五 内面
日曜日の大森パトロール社の事務所は、休暇シーズンの週休日ということもあり、多くの警護員が非番か出張中かのどちらかだ。
事務室の自席に座っている葛城は、しかし緊張の面持ちで奥の応接室の閉まった扉へときどき目をやっている。
給湯室から麦茶のグラスふたつを持って山添崇警護員が出てきて、葛城の隣の空いている席に座った。
「まあこれでも飲んで。」
「ありがとう、崇。」
「もう一時間になるなあ。」
「しょうがないことではあるけどね。」
波多野営業部長は、坊主頭に近い短髪に全く似合わないメタルフレームのメガネをかけ、もともと愛想のない表情をいつもの数百倍苦虫を噛み潰したようにして、向かいの席のふたりの部下を見ていた。
高原は長身に相応しい長い足を行儀よく折り畳んで両膝の上に両拳を置き、背筋を伸ばしてうつむいている。
隣の茂は、高原より一回り小さい体を一層小さくして、高原よりさらに深くうつむいている。
「二人とも、俺の言っている意味はよく理解していると思うが。」
「はい。」
「問題はそこじゃない。」
「はい。」
「理解しているということと、実践できるということとは、まったく別のことだからな。」
「・・・はい。」
「ならば俺のできることはひとつだけだ。何度でも何度でも、体で覚えるまで繰り返し叩き込む。」
「はい」
「今回の問題点をもう一度言ってみろ、晶生。」
高原が顔を上げた。
「はい・・・。襲撃犯が警護現場からクライアントを連れ出そうとした時点で、止める必要がありました。」
「ああ。」
「仮にタクシーで逃走されたとしても、マンションに入られる前に声をかけるべきでしたし、それは可能でした。」
「そうだな。」
「犯人が襲撃の実行行為に着手したことが明らかになった時点で、遅くとも警察を呼ぶべきでした。」
「そのとおりだ。しかも晶生、お前なら犯人の襲撃方法も早い段階で予想できていたはずだ。責任はより大きいぞ。」
「はい。・・・・申し訳ありません。」
「メイン警護員は茂だが、お前は後輩指導のためについたサブ警護員だ。その責任を果たさなかっただけじゃない。後輩を余計な危険に曝したんだぞ。」
「はい。」
「それから、茂。」
「はい。」
「もう一度反省点を言ってみろ。」
「先輩の指示とはいえ、その内容が明らかにセオリーに反している場合はその理由を尋ね、また場合によっては部長の指示を直接仰ぐべきでした。」
「そうだ。」
「犯人が屋上へ逃走した際、先輩の指示を待たずに行動しました。」
「最大の問題点だ。警護業務の範囲外の行動は、仮に必要な場合も百パーセント先輩警護員の指示下で行うものだ。」
「はい。」
「飛び降り自殺を図ろうとした中村氏を助けたことは、人道上良いことだった。しかしクライアントを守るためにやむを得ない場合とは違う。警護業務以外の行動は、自分の安全を確保できる範囲内で行うのが絶対だ。明らかにそれを逸脱した。」
「・・・・はい。」
波多野は腕組みをしたままソファーの背もたれに体を預け、大きなため息をついた。
「何から何まで透の・・・月ヶ瀬の予想通りになったが、俺の寿命のこともたまには考えてくれ。」
「はい・・・・・」
「報告書と始末書は三日以内に提出だ。晶生、お前が取りまとめること。」
「はい。」
ゆっくりと立ち上がり、波多野は応接室の入口ドアまで歩いていく。
ドアノブに手をかけ、立ち止まる。
そのまま振り返らずに、部下に向かって言葉を出した。
「真の意味でクライアントを守るために、警護業務の範囲を逸脱した行動が必要ということも、もちろんある。」
「・・・・・」
「そういうことを考える、それは警護員としてむしろ非常に重要なことだ。」
「・・・・・」
「だが、それはイコール、セオリー違反を易々と犯してよいということではない。」
「・・・はい」
「あるべきことと、現実との間で、悩んで考えて、そして警護員のすべきことを常に探し求めろ。」
