第三邪
ルシファー・アザトゥルス
魔王として名を冠していても不思議ではない程に、どこか強烈な印象を受けるその名の持ち主は、30にも届かぬような、若い人間の男であった。
妾はこの男に救われ、命辛々に裏切った魔王軍の幹部より逃げ延びる事ができたが、正直のところ、この男の能力には期待できるものはないと思っていた。
生き延びる為、再び再起を図る為の足掛かりの一つでしかないとそう軽く考えていた。
何せ、こやつは唯の人間。
幾度も修羅場を潜り、15年の傭兵生活、5度の戦場に立ったと言えど、その能力は勇者と呼ばれる人間の暗殺者や聖人といった化け物と比べれば、妾を少しでも傷つける事さえ出来ない脆弱な人間である事に変わりはない。
同時に、妾を裏切った魔王軍の幹部との戦闘でも、こやつが役に立たない事は明確だった。
そんな印象が変わったのはいつだったか……。
ふふ、そんなことを考える必要はないの。あれほどの衝撃を忘れるはずがない。昨日のことのように覚えている。
ルシファー・アザトゥルスは、見たこともない技で元部下である魔族の一体を打ち滅ぼしたのだ。
神剣、聖剣、魔剣といった特殊な武器でもなんでもない。
拳ひとつで、それをやってのけたのだ。
無論、それを成し遂げるのに正々堂々、一対一の決闘形式ではない。
あらゆる罠を周到に仕掛け、それらを効果的に発動させるような回りくどい戦いであった。
痛々しい姿になった妾の元部下の最期は、ルシファーという脆弱な人間の拳により、文字通り粉砕された。
妾は思う。あの様に罠を廻らせ弱らせずとも、ルシファーならばあの拳で同じ結果を出せたのではないだろうかと。
ルシファーに対する、脆弱な人間というイメージは払拭された。妾や現在魔王を名乗っている裏切り者の舞台に立てるとまではいかんが、それでも現状一番頼りになる存在だと思えた。
……いや、誤魔化しは止しておこう。
ルシファーは、叡智を持って我らの実力に到達し得る傑物だと確信している。或いは、隠し持っている実力を出せばそれ以上ではないかとさえも……
魔族との戦闘とて、幾重にも渡る罠を全て食らわせて見せた。未稼働の罠をひとつも残さずにだ。
それはまるで引っかかることが、運命で有るかのように思えた。この男は未来を予知できるのではないかと戦慄さえ覚えた。
彼奴は、……元部下であったからこそわかる。
自身に満ち、蹂躙することが自らの存在意義であると豪語する雄が、ルシファーの前に立った時には、キョロキョロと周囲に怯え、小さな物音にすら反応を示す、まるで虐待を受け続けた子犬の様な姿に幻視できる程であった。
無様でボロ雑巾の様に、情けない姿。
同情してしまいたくなるほどの様子に対し、ルシファーは嗤った。
傲慢で、不遜で、悪辣で、卑怯で、残忍なその男は、いつもの様な無表情を大きく崩して嗤っていた。
その姿は、歴代最強と名高い妾の父の様子に酷く似ておった。
弱肉強食の世界で最上に立つ者の姿。
全ては些事であるかの様に振る舞い、事実それを圧倒する力を持った存在。
ちっぽけな人間だと思っていたその男が発するその覇気に、しばし魔族が飲まれる。……不覚ではあるが妾もその一人であった。
そして、彼奴は逝った。
妾の知覚でさえ何をしたのか分からぬ。
捉えられたのは、ルシファーの真っ直ぐ放たれる拳で、奴を穿ったところまでだ。
拳に打たれ、元部下であったモノは、瞬間的に原型すら留めることなく爆ぜた。
どれが、どの部分だったかさえ分からぬほど、部位を構成するあらゆるパーツが破壊された。
少なくとも、足元に散らばった角ついたものが、彼奴の牙だったのか、破壊された骨だったかすら判別は出来なかった。
魔力を感じさせなかった、原理すら分からぬ未知の攻撃。
もし、あの拳が妾に向かっていたならば、それに耐えられたかどうか、自信がない。
見るとルシファーは、至近で破裂した魔族の血の雨を、両手を広げた格好で体全体に浴びていた。
何故わざわざ血に濡れるような真似をするのだと、川で体を洗うルシファーに問いかけると、あの男はこう言ったのだ。
「懐かしかったから。」
一体、どのような環境で育てば、血に塗れることが懐かしいなどと言えるのだろう。
