第140話 神界
胡蝶の夢というのを聞いたことがある。
遥か昔の思想家が、夢の中で蝶としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたのだが。
はたして自分は、蝶になっていた夢を見ていたのか。それとも今の自分は、蝶が見ている夢なのか。
たぶんこれは、黒斗あたりが知っていた知識なのだろう。
なぜこんな事を考えているのか。それは、今の俺の状況が、その人物によく似ているわけなのだ。
「ぎゃぁぁぁぁ――」
俺は叫び声を上げながら、広く長い廊下を走り続ける。
廊下といっても、人が住んでいるような屋敷の廊下ではない。
地面は石畳で出来ていて、けれども汚れているわけでもなく。今さっき磨いたように、ピカピカに光っている。
ここは外ではないし、かと言って、どこかのお城でもない。
神殿……といえばいいのだろうか。まぁ、そのような場所だ。
俺は必死になって、後ろから追いかけてくる化物から逃げている。
しかし自分の足が遅い。相手が速いのもあるが、自分の歩幅が狭くなっているのも原因だった。
最初は馴染めなかったが、しばらくここで暮らしていて、大分慣れてきているけれど。
それでもこの体には、どうしても違和感がつきまとってしまう。
俺の背が縮んでいるというか、ぶっちゃけて言えば、十歳以下の年齢になっている。
わけがわからないと思うけど、俺も何を言っているのかわからない。
起きたら年齢が下がっていて、家族がいないはずの俺が、当たり前のように家族と暮らしているのだ。
もしかして、また転生したのか? と思ってしまったが。
呼ばれた名前がクロードだったし、自分の家族が俺の知っている人達だったので。
あぁ……これは前世の夢か…… と納得した瞬間、直前の前世は蔵人だったよな? と気づいて、わけがわからなくなった。
「ほらほら、追いつかれてしまいますわよ」
俺の背後で、地面から少しだけ体を浮かせている女が、飛びながら話しかけてくる。
この女の存在も、俺が混乱してしまう原因の一つだった。
文句を言いたいけど、正直そんなことをしている余裕はない。
なぜならば、後ろから追いかけてくる二匹の化物を、振り切るので精一杯なのだ。
【オォォォ……】
【アァァァ……】
「ひぃぃぃ――」
ゾンビとグールが、まるで短距離ランナーのように、大きく手を振りながら追いかけてくる。
これが黒人なら、まぁ、ちょっと怖いかな? と感じるくらいで、そこまで恐怖はない……と思う。
だけど、相手は腐った死体だ。さすがに肉片までは飛び散っていないようだが、それでも怖いものは怖い。
ゾンビなら歩けよ! そんなに生気に満ちている感じで、走ってくるんじゃねぇよ!
俺は心の中で叫ぶ。走っているから喋れないわけでも、ましてや、恐怖心から声が出ないわけでもない。
この小さな身体を動かし始めた瞬間から、なぜか思ったことを口に出せないのだ。
ヤバい! 追いつかれるっ。
ゾンビとグールの両手が、俺の直ぐ側まで迫ってくる。
別に捕まっても殺されるわけじゃないし、攻撃されることもない。
しかし、数日前にも追い掛け回されて捕まったことがあるが、その時は腐った死体に揉みくちゃにされた。
冗談ではない。相手の性別がわからない以前に、ゾンビやグールに体を弄られて、喜ぶ奴など存在しないだろう。
「はぁ……はぁ……ひぃ……た、たすけ……」
「セイクリッドシャイン!」
俺が捕まえられる寸前に、どこからともなく涼やかな女性の声が響き渡る。
直後――俺を追い回していたゾンビとグールが光りに包まれて、そして跡形もなく消滅した。
「はぁ……またクロードを虐めているのですか、クロエ」
「あら、アストレア様。いいところでしたのに」
「あ……あぁ……」
俺は助けてくれた人に向かって行き、泣きながら抱きつく。
その女性は困ったようなため息をついたあと、俺の頭を優しくなでてくれた。
そう。楽しそうに俺の後ろを追いかけていたのがクロエで。
俺の事を助けてくれたのが、大神王アストレア様だ。
「うぅ……お母様ぁ……お姉様が……」
「男の子がそう簡単に泣くものではありませんよ、クロード」
俺は、アストレア様……クロエが…… と言ったのに、口から出た言葉は、お母様とお姉様だった。
初めて俺の口からこの言葉が出た時は、かなりショックを受けた。
アストレア様が母親で、クロエが姉って……
なんやねんこの世界!? なんて思ったほどだ。
けれどもツッコミを入れようとしたところで、声に出して喋ることは出来なかったし。
夢? にしては寝て起きてもこの身体のままなので、否応なしに現状を受け止めることになった。
「冥府の王の対策をしていただけで、別に虐めていたわけではありませんわよ」
「他にいくらでも、やり方があるでしょうに……」
