第207話 人間が好きな女神
「おき……い……クロ……ド……」
暗い闇の中で、俺を呼ぶ声が聞こえいてくる。これは女神の声だろうか、なんとなくそんな感じがする。
俺はその声に導かれるように、うっすらと自分の目を開けた。
「う……ん……ソフィア? 帰ってきてくれたのか」
「ソフィアってだれよ?」
「!?」
寝ぼけた目をこすりながら周囲を確認すると、俺が寝ているベッドの横でクローディアが俺のことを睨んでいた。
「え、エリカか……すまない、寝ぼけていた」
「ふーん……」
疑いの目を向けてくるクローディアに向かって、俺はなんとか誤魔化す。
彼女はまだなにかを言いたげだったが、俺の上の掛け布団をそっとまくり上げた。
「じっとしていなさい」
「つめたっ! なにをしているんだ?」
クローディアは俺に語りかけながら、俺の体に冷たいなにかを塗りたくる。
「霊草の塗り薬よ、私が泊まっていた部屋にあったの。これで少しは魔力が回復するわ」
俺が取ってきたやつか。
クローディアはソフィアとトリアナの部屋に泊まっていた。この霊草の塗り薬とやらは、トリアナが作り置きしていたものなのだろう。
昨夜はクローディアに頼まれて、ここと北の大陸にある場所を繋げるゲートを作成していた。
ただでさえ残りの魔力が少なかったのに、体を酷使しての強行だ。おかげで一晩寝ても魔力が回復しきってはいない。
「なんか、体がスースーする」
「霊草の効果が出ているのね、すぐに魔力も回復し始めるわよ」
「そうか」
彼女の言う通り魔力が回復しているのか、俺の体がだんだんと熱くなってくる。
トリアナは人間には使い道がないようなことを言っていたが、俺には効くのか。
「ずいぶんと元気ね」
「ん?」
どこか呆れたような口ぶりのクローディアに視線を向けると、彼女は俺の下半身の一部を凝視していた。
「うわっ! こ、これは違う!」
「慌てなくてもいいわよ、ただの生理現象でしょ」
「そ、そうだけど」
確かに彼女の言う通り、これは朝の生理現象なので俺の意思とは関係ない。けれども下着を穿いているとはいえ、下半身がテントを張っている姿を異性に見られるのは恥ずかしすぎる。
「顔に似合わず、随分と立派なものを持ってるじゃない」
「か、顔は関係ないだろっ!」
今すぐにでもズボンを穿いて隠したかったが、まだクローディアは薬を塗っている。俺は羞恥心で顔を赤く染めながら、彼女のそれが終わるのをただひたすら耐えていた。
「終わったわよ」
彼女のその言葉を聞くや否や、俺は起き上がってズボンを穿く。
「それで、ソフィアってのはだれ?」
「う……」
急いでズボンを穿き終えると、クローディアはあらためてソフィアの事を質問してきた。
「えっとな……エリカ」
「クローディア」
「え?」
「二人っきりの時は、クローディアって呼んで」
「エリカじゃなくていいのか?」
俺は彼女の言葉に、少しだけ戸惑ってしまう。クローディアは彼女の前世の名前だ。俺も前世の記憶を持ったまま生きているけれど、クロフォードではなくクロードの名前で呼ばれたい。
「確かにそれは神であった時の名前だけど、あなたは覚えていないの?」
「なにをだ?」
「クロフォードとクローディア……これは私たちが前世でお互いに付けあった名前なのよ」
その言葉を聞いた直後、クロフォードの記憶が少しだけフラッシュバックする。
そうだ。俺がまだウラノスと呼ばれていた時に彼女と出逢い、お互いに神名を付けあったんだ。
「そうだったな……クローディア」
俺たちは深く愛し合い、生涯添い遂げると誓いあった。それはたとえ何が起ころうとも、決して離れ離れになったりはしないという約束。
その誓いを俺は裏切ったのか。
「すまない、クローディア」
「なによ急に?」
「俺はあの時の約束を……守れなかった」
「……こうしてまた、出逢うことができたのだから、もういいわよ」
神妙な気持ちで言葉にする俺に向かって、クローディアはあっけらかんと返事をする。
彼女もソフィアたちと同じく、大切な者と別離してしまったのだ。俺はこれまでに出逢った女神たちについて、あらためて詳しく話をした。
「なるほど。前世で妻だった女神の生まれ変わりか」
「あぁ。だからソフィアのことになると、俺は少しだけ行き過ぎた行動をしてしまうことがあるんだ」
「それは仕方ないわね」
「トリアナはずっと生きているけど、彼女も似たようなものだ」
「そっちの娘は呪印のほうが気になるけど」
トリアナについては彼女に掛けられている呪印についても説明した。アレのせいでトリアナは行動を制限されているらしく、俺としてはなんとかしてやりたかったからだ。
「そんな事をする聖王はたぶん……ルシファーの奴ね」
「ルシファー?」
「聖王ルシフェリア。それも覚えていないの? あなたの浮気相手じゃない」
「へ……?」
浮気とかしていたのかよクロフォード!
