一 真情
大森パトロール社側の人間たちを、少しだけ接近して描いてみたいと思います。
河合茂は平日昼間勤めている会社が、フレックスタイム制をようやく導入したメリットをあまり受けず、時計が夕方五時を回るころようやく入力作業を終えて帰り支度を始めた。
「今日は警護の仕事はないのか?」
「あるよ。事前打ち合わせ。」
斜め向かいの席から座ったまま質問してきた同僚に、茂は鞄の中身を整理しながら半分上の空で答える。
「もう少しメリハリをつけて仕事したら、こういう日は早く帰れるのに」
「うるさいなー、急には体が慣れないんだってば。」
「まあね。」
三村英一が、その端正な顔から珍しく真面目な表情を崩さないで茂のほうを見ている。
「三村、お前こそ、午後早い時間から稽古を入れても大丈夫になったはずなのに、あんまりそういうことしてないじゃないか。」
「俺は、生徒さんに急に稽古の時間を変えるように言うのはかえって悪いと思うから」
「ふうん」
茂の隣に座っているベテラン係長が、ふたりを見てほほえましそうにほほ笑む。
「同期入社だけあって、相変わらず仲が良いよね、河合さん、三村さん」
「特によいわけではありません」
「副業持ってる者同士いたわりあってるし」
「いえ特にそういうわけでは」
「でも副業って言っても、全然分野が違うけどね。大森パトロール社の河合警護員さん。」
「俺と違ってこいつは文化的ですから」
「舞は文化じゃななくて芸能だ」
「どう違うのかよくわかんない」
「じゃあ河合さん、今度一緒に三村流の地唄舞公演へ行きましょうか。三村さんが宗家の特権でこの間特等席のチケットを・・・」
「行きません!」
茂はきっぱりと宣言し、そして相変わらず仲がよいのか悪いのかよく分からない同僚のほうを一瞥してから、「じゃ、失礼します」と言って席を立ち、帰宅していった。
残された英一に、係長が声をかける。
「友情って、恋愛と同じで、なんだか若い人のそれは色々複雑なものですよね」
「・・・・・」
「三村さんと河合さんの場合、一見、三村さんの片思いに見えますけど」
「・・・・・・」
「でも、相思相愛ですよね。うらやましい。」
「・・・・・・・」
英一も速やかに帰り支度を始めた。
茂が土日夜間限定で警護員として勤めている大森パトロール社の事務所は、平日昼間の会社と同じ最寄駅だが、駅の反対側にある雑居ビル二階に入っている。
事務所の従業員用入口からカードキーで入ると、事務室内から先輩警護員の高原晶生がこちらに気づいて手を振った。
「こんばんは、高原さん」
「おう、河合。メイン警護員さん」
「ははは・・・・」
顔を赤らめながら茂は高原の席まで行き、あらためて頭を下げた。
「なんだよ河合、硬いなあ」
「緊張してます。高原さんと一緒の案件で、俺が初めてのメイン警護員なんですから。」
「気楽に行けよ。先輩ということは忘れて、サブ警護員の俺になんでも命令してくれ。」
「さらに緊張してきます」
高原晶生は眼鏡の奥の、知性と愛嬌が不思議に同居した目を細めて大笑いした。この背のすらりと高い知的な好青年は、若くて小さな警備会社である大森パトロール社ができたときからいる最古参の四人の警護員の一人だ。そして業界のどこを探しても匹敵する人材はほぼいないと言われるほどの、超一流の警護員である。
茂は高原と常にペアを組んでいるわけではないが、人材育成の一環としてベテラン警護員がメイン警護員経験の浅い後輩のサブ警護員につくことがあり、今回の高原と茂もそうである。
「安心しろ、河合」
打ち合わせコーナーで麦茶を飲みながら、高原は向かいの席の茂へ笑顔を向けた。
「はい」
「今回はあいつらの出番は、今のところなさそうだからね。」
「・・・・・」
「時間の余裕もかなりあったから、俺たちクライアントにかなり丁寧に面談したけど、結局心当たりは何一つなくて、それは本当のことだろう。」
「そうですね。脅迫状の内容も抽象的ですし・・・・」
「あいつらが出張ってくるようなケースなら、少なくとも誰かがクライアントのせいで、生命かあるいはそれに等しい被害を受けるようなことがなければおかしい。」
