二 環視
高層ビルのふもとにある芝生の公園の、はずれにあるデザイン性の高い展示スペースは、およそ書道展には似つかわしくなく見えた。
地上部分は小さなカフェのようにさえ見えるが、地下には広大な空間が広がっている。そして地下の通路の隅々にまで、地上からの太陽の光が届くしかけになっていた。
「土曜日が初日っていうのは正解よね。来場者には是非昼間のうちに来てほしいわ」
クライアントは天然パーマの白髪をショートカットにした頭を動かし、通路の上から降り注ぐ朝の光を見ながら言った。中高年女性らしいややふくよかな体型、顔色は七十歳近い年齢を思わせないほど良い。
「そうですね。地下三階までこんなに通路が明るいなんて。」
「ここを選んだのは私が、先生に強烈にお願いした結果なのよ。」
「あら、私たちのことも忘れないでね」
茂が振り返ると、三人の中年女性たちがこちらへやってきて笑っていた。
いずれもクライアントより一回りほど年下に見える。
「河合さん、紹介するわ、・・・中村さん、加藤さん、近藤さん。」
「どうも、河合です」
「ボディガードさんって、こんなに若いの!かわいいわねー」
「夜な夜なこんなイケメンさんを連れて歩けるなら私も依頼しようかしら」
「いやあねえ、今は昼じゃないの」
「今日はイベントだからまる一日だけど普段は夜だけなのよね」
「そうそう」
茂は中高年女性たちのパワーに圧倒されながら愛想笑いを絶やさぬよう注意していた。
クライアントを含む四人の女性たちは、皆、背丈は茂よりはるか頭一つ半ほど低く、そして皆同じような肉づきの良い体型をしている。茂はいつも思うことだったが、世の中高年の女性たちはなぜもこう似た背格好、似た体形なのだろうか。髪型も、真っ白なクライアントを除けば白髪を染めたショートカットで、世の中でいつ見るどの中高年女性たちとも皆大差ない。
特に、背の高い女性というのは意外にまだまだ少数派なのだ。五十代、六十代という年代では。
彼女のような、茂と同じくらいに背の高い女性は・・・・。
茂は、阪元探偵社のエージェントのことを思い出している自分に気がつき、はっとして気持ちを警護業務へと戻した。
「みなさん、色違いですがお揃いのお召し物なんですね」
「よく気がついてくれました!みんなでつくったの。まだ余ってるから、一着あげましょうか。彼女とかいるんでしょ?」
「あ、いえ・・・・・」
三人の中年女性たちが、それぞれ自分の赤、青、オレンジの簡素なワンピースを見て、そしてクライアントの来ている緑色のものを見た。
「うちのクラスの生徒十五人いるんだけど、五色の布を買ってまとめて五十着注文したのよ。」
「そんなに余ってるんですか」
「最小単位が五十なんだもの。でも今日来て下さった大事なお客さんとかにあげたり、家族に持って帰ったりしようと思ってるのよね。倉庫に積んであるけど、河合さん、彼女に一枚どう?フリーサイズよ。」
「だからさっき河合さんは彼女いないって言ってたじゃない」
「うそにきまってるわよ。こんなイケメンさんなのに」
「服のアイデアはね、私が考えたのよ。お琴教室の発表会のとき、お揃いのTシャツをつくったことがあって、それをヒントに」
「邦楽にTシャツだなんて、モダン!」
「でも舞台でもないのにどうしてお揃いの服?って先生に聞かれたわよね」
「そうそう。で、お客様たちから、一目で制作者だってわかって、コミュニケーションが進むって言ったら、すばらしいって誉められた。」
「そうよねそうよね」
茂はいつ果てるとも知れない四人の会話に意識が遠のきかけるを感じながら、愛想笑いを絶やさずそして周囲への警戒も絶やさず立っていた。
ついにインカムから先輩警護員の労いの声が入った。
「河合、お疲れさん。がんばれ。」
「・・・・は、はい」
「難しいとは思うが、誰を見ても襲撃犯だと思え。そして警護員たるもの、クライアントとそのお友達への愛想も同時に常に忘れずに。」
高原の語尾が少し笑っていたような気がしたが、茂は気にしないことにした。
太陽が次第に高さを増し、入場者の数も増え始めた。
クライアントが入口に知り合いを見つけてそちらへ向かい、慌てて茂も同行した。
「和泉の男装より、板見の女装のほうが不安ですわ」
酒井が笑いをこらえながら言い、吉田が部下の顔を見ないようにしながらたしなめる。
「板見も真面目にやってるんだから、そんなこと言わないの」
「過去二回とも、一目でばればれでしたからな」
「今回は大丈夫よ。」
「そうだよ凌介。すっごい美人だったじゃない」