「・・・・・」
「今回のことは、百パーセント正しかったわけでもないし、そして、百パーセント間違いだったとも、誰にも言えんよ。俺にもな。」
「・・・波多野さん・・・・・」
「そして、自分の命を大事にしろ。一人でも多くのクライアントを守るための、最低限のことだ。」
「・・・・」
うなだれる二人を残し、そのまま波多野は応接室を出て行った。
波多野が事務所を出て行ってしまうのを見届け、葛城が応接室へ向かおうとしたが、山添が肩に手を置き止めた。
「少し二人だけにしておいてやろう。」
「・・・そうだね。」
山添は立ち上がり、何事もない様子で端末画面を見ながら作業している同僚の警護員のところまで歩いていく。
自分の脇まで来て山添が立ち止まってからしばらくして、月ヶ瀬は顔をあげて同僚の顔を見上げた。
「何?」
「礼を言おうと思って。」
「それならもう葛城から言われたよ。」
「俺からも言う。なぜならお前は、自分の担当でもない案件のために、犯人のことを随分感情移入して考えた。その結果犯人を懲らしめることができるわけでもないのに、ね。」
「・・・・」
「他人の面倒な感情に深入りする・・・・・。お前が一番嫌いなことなのにな。」
「・・・・・」
「そのことが、俺たちの大事な後輩警護員を・・・・」
「いいよ、そのくらいにしてくれない?気持ちが悪い。つまり高原みたいな警護員は、僕でさえ事前に対策を張りたくなるほど面倒で迷惑な存在だってこと。」
山添が苦笑するのをよそに、月ヶ瀬は艶やかな長い黒髪を肩の後ろに払い、端末に視線を戻す。
「色々評価の仕方はあろうけど、晶生が犯人と話をしたことは、良いことだったんじゃないかと思う。」
「・・・・・」
「お前だったら、実行行為の着手の時点で撃退してるだろうけど。」
「・・・・そうだね」
「正直、クライアントを襲撃した犯人の気持ちも、ある意味わかるよな。」
「それはどうかな。」
端末の画面を見つめたまま、月ヶ瀬の横顔が少し笑った。
「・・・・・」
「犯人は・・・中村佐智子氏は、友達である石畑由紀さんのつらさと、中村氏自身の・・・・、自分が由紀さんを失った悲しみとか、自分がそれまで失ってきたものへの恨みとかそういう色々なものとが、ごっちゃになっちゃったんじゃないの。」
「・・・・・・」
「それにそもそも石畑由紀さんだけのことを考えたら、復讐なんて必要だったのかね。それまで何十年、誰にも言わなかったことを、死を目前にしてついに親友に打ち明けたわけでしょ。その時点で、もう十分救われたってことなんじゃないかね。」
「・・・・・なるほどな」
月ヶ瀬は再び山添の方を見て、さっきよりさらにはっきりと、笑った。
「逸希くんだったんだって?窓から侵入しようとしたエージェント。」
「晶生からはそう見えたって。」
「阪元探偵社の期待の若手殺し屋候補。なんであいつらが今回いたのかね。結局何もしなかったんでしょ?」
「確かに」
「大方、営業活動だろうね。あいつらは紹介でしか仕事は受けないから、どこかのお得意様のご紹介だろうね。」
「そうだな」
「不合理な気持ちの問題をやたらと重く見る。君とか高原とかとあいつらって、基本的に思考回路おんなじなんじゃないの?」
「・・・・・・」
「そして河合さんも、すっかり毒されてたりして?」
黙り込んだ山添の顔から目を逸らし、月ヶ瀬は端末に向かって作業を再開した。
日曜の昼前の陽光を室内に受け入れて、街の中心にある古い高層ビルの事務所は明りを消しても十分な明るさだった。
カンファレンス・ルームの扉が開き、チームのメンバーが出て行く中、板見は和泉の後ろから遠慮がちに声をかけた。
「あの、和泉さん」
「ん?なあに?板見くん」
酒井と深山がちらりと二人のほうを見て、そのまま事務室内へと出て行く。
カンファレンス・ルームに残された板見と和泉はそのまま立ち話の格好になる。
