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三 襲撃

 穏やかな微風が渡る。少し星が見える静かな夜の、大通りの交差点から南北へ伸びる道路沿いに、東を向いてたくさんのマンションが林立している。

 交差点でタクシーを降りた二人の女性が、少し道を南へ登り何件目かのマンションの暗いエントランスからエレベーターに乗った。

 エレベーターを降りると廊下の両側に部屋が並んでおり、そのうちの西向きの角部屋へ入り、明りをつける。

「どのくらいで警護員さんは来るの?中村さん」

 先に入った女性が、黒のかつらを取りながら振り向いた。

 後から入ってきた女性は部屋の真ん中のソファーを勧め、台所のポットと急須と茶碗を持ってテーブルに置いた。

「志方さん」

 中村は茂のクライアントを名前で呼んだ。

「え・・・・」

 次の瞬間、クライアントはその白髪の髪からつま先まで、強いにおいのする液体でびっしょり濡れていた。

 両手で志方の頭の上から中身を全部あけたポットを床に下ろすと、中村はソファーの後ろに置いてあったタンクを手に取り、自分の体にも灯油を五リットルタンク全量分かけた。

 テーブルの上のタオルで手をふき、その隣に用意してあったライターを手にとる。

 志方まやは、ようやく事態を理解し、ソファーから立ち上がろうとした。

「動かないでね、志方さん。」

「・・・・・・」

「ここまでやりたくはなかったんだけど」

「中村・・・さん・・・・?」

「ちょっとでも動いたら、今すぐ火をつける。知ってる?焼身自殺って、あらゆる自殺の中で一番苦しいのよ。」

「・・・・やめて・・・・・どうして・・・・・・?」

 そのとき、玄関の鍵が大きな音をたてて破壊され、ドアが開いた。

 中村は振り返って大声で叫んだ。

「入らないで!今すぐこの人焼け死ぬわよ!」

 茂は玄関からリビングの様子を見て、すぐに足を止めた。

「中村さん、どうして、こんなことを?」

「出て行って」

「・・・・脅迫状は、あなたですか」

「出ていかないと火を点ける。本気です。」

 中村は蓋つきライターの蓋を開けた。

「・・・・わかりました・・・」

 茂はそれ以上入らず、後ろ向きに玄関から再び廊下に出てドアを閉めた。

 白髪の髪から灯油をまだ滴らせている志方まやのほうを向き直り、中村は空いているほうの手で灯油まみれになったメガネを一度外して滴をはらい、再びかけた。

「復讐を請け負ってくれるという人たちがいて、勧誘されたんだけど。断った。でもあの人たちも、私がここまでするとは予想しなかったでしょうね。」

「ふ、復讐・・・・?」



 酒井凌介が吉田恭子の顔を見るより早く、チーム・リーダーは次の指示を出した。

「八階八○一号室。明りの点いていない窓から侵入しなさい。ただし間に合わないときは自分の身の安全確保を最優先すること。」

「了解しました」

 朝比奈逸希の声で返事があった。

 酒井は短くため息をついた。

「見学だけの予定でしたが、致し方ありませんな。」

「庄田の許可はとった。」

「はい。規程上は若干グレーですかね。」

「覚悟の上だ。」

「そしてお客様には、絶対契約しないという決意をさせてしまうかも知れませんな。」

「そうね。」

「でも、もちろん・・・」

 酒井は火を点けずに咥えていた煙草を、口から外して指で挟んだ。

「・・・もちろん、俺が現場にいてたら俺がやってますよ。」

 吉田は部下の顔を見て、少しだけ微笑した。

 深山祐耶が、口惜しそうにその異国的な両目を細めた。

「逸希くんもアサーシンの卵だから、歯がゆいだろうな。」

「そうかもね。」

「契約さえあったら、一撃で殺すのに・・・って。」

「・・・そうかもね。」

 その時、やや上ずった声で逸希が通信機越しに報告を上げ、その場にいたメンバー全員を驚愕させた。



「中村さん・・・・」

 ようやく少し大きめの声が出るようになった志方まやは、自分のボディガードが部屋を出て行った後しばらくして、相手の顔を見て尋ねた。

「どうして・・・?復讐って、何・・・・?」

 中村佐智子が蓋の開いたライターを目の前にかざしながら冷たく笑った。

「一年前、私の友達が交通事故で死んだの。もちろん、志方さん、あなたとは何の関係もない事故。」