深山が酒井を自分もたしなめるように言った。
「そうか?」
「うん。板見くん、もともと目が大きくてかわいい顔立ちだからね。凌介、お前が女装するより多分一億倍はキレイだよ。」
「男の中の男の俺と比べるな。」
昼前の明るい日差しをカーテンで遮ったカンファレンス・ルームの舟形テーブルに向かい、吉田と酒井と深山が囲むように注目している通信機器から、再び和泉の声が入った。
「和泉です。お客様は予定通り会場へ入られましたが、来場者に扮した状態でも私との接触はやはり避けたいとのご意向です。」
「そうでしょうね。板見と朝比奈は?」
「先に入った板見くんは無事に展示場従業員として潜入中です。朝比奈くんは警備員から取材スタッフに現在態勢を変更中です。」
「あまり頻繁にならないように伝えて。かえって不自然だから」
「はい」
「なんだか、楽しいトレーニングですな」
「まあね」
「もちろん・・・・」
「・・・・・」
「あのことさえ、なければですけどね。」
「ええ。」
展示室内を茂はクライアントについてもう何周めかをしていた。
書道作品ということから茂が想像していたものとは違い、現代美術作品のような奇抜な素材に大胆な構図で書かれたものや、花や草その他異素材をあしらったものなど、アート作品のようなものも目立つ。
各展示室はテーマが分かれており、クライアントの掛け軸を含む巨大な作品ばかりが展示してある部屋は「時間」という標題がついている。その意味は茂にはよくわからない。
そしてどの展示室も、室内に簡易な作業台が設えられており、来場者がそこに待機している出展者に希望を言うと、その部屋のテーマに合った作品を即興で書いて贈呈してもらえる趣向になっている。
今の時間帯を担当している仲間に声をかけているクライアントの傍に立っていると、茂は後ろから足音が聞こえたので半分振り返った。
「ごくろうさま」
クライアントやその三人の親友たちよりも、さらに背が低く、そして非常に痩せた老女が立っていた。
「あ、先生。まあうれしいわ」
クライアントが笑顔で応じる。茂は一度会ったことがある。書道教室の教師で、クライアント以上の高齢だが、長い髪は真っ黒に染められ後ろでひとつの三つ編みにされている。和服と洋服の中間のような変わったデザインの衣装を着ている。
「この展示室は売れ行きが悪いって聞いたから。しばらく助っ人しましょう。」
教師は作業台の担当の生徒に並んで自分も座った。
「先生の作品がもらえるって分かったら、たちまち行列になりますね」
「だったらいいんだけれど」
クライアントの予想通り展示室にはほどなく観覧者が大勢集まり始めた。
土曜昼過ぎの大森パトロール社の事務所は、いつもどおり人はまばらだったが、葛城が事務室内に入ると自席で作業をしている同期入社の警護員が目にとまった。
「月ヶ瀬・・・。」
艶やかな黒髪を長く伸ばした青年は、葛城より僅かに背が高いがほぼ体型は似ている。そしてその線の細い美貌も共通しているが、タイプはまったく違う。月ヶ瀬透は高原や葛城や山添と同じく、大森パトロール社ができたときからいる経験豊富な警護員である。しかし三人との違いは、基本的に他人と友好関係というものを結ばない点である。
「君のかわいい後輩が、高原と組んでるんだね。波多野部長に聞いた。」
「・・・・波多野さんは何か気になることがおありなのか」
「僕が気になってたから気になさった、というべきかね」
「どういうこと?月ヶ瀬。」
冷たく美しい顔立ちに微かな笑みを過らせて、月ヶ瀬はその能面のような切れ長の目を、葛城の温かみある美貌へと向けた。
「案件ファイル、読んだけど。この中途半端な脅迫状。気にならない?葛城」
「・・・精神的にちょっとおかしい人間。あるいは、・・・よっぽど何かある、人だね。」
「そうだね。後者だとしたら、脅迫状が来てから二週間。警護が始まってから二日。まだそれらしい襲撃がないのは、どうしてだと思う?」
「・・・・・・」
「今日がその日なんじゃないの?」
「相手が十分警戒して一番安全だと思っている状況を選んで、襲撃する。それは多くの場合、恨みがとても深いときであり、なおかつ・・・・」
「そう。」
「ただ、晶生と茂さんがいくら確認しても、他人の恨みを買う理由がみつからなかった。」
「で、高原は、襲撃を待って犯人を確認しようとしてるね、たぶん」
「・・・・・・」
「それは僕も反対じゃないけどね。でも高原と河合さんの組み合わせって、なんだか嫌な予感がしない?」
「・・・・・」
