る声をかけた。
『■■■■、■■■■■■■■■? ■■■■■。』
不思議な声が出た。
高いとも、低いとも言えない、例えようのない変な音。それが意味ある言葉のようにおれの口から流れ始める。
『■■■、■■■■■■。』
何かの名前を言った……のか?
ク……ト……ゥーガ、少しだけ発音が違う。
いや、さっきからおれはどうしたんだ。
おれの意思に反して体が動く。
口が動く。視線が動く。
まるでこの体が自分の物ではないのではないかとの錯覚を覚える。
ゆらりと、鬼が立ち上がるのを視界に捉えた。
いつしか、おれの意識は微睡みの中にあった。
他人事の様におれはそれを見ているしかない。
化け物は、不思議な様子をしていた。
抱き抱えていたゴブリンを足元に転ばせ、髪の毛から真っ赤な炎が噴出し、目を見開いて警戒を露にしている。
しかし、その表情の奥に見えるのは、恐怖の感情。
『■■■■■■■■■■■■。』
おれはそんな表情に疑問を感じると共に、愉悦を感じた。
『■■■■■■■■■■、■■■■■■■■■。』
(クトゥーグァの眷属は、いいオモチャになる。)
声の意味が理解できた瞬間、おれの体が膨れ上がる。
人間としての体はすでに原型をなくし、すべてはウネウネとした奇怪な生物の触手に変わる。
自身の肉体の喪失にさえ、悲しみや疑問を感じない。
まるでこの体が本来のものだったのではないかと思えるほど、自然に扱える。
膨らんだ体は洞窟の天井にまで拡がった。
自分の体を見れば、もはやそれが何なのか形容できない姿。伸縮と膨張を繰り返して常に同じ形を持たず、肌は混沌とした奇妙な色を常に変貌させる。
そんなおれの巨大な姿を、化け物は見上げていた。
いや、もうそれは適切な表現ではない。
巨大な姿をした化け物は、ちっぽけな存在を見下ろしている。
化け物であるおれは、数百の目玉の焦点をそれに向ける。
そして、幾つかの能力を発動させた。
『記憶の解放』『精神汚染』『思考超加速』『正気度固定』『混沌の悪夢』『魂の捕食』
「ーーーッ」
小き者は、声なき悲鳴を上げた。
忘却していた記憶さえ思い出させ、それらを悉く陵辱し、時間を遅く感じさせてじっくりとそれらを味わわせ、狂うことを許さず、終わりの目処さえ立たない魂の悪夢として固定する。
そして、苦しみ抜いている最中の、新鮮な魂を食らった。
芳醇で、且つ吐きそうなほどの刺激を持ち、人生の幸せだった記憶を軒並み苦しみに汚染された魂は酷く癖が強い。さらには、この魂は過去に虐げられた記憶を元々保持していたので、いつにも増して格別。
それが仇敵の眷属なら尚更気分が良い。
偶然見つけたとはいえ、良いグルメを堪能できた。
さて、そろそろ戻らなければアザトゥルス様が戻ってきてしまう頃合だろう。
まだまだおれには利用価値があるのだから、ここで躓くのは面白くない。
体を元に戻し、ルドフの体を構成する。
その際、先ほどから気になっていた周囲に散らばっている骨に手をかざし、元の形を取り戻させる。
出来上がったのは損傷した五体の骸骨。
ゴブリンを退治しに来て返り討ちに逢い、死んだおれとその仲間たち。
何の感情も湧かないまま、それを見ているとおれの口と体が勝手に動いた。
「今回はサービスですからね。クヒッ」
組み上げられた骸骨を遠くまで蹴っ飛ばしてからおれは洞窟の外へと駆け出した。
洞窟から出て、すぐ近くの岩場から、アザトゥルス様の向かった方角を覗くと、ゆっくりとした足取りで彼らはこちらに向かっているところだった。
◆◆◆
「かはっ……。う、ううううっ! おぇーー」
食べた物が全て吐き出される。差し出される水を飲んで胃の中の者を全て洗い出そうとしても、嘔吐感がなくなることはない。
体全体がガクガク震える。
恐怖感が収まることを知らず、何とかして冷静さを取り戻そうとするも、近くにそれが『居る』のではないかという気がしてならない。
落ち着かせようと優しく肩を掴んでくれる手を振り払い、ワタシはその手が誰の者であったかをようやく思い出していた。
そして、この場所が一体どこであるのかも。
「も、申し訳御座いません!! 魔王様!」
「良い。それよりも何があったかを落ち着いて話せ。」
羞恥と焦燥がこの一時に集中し、ワタシは若干の冷静さを取り戻す。
まさか、自らの王に自分の吐瀉物の世話と水差しの用意をさせているとは夢にも思わなかった。
いや、冷静になれば当然の事ではあるのだ。
この部屋にはワタシと、魔王様しか居らず、魔族の誰にも入室を許可していないのだから、混乱の極みにあったワタシを世話する者は、一人を置いて他になかったのだ。
努めて心を鎮め、今あったことを話そうとするも、……うまく言葉にならない。
ワタシが観たアレを思い出すには抵抗が大きすぎる。
しかし、以前魔王様の話に出ていたアレが出てきたのなら、報告しないわけにはいかない。
すっと、深く呼吸をして姿勢を正し、跪いた姿勢で魔王様の目を見つめる。