「俺、今回の仕事で、皆さんにずいぶん褒められました・・・・」
「うん、だって当たり前だよ。活躍したもんね。」
「でも、本当は、誰にも言っていないことがあるんです。」
「え?」
板見はその大きな目を緊張の色に染め、鼻の頭を指で掻きながら視線を逸らした。
「俺は・・・・高原警護員と河合警護員を、どうやって助けるか・・・・後半はそのことばかりを考えていました。」
「・・・・・・」
「大森パトロール社の警護員と初めて対峙したとき会ったのが、あの二人でした。もちろん、仕事の上で必要ならばいつでも戦いますし殺すことも厭いません。でもそうでないなら、自分の気持ちに従いたい。そう思うのも事実です。」
「板見くん」
「俺は、あの二人を、多分ですが尊敬してます。初めて会ったときから、です。・・・あいつらの、考え方にはまったく賛同できないにもかかわらず、です。」
「・・・・・・」
「だから、今回全力でお客様の行動を把握したのも考えたのも、心のどこかで、高原と河合が危険な目に遭うと予想したしそれを防ぎたかったからじゃないかと思うんです。」
「・・・そうなんだね・・・」
「だから俺の行動は、エージェントとして特段褒められたものでは全然ないんです。」
「そんなことないよ、板見くん。」
「・・・・・」
「私も、正直、心臓が潰れそうだったよ。」
「・・・・・・」
「河合警護員が屋上へ向かったって聞いたとき。あの人が何をするか、百パーセント予想できた。」
「・・・・そうなんですか」
「そういう人だもの。未熟なくせに、無茶で、無謀で・・・・自分のことなんかこれっぽっちも考えてない・・・・。」
「・・・・・・」
「そして、笑っちゃうくらい、真っ直ぐな人。」
「・・・・・和泉さん。尊敬してるんですね、河合警護員を。」
「うん。おんなじだよ、板見くんと。」
「我々と考え方はまったく違うのに」
「・・・そうだね。全然違う。でも尊敬してる。そして、とても、大好きだよ。」
「・・・たぶん、深山さんも、そして酒井さんも、そうだと思います。」
「うん・・・・きっと、そうだね・・・」
和泉と板見は顔を見合わせたまま、少し笑った。
日曜昼時の街は若いカップルや家族連れ、友人同士など多彩な人々であふれている。
茂は駅までの道を歩きながら隣の先輩警護員の横顔を見た。
「高原さん、報告書全部お任せになってしまってすみません。」
「気にするな、これも先輩としての責任なんだから。お前にはいつも良い見本を見せてやれなくてすまないと思ってるよ。」
高原は眼鏡の奥の知的な両目に、いつも以上の優しい愛嬌を満たして茂の顔を見た。
「いいんです、良い見本なんて。俺は、一生どころか多分来世でも、高原さんに追いつくなんてできないんですから。でも背中を見て走っているだけで、しあわせなんです。」
「なかなかいいこと言うなあ、河合。」
「はははは・・・・でもやっぱりなるべく、灯油まみれでライターを持っている人の至近距離へ行ったりするのは、あまりしないで頂きたいです。」
「ごめんごめん」
「でも俺は、これからも、屋上から飛び降りる人がいたら全力で助けますけど。」
「お前、全力で我儘なところまで俺に似るなよ」
「あはははすみません」
茂は少し顔を赤くして笑った後、ふと沈黙し、そしてしばらくして、真顔で先輩の顔を見た。
「高原さん」
「ん?」
「俺、生意気ですけど、高原さんに賛同できない部分もありますけど」
「うん」
「でも、頭が切れるのになんかいつも無駄に愛情いっぱいの高原さんを、死ぬほど尊敬してます」
「はははは。今日の河合はいつにも増して生意気でいじらしいから、今日の昼飯は俺のおごりだ。」
「ありがとうございます!」
「そしてだ」
「はい」
高原は太陽の強い光を、目の前に手をかざしながら眩しそうに見上げた。
「・・・波多野さんの言葉、忘れるなよ。」