ルシファーは、それ以上続けてはくれなかったが、彼奴の出自を少し垣間見た気がした。
無論、垣間見た事で分からぬ事ばかりが増えたのだがな。
なんにせよ、実力を持っているにも関わらず名を上げようとしないルシファーだったが、恐らく奴は、自らの出自を隠そうとしているのだろう。
価値観も不透明で掴みどころがない。
何を考え、周囲をどのような目で見つめているのか。
まるで果てしない命題のように思える。
妾はルシファーという男に興味を抱いた。
何を好み、何を嫌い、そして何に愉悦を感じ、何を楽しみに生きておるのか。
言葉少ないこの者に、それら全てを問うのには時間がかかろう。しばらくこの者と行動を共にすることに決めた。自らの意思で。
魔王を討ち滅ぼす暗殺者、勇者として妾は名を上げたときも、従者は幾人も選ぶことができたが、選んだのはこの男だけであった。
そして、今に至るまで数々の武勲を上げている。
妾の目に狂いはなかった。否、それさえ寧ろ過小評価に過ぎているとさえ思えた。
街の宿に泊まったときは、非常に注意深くなり、妾が夜襲の警戒をする手間を省いてくれた。
妾が寝静まった時に、あの者は静かに街へ繰り出していったこともある。
妾が酒を飲んだ時、強い意志を携えて私を待たせ、どこかへ行ってしまったこともある。
奴のそんな単独行動に興味を惹かれて一度尾行した時には、およそ20人もの敵を一人で蹂躙しておった。
その中の一人がしぶとくも辛うじて生きており、勇者を見張っていたと語った時に、妾は全てを察することができた。
恐らく今までも、外出の度に何者かと戦っていたのだろう。……妾を守るために。
その忠誠が、勇者の従者としての責任感か、それとも別の感情か。
問いただしたくはあるのだが、積極的に聞くにはどうにも及び腰になる。
もしも責任感と答えられたなら、妾はどんな顔をして良いか分からないのだ。
はぁ、まさかこんな感情が生まれてしまうとは夢にも思わなんだ。
魔王たる妾が人の子に恋をしてしまうなどと……
◆◆◆
魔王軍の実力者と仮定したのには幾つかの理由があるが、正直のところ人質がいるというのは薄い理由の予想でしかない。
そもそも、ゴブリンは知性が非常に低い。
ゴブリンリーダーにしても、その知性は話ができる、理解ができる。その程度であり、深く物事を考えるのは苦手なはずなのだ。
今回のように、逆襲の為にすぐに打って出ていない姿勢が、特にリーダーの思考に不釣りあいだ。
ゴブリンは感情を重んじる。
考えることより行動することを好むのだ。そして、今回は怒る場面。仲間を殺されて怒らないリーダーは喋る知性があれど、周囲が離れていく理由となる。
もはや、そいつは仲間を率いる資格を失うのだ。
ここらの光景を見るに、仲間の死体と襲撃者の死体を運ぶ指示を行ったものがいる。これはリーダーの指示で間違いはない。
奴がまだ仲間を失っていないことの証明だ。
この状況で、逆襲を仕掛けることなく、且つ仲間からの信頼が離れないという理由は、ゴブリンリーダーの上位となる存在から、攻撃をするなと厳命されたからだろう。
ゴブリンの上位種となると、ホブゴブリン、オーガ、妖鬼、鬼と大別して四種が存在する。
ボブとオーガはゴブリン以上に馬鹿で感情的だから、ありえない。では妖鬼か鬼となるが、鬼はこの国、ひいては魔王軍に存在しない。あいつらはどちらかというと、人間に滅んで欲しくない側だから、消去法で妖鬼ということになるだろう。
単純な鬼と比べて腕力は少ないが、人間以上に知恵が周り、そして何よりも魔法の扱い上手い。
数は少ないものの、奴らが恐れられているのそこに起因する。
力も体力も魔法もある。
特筆した目立った能力はないが、それら全てがバランスよく人間より高いため、弱点がないのだ。
知恵を回し、意表を突いても実力で跳ね除けられるというのは、奇策を使う策士にとってこれ以上手強いものはない。
そして、人間とそれなりに力が拮抗する事があるので、人間に対して油断も少ない。
俺が軍のトップで、指揮官職に据え置くものを選ぶなら、間違いなくこいつらを指揮官に選ぶ。
油断なく全体を見渡せる妖鬼なら適役だからだ。