俺が心の中でクロフォードを非難していると、まるで弁明をするかの如く彼の記憶が思い浮かんでくる。
確かに妻に内緒でルシフェリアとは何度か会っていたが、クローディアが言っているようなことは何もしていない。
「その女って確か……あの魔王みたいなやつだろ? 全然クロフォードの好みじゃないぞ」
「魔王?」
「だってほら、真っ黒な羽つきのマントを羽織ってて、おまけに角みたいな髪飾りをつけてたじゃないか。どこからどう見ても魔王だろ?」
「ぷっ……あはははははは。魔王、魔王か。そうね、どう見ても魔王だったわね、あの女の格好は」
クローディアは腹を抱えて大笑いする、そんなに俺の感想がツボに入ったのだろうか。
「はぁぁ、可笑しい。そうね……あなたがもっと力を上手く扱えたら、アレもどうにかできるかもしれないわね」
「お前じゃ無理なのか?」
「私の力は戦闘に特化しているわ。できなくもないとは思うけれど、あなたのほうが確実よ」
「そうか」
クローディアがそういうのなら、俺の方でなんとかするしかないのだろう。クロエの話では監視まではされていないみたいなので、あまり急ぐ必要もない。
「ルシファーの奴が好き勝手動いているということは、まだあなたの後釜は決まっていないのかしら」
「後釜?」
「次の大聖王よ。あなたと私が死んでしかも人間に生まれ変わったのだから、代わりは必要でしょう。私としては、アストレアが一番相応しいと思うのだけど」
「アストレア様か……」
「アストレア……様?」
俺がぽつりとつぶやいた言葉を、クローディアは首を傾げながら反芻する。
「ねぇ、どうしてあの娘のことを敬称付けするの?」
「どうしてって言われても……ダメなのか?」
「だってあの娘は、あなたの部下でしょ?」
「そ、そりゃクロフォードだった時はそうだったかもしれないけど。あの女性は俺を育ててくれたし」
「あなたを育てた?」
俺はこの世界に送り出される前に、神界でクロエやアストレア様と暮らしていたことを話す。
「アストレアが……あなたの母親?」
「うん」
俺の話を聞いたクローディアは、なんとも言えないような微妙な表情をする。
「くっ、くくく……」
「な、なんだ?」
「だめだ……あははははははははっ」
「え? 笑うところか?」
「だ、だって。い、今まで聞かされた話の中じゃ、一番面白い話だったわよ」
えぇー……
クローディアはひとしきり笑ってから、そんな事を言う。彼女は笑いすぎて涙まで浮かべていた、そこまでおかしな事だったのだろうか。
「あの娘が母親、母親ね。はぁ……バカじゃないの? そこは普通恋人でしょうが、なんで母親役なのよ。私がいないのだから、チャンスだったでしょうに。あの娘らしいと言えばらしいけど」
クローディアは俺を放置してブツブツと文句を言い、一人でなにかを納得したようだった。
「もう私には関係ないけど、少し心配ね」
「神界や聖界のことがか?」
「それもあるけれど、アストレアのこともよ。あの娘は人間が好きすぎてちょっと変わっているから、度々聖王たちとも対立していたし」
人間の欲望は果てしない。力を手にした人間は、更なる力を求めて神々が住まう地まで攻め入って来ることがあった。
その人間を迎え撃つのは、戦乙女や神王と呼ばれる女神たちだ。神界に攻めて来る魔族や人間に遅れを取ることはなかったが、なかには人を信じるあまり人間に騙されて殺される女神もいて、それが大多数の女神たちが人間を嫌っている一因にもなっているそうだ。
そんな中で、アストレア様だけはいまだに人間のことを信じている。だからあの女神のことをクローディアは心配しているらしい。
「まぁ、今は気にしなくてもいいわ。そろそろ魔力も回復したでしょう? 昨日の続きをしましょうか」
「俺、起きたばかりなんだが……」
「一応私の分身体を創ってシアの護衛に付かせているけれど、それでもあの娘のことが心配なのよ」
「わかった」
北の大陸に居る聖女のことが心配だと言われたら、俺はなにも言えなくなってしまう。あの聖女はレティの姉だ、ならば俺も彼女のことをぞんざいには扱えない。
俺はまだ疲れが抜けきっていない身体にムチを打ち、クローディアのためにゲートの作成に入った。