「第一に、河合さんは最近ますます、葛城、君の悪い影響を受けてるでしょ。高原は河合さんと組むのは久々だから、その怖さを体感してない。息が合わないと思うよ。そして・・・」
「・・・・・」
「襲撃犯が素人で、なおかつ今日の日を選んだということは、想像を超えるくらいに本気だよ。で、僕が言いたいのは」
「・・・・・わかったよ」
葛城は必要な荷物を手にし、すぐに事務所出口へ向かう。そして振り向き、同僚へ柔和な笑顔を向ける。
「月ヶ瀬・・・・ありがとう。」
月ヶ瀬は不思議そうに葛城を見た。
「君たちのためじゃないよ。僕は、無用なトラブルがイヤなだけ。」
「・・・・そうだったね。」
茂は夕食のレストランで少し離れたテーブルで食事しながら警護し、食事を終えた四人にレストラン出口で合流してクライアントたちについて展示室へ戻る間、脅迫状の文言のことを考えていた。
「他人の人生を台無しにした、と他人に思わせてそのことを意識しない、というようなことって、可能なのかな」
考えても分かることではないと思いながらも、ふと想いを巡らせてしまう。
クライアントの作品を含む四人のうち二人の作品が展示されている「時間」の部屋へ四人が入る。
「あーあ、やっぱりここが一番すいてるわねえ」
「わかりにくいのかしら」
「売れ行きはどう?水谷さん」
即興で作品を書いて渡す作業台に座っている担当の生徒に四人が声をかける。
「やっぱり先生にはかなわない。全然よ」
「そうかー」
水谷と呼ばれた生徒は所在なげに硯の墨をさらに濃くすった。
展示室に客が入る気配に茂が一瞬そちらに注意を向けたとき、作業台から悲鳴があがり、重い物が床に落ちる音がした。
「きゃーっ!」
「あらあら、大変」
「靴は大丈夫?」
床の上に硯が落ちており、クライアントの服の前面にかなり広範囲に真っ黒な墨がかかってしまっていた。
三人の仲間たちのうち、一人は展示室の監視をしていた係員に掃除を頼み、二人はクライアントの服をティッシュで拭いている。
「だめねえ、着替えたほうがいいね」
「二階の控室で」
「私たち、着替え取ってくるから」
「たくさんつくっておいてよかったわねえ」
「同じ色でいい?」
「でもふたりはこれから出かけるんでしょ」
「大丈夫、中村さんは先に一緒に控室へ行ってて。」
加藤と近藤が連れだって展示室を出ていく。
茂はクライアントと中村について二階まで行き、控室が無人であることを確認して二人が入るのを見届け、廊下で待つ。
すぐに段ボール箱を持って加藤と近藤が現れる。
「箱ごと持ってきちゃった。どれが緑色かわからないんだもん」
「不便な梱包よねえ」
「どうせあとでボディガードさんにも好きなのを選んでもらうんだし、控室においておきましょう。」
「あ、いえ、私は・・・・」
「遠慮しない遠慮しない」
茂が固辞し、ようやくふたりが控室へと入っていく。
中から引き続き話声が聞こえる。
「あらあ!下着まで染みちゃって。」
「洗っても落ちないわねえ」
「墨はねえ」
「お稽古のとき、私もお気に入りのブラウスダメにしたことあるわ」
「そんなの着てくるからよ」
「スモッグ着てたんだけどねえ。」
「同じ緑いろでも微妙に柄行が違うから、よく選んだほうがいいわよ」
「そうねー。これなんかどう?」
がさがさと梱包を破る音や、着替える物音がして、そして携帯が鳴る音がした。
「もしもし、加藤です。えっ!そうだっけ!大変!」
「どうしたの」
「海外から来てくれたゲストの、通訳さんから」
「で、なんなの」
「約束の時間を三十分過ぎてますけどって」
「ええ!」
「大変じゃない!」
「時間間違えてたみたい・・・・どうしよう・・・」
「すぐ行くしかないでしょ!」
「そ、そうよね・・・はい、今からタクシーで出ますから、はい、ごめんなさい。はい。それじゃ」
再びばたばたと物音がしたあと、控室の扉が慌ただしく開き、加藤と近藤が飛び出して茂を突き飛ばすように駆けだしていった。
茂は呆れて二人の背中を見送り、控室の中へ声をかける。
「着替え終わられましたか?」
「あと少し待って」
「はい」
そのとき、茂のインカムから高原の声が入った。
「時間」の展示室で、床の墨をさらに完全にふき取るため、女性係員がしゃがんで濡れ雑巾で丁寧に掃除している。
そして周囲が無人であることを確認し、耳元と胸元に装着した目立たない通信機の、音声に耳を凝らす。
女性の声が入る。
「ありがとう、板見くん。逸希くんと一緒に今出発したよ。すぐ後から来てね。」
板見は墨汁のあとがなくなるまできれいに床を拭き終わると同時に、低い声で応答した。
「了解しました」