現魔王がどういった男かは知らないが、リリスを罠に嵌め、なおかつリリスの直属部下も含めた軍がそいつに従っているのを見ると、優秀な策謀家である事は間違いない。
そいつが企む最高の状態を想定するなら、ここに軍の一端が居ても不思議ではない。
本来なら街と街を繋ぎ、経済の発展を行うための新しい街道に、敵軍から指揮された亜人がいるとは誰も思わないからだ。
そして、それを先んじて討伐をされないために敢えて隠れ村との激突を避けている。
そう考えると、あの村の現状は知られていると考えていいかもしれない。あわよくば、あの村を利用する事ができるだろうしな。
兎も角、それらの仮説はあの洞窟の中に、魔王軍の妖鬼がいる事が前提の妄想でしかない。
まず、それを確認。
リリスに討伐してもらって、考える時間を作ろう。
妖鬼の見た目はかなり人間に近いし、細長い角が頭から伸び、目元に赤い刺青のような線があるのですぐ分かる。
火を放って誘き出したいところだが、人間の人質がいた場合、次の手に困るから却下だ。
つーことで。
「リリス。聖剣を持っていろ。」
「む!? ならば、勇者としての出番か。」
「いや、そいつは飾りだ。」
いざとなったら、俺が聖剣を握らなきゃならねぇからな。今からやる、たった今思いついた作戦が失敗すれば、こいつに丸投げだ。
人質諸共吹き飛ばさないといけない。
リリスは、自らの胸の中心を抑え、そこに柄があるかのように、握りしめるとソレを一気に引き抜いた。
汚れひとつない白銀の剣。その刀身からは、ほのかに青く、力強い魔力を帯びている。
しかし、それは禍々しいものではなく、どこか神聖さを宿した魔力だった。
やばいぜ。俺、人間なのに、汚れまくってるせいで肌が焼けるの様な違和感を感じるわ。
ちなみに、魔族はこの光に当てられるだけで、弱いものであれば本当に焼ける。
高位の魔族であっても、弱体化は免れることはできない。
洞窟が騒がしくなる。
当然、奴らもこの聖剣の漏れる魔力に気付いたのだろう。そして、それにより俺は確信する。
ゴブリンだけでなく、魔族もあの中にいるのだと。
「先に行くぞ、リリス。」
返事を聞かず洞窟の中に駆け入る。
体をろくに洗わないゴブリンの体臭が洞窟中に充満して酷く臭い。
周囲も薄暗く、嗅覚と視覚を奪われた様な状態だが、問題ない。
暫く行くと篝火の明かりが目に付いた。
その周囲に小さな人影がある。
ゴブリンだ。
見えるだけで3匹。それくらい俺の敵ではない。
文字通り蹴散らせて洞窟の先へ行く。
そして、松明や篝火で周囲を囲んだ広場に出る。
そこは、集会場の様な、はたまたどこかの闘技場の様な、そんな構造をしている。
俺を扇状に囲む数十匹のゴブリンの真後ろ、全てを見下ろせるような形をした岩のてっぺんに、そいつが居た。
「なんだお前は、上にいる勇者の仲間か? おい! こいつは誰だ!!」
「ぐっ……、知らない。……見た事がない男だ。でも、恐らく、最近現れた勇者の従者ではないか?」
背の丈は2メートルをゆうに超える偉丈夫。
少し赤みのある肌と、顔の半分程度の長さをした、長く細い角が2本その額から伸びていた。
妖鬼である。
そして、薄汚れているが、所々色鮮やかな服を着た瘦せぎすの人間の男が、その大きな腕に掴まれている。
人間の男は明らかに怯えた様子で、目で助けを呼んでいるのが分かる。
なに、その為に急いで来たのだ。
周囲にいた多くのゴブリンが、俺に向かって一斉に駆け出してくる。
相手をしている暇はない。妖鬼の腕があの男を絞め殺すのは時間の問題だ。
「ほう、勇者の従者か……。ならば上の勇者がそれに間違いはないだろうな。お前は運がいい。本来なら勇者が出張ってくるなら全てはご破算だ。お前は用済みで、俺は退散していただろう。」
ゴブリンの臭い体に接触する前に、俺は壁を蹴る。蹴って、蹴って、蹴って。壁を駆け上がる。
そして、妖鬼のいる大岩に到着した。案外広い場所なんだな。
「勇者の従者よ。……残念だったな。お待ちかねの、勇者はここに来れない様だぞ。」
「む。」
そういえば、先に行くって言ったのに全然ついてきてなかったな、リリス。一本道なのに迷ってんのか?