「・・・はい。」
「俺も、忘れない。」
日曜昼時の街の中心は、高層ビルから出てくる人間より、入って行く人間のほうが多い。
深山は長身の同僚の後に続いてビルのガラス戸から明るい屋外へと早足で出ながら、さらに早足の相手に待つよう訴えた。
「凌介、歩くの早すぎ。僕の足のこと考えてないでしょ」
「多少負荷をかけたほうがリハビリになると思うで」
「スパルタ式。歩くの早いとことか兄さんに似てきてない?」
「・・・・・」
表情から焦りを隠さず、酒井は露骨に歩みを遅くした。
「そんな、素直に嬉しいって言えばいいのに」
「あほか」
緩やかな風が渡り、帽子の下の深山の金茶色の髪と、酒井の耳下までの黒髪とを揺らしていく。
深山は同僚の精悍な横顔を見上げる。
「で、凌介、その後吉田さんと進展はないの?」
「うるさい」
「和泉さんも板見くんも心配しているよ」
「お前が煽ってるだけやろ。それに祐耶、お前も少しは和泉に気を遣え」
「・・・やっぱり、そうなの?凌介が板見くんにあんなことを頼んだのって。」
「板見しかできへんからな。」
「うまくいったのかな」
「会議室から出てきた和泉、ちょっとだけやけどすっきりした顔してた。板見に聞いたら、”俺のことを素直に話しただけです”って言ってたけど、まあそれなりに仲間同士悩みを共有したんと違うか」
「でも、この先・・・どうやって気を遣えばいいの?」
「・・・・・・」
「永遠に解決しない問題なんだよ。解決策があるとするなら・・・河合警護員を無理やり大森パトロール社から連れ去ってくるくらいしか、思いつかない」
「絶対無理やけど、それ以外に確かに方法はないな」
「いつか僕が河合を殺さなきゃならなくなったら、どうすればいいんだよ」
「知るか、ボケ」
「叶わぬ恋なら、早く割り切って、ほかの人を好きになれたらいいのにね。」
「まあそうやなあ。そう上手くいけばいいけどな。」
「でもそう簡単にいくなら、誰も苦労はしないんだね・・・。」
「そうやな」
「・・・・兄さんが再婚しないのも、庄田さんが二度と恋人をつくらないのも・・・・・」
「人の心配してる暇があったら、お前はお前の幸せを考えろ」
「僕は同じエージェントを恋人にしたいとは思わない」
「じゃあ、この会社で仕事している限り一生結婚でけへんで」
「いいもん。」
「なんでいやなんや?」
信号待ちをする二人の前を、車が何台も行き過ぎる。
「良いひとがいないもの」
「お前、何人の人間を見てから言ってるんや?うちの会社、国内海外あわせて関係会社も入れたら何人エージェントがおると思ってる?で、女性は三分の一はおるんやけど」
「まあね。じゃあ凌介、そのうち良い人を紹介してよ。」
「ほんまに紹介するで」
「うん」
沈黙が流れた。
「・・・・・やっぱり、無理やな」
「・・・・うん」
「お前に、大人の恋愛とか一生無理そうやわ」
「・・・・悔しいけど、そんな気がする」
「年上の女性のほうがええかもな」
「そうかも」
「でも恭子さんに手を出したら殺す」
「わかってるって」
「そろそろ復活しろよ、三村」
「・・・・・・」
英一が教えている稽古場に近いカフェで、茂はようやく女性ファンたちから解放された親友の不幸そうな顔を見ながらため息をついた。
「児童館の三村流の舞教室が全部代講になってるって、なぜか高原さん経由で俺のところに情報が入ったんだから」
「・・・・高原さんは児童館の管理人さんと親友だからだろうな。」
「一度警護で行った場所は、永遠に不滅の人間関係を築くからね、高原さんは」
「すごいよな」
「今はその話じゃなくて、お前のことだよ」
「・・・・・・」
三村英一は不機嫌そうに頬杖をついたまま斜め下をぼんやりと見ている。
「お前の気持ちはもちろん想像できるけどさ。会ったとき、どんな顔すればいいか分からないんだろう?」
「そうだ。」