「……作戦は、勇者の到来により失敗しました。魔物軍は壊滅です。そして、……そし、て……。ううぅ……」
疲弊した心では、涙を押し止めることが出来なかった。
ボロボロと溢れる涙と嗚咽を止めず、最愛の存在の消滅を告げる。
「我が、兄『熱鬼のグラト』……及び、『冷鬼のニート』は、……死亡、致しました。」
常にあったはずの魂の繋がり。
それが無くなったことによる寂しさ、悲しさが胸に湧き上がる。
ずっと一緒だと思っていた、最愛の兄。
角が短く、魔法も怪力も持たない妖鬼の中のはぐれ者だったワタシを、大事な妹だと言ってくれた優しき兄達。
一族の大人から殺されそうになった時に、守ってくれた強き兄達
そんな兄達は、ワタシが一族から追放された時、一緒に来てくれた。
自分達は頭が悪いから、ワタシの頭脳が必要だ。なんて言って。
ワタシ達はいつも三人で一人だった。
機転の利くワタシが指示して、怪力を持たないニート兄さんが魔法で翻弄して、魔法の使えないグラト兄さんが怪力で倒す。
魔王軍に入れたのも、ワタシ達の強い絆があってのことだった。
この、『意識を共有する力』を得て、その繋がりはもっと強いものになると思っていたのに……。
ワタシはたった一人だけ残されてしまった。
兄さん達に守られて……
最後に観たのは、ニート兄さんが共有を使ってグラト兄さんに繋いだ時。
グラト兄さんは、アレに対面していた。
周囲を覆う形容しがたい生物。
蠢めく無数の触手が洞窟の壁を這い、それを目にしたグラト兄さんの意識はどうしようもなく怯えていた。
そんな中で、共有が行われたことを知ったグラト兄さんは、その意識からワタシとニート兄さんを押し逃した。
離れていく意識の中で、アレの無数の目が兄さんを向いた。
ニート兄さんは、怒りと嘆きに我を失い、共有を切り離してそれっきり……
そして今、両者との共有が無くなっている。何度繋げようとしても届く気配がない。
気絶や睡眠ではない、完全なる意識の消失。
それは、死だった。
ニート兄さんがあの後どうなったかは分からない。
不死身のニート兄さんが、あの程度の勇者に負けるとは信じられなかった。
考えられるとするなら、アレに殺されたか…。
あるいは勇者の従者に倒されたのか。
……そういえば、あの人間はグラト兄さんと最初に相対した者ではなかったか。
そんな考えに至った瞬間、血の気がすっと引き、冷や汗が背中を伝う。
まさか、あの人間の正体は……。
もし、そうだとしたらーー
「あの二人が勇者に敗れるとは考えられない。……何かの間違いではないか?」
涙と嗚咽が止まらないワタシの背中を撫でる魔王様は、ワタシの報告を信じきれないようだった。
「魔王様……まず、兄さん達を殺したのは勇者ではありません。」
「……なんだと?」
「おそらく……、あ、アレは……、アレは!!」
姿形を思い出すだけで寒気が走る。まるで全身が膿んでいるような錯覚を感じ、思わず髪の毛をガシガシと掻き毟る。
思い出したくない、言いたくない、その存在を言葉にしたくない。
だが、ワタシは言わなければならない。
ーーこのままでは、魔王様が危険なのだ!!
「アレは、『無貌の神』です。アレは今、勇者と共にいます!!」
私の言葉に魔王様の顔色がみるみる悪くなる。
『無貌の神』は、ワタシ達、『十三阿修羅』が契約した神々の天敵。
星々を軽く破壊できるほど強大な存在であり、混沌とした空間を好んで作り出し、我らが神々の眷属を弄ぶことに愉悦を感じる、考えうる限り最悪の邪神。
その邪神は、時として人の姿を擬態し、黒い長身の人間へと姿を成すことが多いという。
それを教えてくれたのは、他ならない魔王様自身である。
「……ハスト、一度休むがいい。お前は短時間で色々なものを一気に失った。心を落ち着かせてくるのだ。」
頭を押さえながら、魔王様はフラフラと自らの席へと座る。ここまで憔悴した姿は初めて見た。
多分、さっきのワタシより酷い……。
「……はい。魔王様もどうか御心安らかに。」
「分かっている。」
魔王様に促され、ワタシは部屋を退出する。
その際、魔王様が一冊の本を強く握りしめているのが見えた。
あれは、十三阿修羅が神の力を得るための方法が記された魔道書。
この世界のモノではない、外なる神々の存在が記載された出自不明の書。
その書のタイトルは確かこんな名前だったはずだ。
『エイボンの書』(訳:アイゾウ)
◆◆◆
赤妖鬼は白目を剥いて気絶している。
周囲に感じるよく知った濃厚なアノ匂いに、俺の表情筋は歪んでくれた。
まさか、こんな結末になるとは思わなかった。大爆笑だぜこれは!
リリスが赤妖鬼の首を刎ねて止めを刺しても、俺の笑いは収まらない。
くくくくくっ。こんなことってあるんだなぁ。
まさか……、まさか……ぷぷ。
『テクノブレイク』して気絶するとか!!
どんだけこの短時間でヤッてんだ。プギャー
これにて、プロローグの章が終わりです。