「そして、一縷の望みを持って来たのかもしれんが、お前にオレは倒せない。人間、オレをただの妖鬼だと思うな。普通の妖鬼なんかとは……格が違う。」
人質を殺しもせず、背後に突き飛ばす妖鬼。
あ、腕が変な方向向いてら。折れてるなあれ。
俺も呑気に構えてはいられない、静かに構えを取る。
「言葉は不要とでも言うのか。その意気や良し! 人間の格闘家が、妖鬼たるオレに挑むとは、中々に剛毅ではないか! 気に入ったぞ。」
正直、俺がこいつに直接戦闘で勝てる確率は非常に低い。何発か当てても、体力的にこちらがジリ貧になるのは目に見えている。
だけど、当然俺はせーせーどーどー戦ってやるぞー。
「人間の力、思い知れ。」
◆◆◆
「先に行くぞ、リリス。」
そう言って、ルシファーは洞窟の中へ侵入していく。
当然のように妾も共に向かおうとして、後ろから服を引かれている事に気付く。
「む、ルドフか。まだ逃げておらんかったのか。」
少し、叱りつける様な口調で妾は尋ねる。
この辺りは戦闘になる上、ルシファーと妾が共闘すれば恐らく一帯が被害を被る可能性が高い。
それ故に、道案内が終わったらすぐに村へ帰れと言っておいたのだ。
その言伝を守らない所業に、妾は少し苛立ちを覚えた。このままでは、ルシファーの活躍を見逃すではないか。
内心、すぐにでも駆け付けたいのを我慢し、目の前の愛くるしい童の言葉を待つ。
「……変なんだ。帰る途中、ゴブリンが沢山いる感じがした。怖くてたまらないんだ。」
ゴブリンを襲撃し、数匹を屠った男の子とは思えない震え様に、妾も少し冷静になる。
そして、気配察知を周囲に展開すれば、いたるところにその気配を感知するに至る。
「……なん……だと?」
洞窟を見た時には分からなかった多くのゴブリンの反応。いや、これはゴブリンだけではない、ホブゴブリンやオーガ、果てはサイクロプスの気配までも感じる。
無論、妾にとってそれほど脅威となる相手ではない。有象無象の集まり。手を一つ振れば屍となる、塵芥。
だが、妾が持つ聖剣が元ある力を制限する。
妾の闇の魔力は、聖剣の光に掻き消され、手に持つだけで霧散する。まともに使える魔法は数も威力も知れているのだ。
そして、更には近くにルドフという童がいる。
魔族の証明となる闇魔法のことが敵だけでなく、人間に伝わるのも非常にまずいのだ。
今まで隠匿していたのに、それをご破算にするのは良い事ではない。少なくとも、ルシファーは私に失望するだろう。言葉はなくとも、そう思われることが妾にとって耐え難いものだった。
ふと、ルシファーの言葉が頭を過る。
『先に行くぞ。リリス。』
あの言葉は、妾が遅れることを知っていたのではないか。ルドフが近付いていることも、周囲に敵が多く潜んでいるのも知っていたのではないか…。
『いや、そいつは飾りだ。』
妾が聖剣を取り出した時の言葉。飾りというのは、誰かに見せることで評価を得る。つまり、あの男は、妾の隠れ蓑としての、勇者の地位を確立させろという意味だったのではないか。
妾は勇者として、強力な魔物を倒し、人々の評価を得たことは往々にしてあった。だが、人助けの為に亜人を討伐した事はない。
亜人は一部を除き、言葉を話すものも多い。
奴らの言葉で、勇者リリスの名を知らしめるのは、真実味を出すのに効果的な作戦とも思える。
あわよくば、亜人だけでなく、魔族にも、勇者としてのリリスを知られることができるのではないか。
人助けを行う魔王がいるはずがないのだから。
「ふふふ。」
だとしたら、妾は一体なんだというのか。
ふと、そう考えて笑いが漏れる。ルドフが不思議そうな顔をするが、頭を撫でて誤魔化す。
まあ、よい。
妾が何だとしても、そんな事はどうでもよい。
兎角急ぐ理由ができたのだ。
「先に行かれてしまったのなら追いつかねばならん。妾が到着するまでに楽しみを終わらせてくれるな。ルシファー。」
ルドフを岩場に隠れさせ、ぞろぞろと現れた魔物の大群に、妾は聖剣を持って駆け出した。