「・・・・・・」

「その友達の名前は石畑由紀っていうの。」

「・・・・・」

「覚えはない?」

「・・・・・・」

 志方は黙っていた。

「由紀と私は、友達が少ないことが共通してたの。親友っていってよかったの。本当に、覚えていない?」

「・・・覚えていない・・・・」

「そうでしょうね。ずっとずっと、忘れていたでしょうね。でもよく思い出してみて。四十年くらい前だから大変かもしれないけどね。」

「・・・・・・」

「どう?」

 しばらくの沈黙の後、志方が言った。

「あの子?」

「・・・・そうよ。十二歳だったはずね。」

「・・・・・あの子が・・・・・」

「児童養護施設から来た、ちょっとぼんやりとした女の子。思い出したわね?」

「三か月で、施設に帰っていった。名前も忘れてたくらいよ。そのことが何なの?・・・あなたは、何なの?」

「由紀の高校の同級生よ。」

「・・・・」

「三番目の里親の家から由紀が通ってた高校の。」

「三番目・・・・」

「最初の里親の家は、四か月で終わったって。子供がいない夫婦だけのお金持ちの家だったんだって。でも、旦那さんのほうが、由紀を子供じゃなく性的な対象として見た。」

「・・・・」

「妻が、由紀に母親として接したのは最初の一か月だけだった。由紀はすぐに嫉妬の対象になり、そして、別の里子と入れ替わりに、施設に戻された。」

「・・・その後、うちに来た。」

「そうよ。で、どうなったの?」

「・・・あの子は、鈍くて、私の家事の邪魔ばかりしてた。うるさかった。どこへ行くにもくっついてきて。なんでも手伝いたがった。」

「要領悪い癖に、ね。そして志方さん、あなたはイライラしても黙って我慢して我慢して、そしてついに爆発して、施設に由紀を返した。」

「ずいぶん我慢したわ。でももう耐えきれなかった。」

「由紀は頭の良い子じゃなかったでしょうね。そして、正常な判断力もなかったでしょう・・・なぜなら、追い出されたくなくて必死だったから。気が狂ったみたいになっていたから。」

「・・・・・・」

「それから、大事なことを、まだ言ってないわね、志方さん。」

「・・・・・・・」

「あなたは、由紀が来てすぐ、旦那さんと別居になったでしょう?」

「・・・ええ、そうだけど?それが・・・?」

「旦那さんが出て行ってしまった。でもそれは、由紀が来る前から、過去にも何度かあったことだった。」

「・・・そうよ。」

「でも由紀のイライラする行動に加えて、また旦那さんが出て行ってしまって、あなたの感情は爆発した。」

「・・・・・・」

「由紀に、あなたは、なんて言った?」

「・・・覚えてない・・・・・・」

「じゃあ教えてあげましょう。あなたは、こう言った。”このうるさい子。私についてまわらないで。お前さえいなけりゃ、私はあの人を追いかけていけるのに。”・・・そう言った。」

「・・・・」



 吉田が両目を見開き、酒井は思わず椅子から立ち上がった。

 逸希の言葉がスピーカーから響く。

「間違いありません。高原警護員が、八○二号室のバルコニーから、八○一号室のバルコニーへ移りました。このまま室内への侵入を試みるものと思われます。」

「退避しなさい、逸希」

「はい」

 阪元探偵社のエージェントたちの話題の対象となっていた高原は、通信機器から後輩警護員へ短い指示と連絡をした。

「河合、いいな?俺が合図するまでは絶対に入るな。」

「はい、高原さん」

「それから、残念なことに、あいつら、来てるよ。」

「えっ」

「俺に気がついて九階の部屋へ退却していったけど、さっきまで、エージェントがひとり、部屋への侵入を試みていたよ。」

「・・・・・・」



「そして由紀が施設に戻るまでの二週間、あなたは由紀に冷たく当たり続けた。でもそういうことの全部より、一番ひどかったのは、ああいうことを言ったことだと思う。」

「・・・・・」

「私が由紀と知り合ったのは高校一年のときだったけど。その後も、卒業しても就職しても結婚しても・・・離婚して、また結婚して、また離婚しても・・・・由紀は基本的に、ずっと変わらなかった。」

「・・・・・・」

「由紀はね、いつもいつも、びくびくしていた。自分がここにいていいのか、きょろきょろしてた。私はね、自分も親がなかったから、親戚に育てられたから、彼女の怖さがよくわかったのよ。」