「大丈夫だよ。俺の少ない経験からだけどさ、そういうときって、男が思うほど、女性側は気にしてないし、大丈夫なものだよ。」
「そうかな。」
「・・・・多分ね。でもこういうことは・・・やっぱり高原さんのほうがいいかな。ご経験も俺より多分ずっと・・・。電話してみようか?」
「いや、大丈夫だ。来週から、ちゃんと児童館にも復帰するよ。」
「よしよし。」
英一は冷めかけたコーヒーを一口飲み、少し笑った。
「児童館といえば、俺が高原さんに初めて会ったときのことを思い出すよ。クライアントと二人で怪我して包帯をして、憎らしいほど人好きのする顔で俺に向かって笑った。」
「ふうん」
「なんだこの人は、って、真剣に焦った。」
「そうなんだね」
「あの人は・・・・多分、一番際限のない意味での、”ガーディアン”だ。人を守ることが、あの人にとっては、全部の人を守ることなんだ。」
「・・・・・」
「大森パトロール社の社是は、全ての違法な攻撃から、合法に、クライアントを必ず守る、だろう?」
「うん。」
「それは単純なだけに、大変なことだし、実際壁に当たってばかりだと思う。阪元探偵社なんていう因縁の相手がまともに立ちふさがるようになったらなおのこと。」
「そうだね」
「法にできることは少ない。だから警護員にできることは少ない。」
「うん」
「でもそれは法がすべきことが少ないからかもしれない。でもだからこそ、法を犯してはならない。何人たりとも。」
「そうだよ」
「これを、本気で全部の人間を守ることと同時に、実践されているんだ。高原さんは。」
「・・・・そうだよ」
「矛盾だらけのことだ。そしてそのしわ寄せが、ご自身の身の安全を脅かす形で来る。どうしてそこまでやるのか、俺は不思議でならなかったし見ていて苛立つことさえあったけど」
「・・・・・・」
「人間というものを、死ぬほど愛しておられるんだ。そうなんだよな。」
「うん。そうだよ。高原さんの仕事は、そういうことなんだと思うよ。だから俺はどこまでも尊敬するし、でもどこまでも問題だらけなんだ。」
「そうだな。」
その端正な顔立ちによく似合う漆黒の両目を、英一は茂の明るい色の両目へと向けた。
「・・・・・・」
「河合、お前さ」
「ん?」
「先輩たちの影響を受けてどんどん似てくるのもいいけどさ」
「うん」
「前に目指してたように、そろそろ本気で、先輩達を守ることを考えてもいいんじゃないか?」
「・・・・・・」
「そういう存在に、なるってことを、さ。」
茂が今度は目を逸らす番だった。
信号が青に変わり、横断歩道をこちら側へ向かい歩く人並みを縫いながら、深山は酒井へ言葉をかけ続ける。
「今回の案件、僕も勉強になった気がするんだ。」
「そうか?」
「ひどいことを言うって、みんな、自分はそんなことしないって思ってるよね」
「まあ、そうやろうな」
「でも、言ってるね。」
「それをやめられへんのが、人間ちゅうもんやろうからな。」
「僕たちのお客様やターゲットの関係も、元をただせばたった一言の、酷い言葉が始まりだったりすることもある。」
「ああ。相手のためを思ってあえて厳しいことを言うこともあるけど、そうやなくて自分の都合だけで相手に酷いことを言うんは、救いのないことやからな。」
「そして、言ったほうは忘れても、言われたほうは忘れない。」
「そうやな。」
駅に近づくにつれ増える人並みを、二人はやや速足でやり過ごしていく。
酒井が前を向いたまま続ける。
「もちろん、酷いこと言われたからって何やってもいいわけやないけど、少なくとも死ぬまで努力はしたいとこやな。一人でも、無駄に傷つける相手が少ないように。」
深山は歩くのが速すぎると訴えるように同僚の二の腕をつかみながら、笑った。
「なんか凌介がそういうこと言うと、おもしろい」
「うるさいな」