全く悪気がない態度をとるクロエに向かって、アストレア様が呆れたように言う。
クロエは俺の事を鍛えているらしいが、俺としては、完全に虐められているようにしか思えない。
「アテナ。クロードをライブラリに連れて行ってあげてください」
「畏まりました」
「クロード。しっかりと勉強をするのですよ」
「はい」
アストレア様が付き人の女性に向かって、俺をクロエから離そうとする。
ライブラリとはバカでかい図書館のことだ。別に勉強は好きではないが、死体に追い掛け回されるよりは遥かにマシなので、俺は元気よく返事をした。
クロエの方は渋っていたけれど、アストレア様が彼女に大事な話があると伝えると、大人しく従っていた――
「クロード様。今日は何をお読みになられますか?」
大図書館に到着すると、アテナ様が優しく語りかけてくる。
見た目の年齢は二十代前半くらいで、モスグリーンの髪色に、長いドレスと鎧を合わせたような衣装に身を包んでいる。
最初に見かけた時は、アストレア様の部下の戦乙女か? と思っていたら。この人も神様だった。
未だに俺が何者なのかわからないし、周りにいる人達が神王ばかりなので、正直居心地が悪い。
唯一わかったことは、ここが神界で、アストレア様が母親なのだけど、別にお腹を痛めて産んだわけではないらしい。
俺が質問をして尋ねたわけではなく、時偶クロエとアストレア様が、低レベルな言い争いをしていることがあった。
その時クロエがアストレア様に向かって、行き遅れだの万年処女だのと言っていたので、俺も知ってしまったわけだ。
ちなみに反論をしていたアストレア様いわく、クロエも男性経験がなくて処女らしい。どうでもいいな、うん。
「魔法の本が読みたい」
「魔法の本ですか? クロード様が読める簡単な物は……少々お待ちください」
アテナ様が空に飛び上がり、二十メートルくらいの高さの場所で本を探し始める。
大図書館は細長い塔のような場所で、その中にはびっしりと本棚に本が収まっている。
壁が見えないくらい周りは本棚に囲まれているわけなのだが、それがはるか上空まで重なっていて、地上から見ると先の方があまり見えない。
いったいどれほのど数の本があるのだろうか。しかも階段がないので、上にある本は飛んで取りに行くしか方法がないのだ。
無論俺は飛ぶことが出来ない。ねがいの魔法なら飛べるのかと試してみたけれど、なぜか唱えることが出来なかった。
「聖界……神……読めない」
アテナ様は本を探すのに難航しているのか、全く降りてこなかったので。暇になった俺は、その辺でテキトーに本を手に取る。
しかし、分厚い本を手に取りパラパラとめくってみたけれど、書いている字があまり読めなかった。
読めないならしかたがないなと思い、本を閉じようとしたら、ある挿絵のところで手が止まる。
「これは……」
そこには見覚えがある二人の姿が、色付きで描かれていた。
大きな杖を持ち、聖職者のような格好をした男と。
同じ服装をして、腰に剣を差している、青い髪の女だ。
「お待たせしました、クロード様」
「あ、うん」
じっと挿絵を見ていたら、飛んでいたアテナ様がフワリと降りてくる。
「申し訳ありません。邪魔をしてしまったようですね」
「ううん。文字が読めなかったから、絵を見てただけだよ」
申し訳無さそうな顔をして謝ってくるアテナ様に、正直に話す。
本を開いて読んでいるように見えただろうけど、本当に文字が読めなかったので、絵を見てただけだ。
「その本はまだ、クロード様には難しすぎますね」
「あ、あの!」
「なんでしょうか?」
「この絵は誰なのか、わかる?」
アテナ様に質問をすると、彼女は俺の横に来て本を覗いてくる。
近づいてきた彼女の髪から、ふわっといい匂いがしてくる。その匂いを嗅いだ俺は、神様もシャンプーとかするのかな? なんてどうでもいい事を考えていた。
「ここに描かれているのは、聖王様ですね」
「聖王?」
「はい。大聖王クロフォード様と、聖王クローディア様です」
クローディア……
思っていた通り、俺の知ってる二人だった。というか、クロフォードの妻の名前を今初めて知った。
やっぱりこれは俺の前世の夢なのかな? でも、クロエが俺とは別に存在しているのが、どうしても引っかかってしまう。
考え事をしながら、むぅぅんと唸っていたら。アテナ様が、俺の事を真剣な顔をして見ていることに気づく。
「クロード様。思い出してしまいましたか?」
「え? なにを?」
「いえ、失言でした。忘れてください」
むっちゃ気になることを言われたが、彼女はそれ以降黙ってしまう。
それからしばらく沈黙が流れた後。外に移動して本を読んで勉強をしていた俺に、アテナ様が魔法の使い方を教えてくれた。
残念ながら空飛ぶ魔法のことは載っていなかったので、この日の俺は、空を飛ぶことが出来なかった――