 志方はぴくりとも動かず、中村の顔を見ている。

 その表情からは、微かな苛立ちを除けば、他には特になんの感情も読み取れない。

「由紀と私は、おんなじ持病を持つ者同志みたいに、お互いだけは安心して一緒にいられたのよ。それでね、私が癌にかかったことがわかったとき、由紀は、なにがあっても最後まで傍にいるって言ってくれた。」

「・・・・・・」

「救急車で運ばれた病院で・・・私に、謝ってた。事故にあってごめんって泣いてた。私は、由紀がもう死ぬってわかった。だからね、死ぬ前に言っておきたいことがあったら言ってって、言ったのよ。」

「・・・・・」

 中村の両目から、涙が初めて流れた。

「由紀は、ごめん以外なんにもないよ、って言った。だから私、言ったの。今まで生きてきて、一番うれしかったことと、一番かなしかったことを、おしえて・・・って。」

「・・・・・・」

「うれしかったのは、友達ができたことだって。私に出会ったことだって。」

「・・・かなしかったのは・・・・わたしとのことって・・・・?」

「あなたを含めて、ね。孤児で、ひきとられたふたつの里親の家で、起こったこと。何十年経って、もう、もう忘れたつもりだったけど、もう死ぬって思ったとき、やっぱり、思いだしてしまったって。」

「・・・・・」

「そう、言ってたよ。」

 長い沈黙がその場を支配した。

 志方はやはり何も言わなかったが、その表情は、たくさんのものを納得できないと語っていた。

 中村は少し笑い、そして言った。

「由紀の人生はもちろん由紀の責任。彼女だって私にも誰にも別に復讐なんか頼んでない。これは私が、好きでやること。私のぶんの恨みも、入ってるしね。」

「あなたの恨み・・・・?」

「そう」

 中村は、立ち上がった。

「・・そう、私の恨み。大事な友達の生涯を汚して、ひとつも自覚してないあなたへの恨み。」

 バルコニーのガラス戸が開いたことに中村が気がついたときは、既に遅かった。

 風のように侵入した、背の高いボディガードが、志方と中村との間に立って中村のほうへ右手を差し出していた。

「お邪魔します・・・。サブ警護員の高原と申します。中村さん、そのライター、こちらに渡していただけないでしょうか。」

「あなた、一緒に焼け死にたいの・・・・?」

「あまりそれは望んではいません。」

「この部屋、燃えやすいものばかりにしてあるのよ。火がついたら、誰も助からないのよ。」

「そのようですね。」

 志方がたまりかねたように、抗議した。

「どうして。私だって、色々あって余裕がなかった。私のやったことが、一人の人間の人生を決めるなんて、そんなはずない。そんな責任負わされても困る。」

 中村が笑った。そしてその笑いは侮蔑の色に濃く染まった。

「もちろん、あなたの責任じゃない。あなたに、一人の人間のことなど考えずに行動したり発言したりする自由がある。」

「・・・・・」

「同じように、私にも、自分の考えで一人の人間への態度を決める自由がある。」

「・・・・・・」

「私は物理的にあなたを殺すけど、あなたは実質的に由紀を殺した。」

 高原が一歩踏み出した。

「ライターを、渡してください。」

「火を点けるわ。出て行って。」

「申し訳ありませんが、それはできません。」

「死にたいの?」

「あなたが火を点けるなら、そういうことになります。」

「・・・・本気よ!ここは、もう何があっても、誰にも迷惑はかからないのだから。」

「わかっていますよ。」

 中村の顔から血の気が引いていく。

 高原は通信機器から入る声には、答えない。



「消防と警察呼びます?もちろん、ジョークやありませんよ。」

 珍しく酒井が少し焦りの色を隠さずに言ったが、吉田は首をふった。

「それはしない。高原がしないならね。・・・酒井、お前の気持ちは、わかるけれど・・・・。」

 酒井は目を伏せ哀しそうに笑った。

 深山は、何も言わず下を向いてじっとしている。その金茶色の長い髪の先が微かに揺れ、持ち主の体の震えを伝えていた。

 


 中村佐智子は自分より遥かに背の高い高原の顔を見上げ、そのメガネの奥の穏やかな両目を凝視し、静かな怒りのこもった声で言った。

「どうしてあんな人間のために、命を懸けるの」

「由紀さんは、二度も里親から追い出されて失った自信を取り戻すことがついにできず、寂しい人生だったかもしれませんが、あなたのような友達に出会えた。」

「・・・・・・」

「そしてあなたは彼女を代弁して、その思いを伝えた。人間にできるのはここまでです。この先に踏み込んで、あなたが犯罪者になっても、志方さんへ罰を与えることにはならないでしょう」