月ヶ瀬が事務所を出て行くのを無言で見送り、山添は打ち合わせコーナーで向かいの葛城の持つ空いたグラスに、ピッチャーから何杯目かの麦茶を注いだ。
「ありがとう、崇」
「晶生と河合さん、あまり落ち込んでないといいけどね。」
「そうだね。」
「報告書を出し終わったくらいのタイミングで、飲み会にでも誘ってみよう。」
「うん。」
麦茶を飲み干し、葛城に注いでもらいながら山添は頬杖をついて少し宙に視線を止めた。
「・・・俺は、親がいない人間の気持ちはもちろん分からないけど、でも石畑由紀さんが言われたことが、彼女にどのくらい影響したかは、想像できる気がするよ。」
「・・・・・」
「ひどいこと。言うタイミングと相手によっては、物理的な攻撃より恐ろしいものかもしれない。特に子供や思春期の未成年・・・ましてや、親がなく、不安を抱えている子たちには。」
葛城は温かみある美しい両目を伏せ、頷いた。
「クライアントと石畑由紀さんみたいなケースは極端なものかもしれないけど、自分に余裕がないとき、相手の立場を考えずにひどいことを言ってしまうことは、本当によくあるね。」
「ああ。・・・俺、改めて心から願ったよ。この先、自分がなるべく人を傷つけずにいられますように・・・って。」
「そうだよね。俺もだよ。」
しばらく二人は沈黙した。
「・・・少なくとも、自分の誤解とか過ちとかによって、相手を傷つけていないことを願う。」
「うん。・・・どうすればいいのか、わからないけどね」
「それは・・・・」
山添は黒目勝ちの目を細めて、困ったように微笑した。
「・・・・・」
「・・・それは、とにかくやっぱり、めんどくさがらずに、小さな努力を積み上げていくしかないんだろうな。」
「うん、そうだね」
そしてしばらくして、葛城が表情を少し柔和なものにした。
その意味が分かり、山添は頬杖を解いて同僚を見つめた。
「怜、お前は別の意味でも今回のことは印象深いんだね?」
「ああ、俺も親がなくて、そして育ててくれた親戚もその後すぐに亡くしたから。」
「そうだな」
「里親って、石畑さんのときのような問題あるケースばかりじゃないとは思うけど・・・・。里子との相性の問題は、すごくあると思う。」
「うん」
「里親ってね、形式的条件が厳しすぎるんだ。だから、さらに人となりとかの内容まで本当に厳しくみていたら、誰も里親になれないんじゃないかな。」
「そうなのかもね」
「たとえば里親の要件に、独居じゃないことというのがあることが多いけど。それは、この先問題だろうね。これだけ、未婚率や離婚率が高い時代なんだから。・・・夫婦そろっているけどそれだけの家庭と、たとえば一人で強く生きてきた独居婦人と、どっちがいいか誰に決められるのかね。」
「ああ。」
「独り暮らしの人間は、病気になったら大変だとか、あるいは自分の跡継ぎや世話をする人間ほしさに里親を希望する場合が多いんじゃないかっていう説もあるけど。」
「そうなのか?」
「でもその危険は独り暮らしの人間に限ったことじゃない。夫婦そろっていたって、それぞれにとっては、自分が世話が必要になるリスクに加えて、自分が相手を世話しなきゃならなくなるリスクもある。そしていつかはどちらかが先に死んで、結局独り暮らしになるんだからね。・・・不純な動機で里子をもらう可能性は、独り暮らしじゃない人間にだって同じかそれ以上にある。」
「まあ、そうだよな。」
「見た目とか、かたちとかじゃなく、実質で物事を判断しないといけないよね。」
「そうだな。でも、それはさ」
山添が、少し自虐的に、笑った。
「・・・・・・」
「・・・それはさ、ものすごく面倒で、大変なことかもしれないね。」
山添の言っている意味が分かり、葛城は声を出さずに、静かに苦笑した。
昼過ぎの明るい陽光が、事務所内を隈なく照らしていた。
第二十三話、いかがでしたでしょうか。
次のエピソードも、たぶん書けると思います。
これからもよろしくお願いいたします。