「・・・・・」

「この先は、本人にしかできないことなんです。反省するとか、後悔するとか、そういうことは。」

「・・・・・」

「なぜなら、これが、人の心の問題だからです。・・・人の気持ちを考えて、反省したり後悔したり。他人がその人を、殺そうとどうしようと、なんの意味もないんです」

「・・・・・・」

「だから、法律という線引きがあるんです。人の心の問題について、人にできることがいかに少ないか・・・ということですよ。」

「そんな理屈、なんの意味もないのよ。私は、殺してやりたいの。それだけなの。」

 中村の声が震えた。

 高原の声がさらに一段トーンが落ちた。

「わかります。でも、あなた自身を汚すことにしかならない。」

「・・・・・・」

「あなたは、彼女を代弁した。相手に伝えた。もう十分です。」

「・・・・・・」

 中村の表情が変わったのは、高原の言葉のせいというより、高原の声が初めて震えたからのように見えた。

「中村さん。・・・あなたは、残された時間を、立派な人間として過ごしてください。他人を大切にできる人として。酷いことを言ったりしない人として。」

「・・・・・」

「もちろん私は、ボディガードという職業柄もありますが、自分の犯罪の言い訳に、自分の子供のころの体験を持ち出す人間は軽蔑します。それは全ての、子供のころのつらい体験を持っていても真っ当に生きている人々への、冒涜だからです。・・・でも、同時に・・・・」

「・・・・」

「・・・・同時に、私は非常に尊敬します。つらい思いをした他人の気持ちを、邪心もなしに真に代弁しようとする人間を。」

「・・・・・」

「自分のことを言うのではなく。他人の気持ちについて言う。とても難しいし、そして非常に、尊いことです。」

「・・・・・・」

 廊下で、ドアの扉に耳をつけたまま、唇を血が出そうに噛みながら必死で自制し待っていた茂は、インカムから入った先輩の次の言葉を聞き、大きく息をはきだした。

「ありがとうございます。中村さん。ライター、後でちゃんとお返ししますが、煙草を吸う以外には二度とお使いにならないでくださいね。」

 高原は中村から受け取ったライターをポケットにしまい、微笑した。

 茂がドアを開け静かに部屋に入ってくる。

 そして、中村の後ろからそっと近づき、部屋を出るよう促した。

 中村は高原と茂の顔を順に見ながら、言った。

「私を警察へ?」

「いいえ。」

 高原は両目に柔和な色を湛えたまま、答えた。

「・・・・・」

「そこの河合が、ご自宅までお送りします。その前に、おふたりとも、お風呂で灯油を洗い流されたほうがいいですね。まだガスと水道は?」

「出るわよ。」

 中村が苦笑して答えた。

 三十分後、順に風呂で体を洗い、部屋にあったありあわせの服に着替えた志方と中村は、それぞれ高原と茂に付き添われて部屋を出た。

 廊下に、大森パトロール社のもう一人の警護員が待っていた。

「ありがとう、怜。」

「車で来たから。」

 一階までエレベーターで五人が降りると、中村がエレベーターのドア口ふと足を止めた。

「いけない、お財布の入ったバッグ、部屋に置いてきちゃった・・・。」

「え?」

「河合さん、一緒に来てもらえますか?独りで取りに行ったら、逃げるって思うでしょう?」

「・・・すみませんが、では、ご一緒します。」

 茂は高原と葛城のほうを見て、許可を求めた。

 葛城が、自分も一緒に行く、と言いかけたとき、エレベーターの扉が閉まった。

「・・・・!」

 中村に両手で思い切り突き飛ばされた茂が後ろ向きに転倒し、中村ひとりだけを乗せたエレベーターの扉が閉まった。

「怜、クライアントをご自宅まで・・・頼む。」

「晶生」

 高原はエレベーターの停止階を見届け、同僚のほうを見ずに言った。

「追う。」

「・・・・わかった。・・・・気を付けて。」

 茂が立ち上がり、高原の顔を見た。

 先輩警護員からの言葉を待たず、茂は駆け出していた。

 背後から呼ばれる声に、答えず茂は階段を駆け上がった。



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