「はい」
「でもクライアントは結婚して四十五年、去年旦那様を亡くされたけど、何事もなく平凡な生活をずっと送ってこられた。」
「はい。ずっと専業主婦で目立った活動もありません。お子さんもおられない。親族とのトラブルもない。そして書道教室で仲のよい友達が多く、今回の警護も友達からの勧めですしね。」
「ただし、脅迫犯が、本気だとしたらちょっとやっかいな人間かもしれない。」
「・・・・・・」
「”お前が踏みにじったひとつの人生のことを思い出せ。お前の人生はそのために間もなく終わる。”・・・クライアントのせいで自分の一生が台無しになったと思っている。本気だとしたら、ね。」
「・・・そうですね・・・・。一体、どこのだれが、どうして・・・・・」
茂は突然後ろから両肩を掴まれて、飛び上がった。
「わっ!」
「あっ、すみません・・・脅かしすぎました?」
振り向くと、濃い栗色の長髪を揺らしながら、高原と同期の先輩警護員である葛城怜が相変わらずの絶世の美貌で笑っていた。
「こ、こんばんは、葛城さん」
「こんばんは」
「なんだ怜、何か用か?」
「わかってるくせに」
「はいはい」
大森パトロール社の警護部門で受ける、いわゆる身辺警護の業務は、担当するボディガードつまり警護員たちの独任制である。同じ会社の人間同士といえども、他の警護員の警護案件をみだりに知ることはクライアントのプライバシー保護上原則禁止である。しかしこの原則はかなり緩やかに運用されている。その理由のひとつは、担当警護員に何かあった際に、すぐに代わりに警護に入ることができる体制を予め取っておくことのメリットである。
高原は茂の隣に座った同僚に向かって、今回の警護案件の概要を説明し始めた。
が、しばらくして、言葉をふっと止めて、茂のほうを見る。
「そうそう、河合」
「はい」
「この後さ、崇も合流して飲みに行くんだけど」
「はい!」
「お前も来いよ」
「はい!」
「・・・で、稽古が終わったら合流しませんかって、聞いてくれないかな?」
「・・・三村に、ですか?」
「そうそう。最近ちょっとお会いしてないから、怜も俺も崇も寂しがってるって伝えてくれ。」
「・・・・・た、高原さんのご命令とあらば・・・・・・・・」
「よし、それでこそ俺たちのかわいい後輩だ」
街の中心にある古い高層ビルの、高層階にある事務所で、カンファレンス・ルームの扉をノックして一人の背の高い女性が入っていった。
「コーヒー入りましたよ」
「おお、和泉、すまんな」
「ありがとう、和泉」
和泉麻衣は、明るい色のショートカットが健康的な小麦色の肌に似会う若い女性だ。トレイに乗せてきたコーヒーカップ五つを、舟形テーブルに座っている四人の人間と自分とに、順に配る。
天井から床まである大きなガラス戸から、はるか下界の街並みと、夜空に雲の間から顔を出し始めた月がよく見えている。
最初にカップが配られた、セミロングの髪に鼈甲色の縁の眼鏡という姿の、あまり目立たない容姿をした女性が、ひと口飲んで微笑した。
「おいしい。やっぱりうちのチームで、コーヒーを淹れたら和泉にかなう人間はいないわね。」
向かいに座っていた、あまり背の高くない、そして強く輝く大きな目をしたごく若い青年が抗議した。
「ええー?吉田さん、それって本気でおっしゃってます?俺がいるのに」
「板見、お前のは苦味が勝ちすぎてワイルドなんや。和泉の絶妙なバランスまではまだまだ届かへんで。」
「そうですかー?」
「この阪元探偵社のエージェントとして一流になるには、社長に認められる程度には上手くコーヒーを淹れられるようにならなあかん。」
「はあ。でも酒井さんが淹れたコーヒーって飲んだことが・・・」
「俺はそういうのは超越してるからな。」
酒井凌介は長身に似会う長い脚を組み、漆黒のやや長い髪の頭の後ろで両手を組んだ。板見徹也は腑に落ちない顔で、その大きな両目で先輩を睨む。
「板見くん、凌介と理屈で戦ってもだめだよ。ま、腕っ節で戦ってもだめだけどね。」
酒井のとなりに座っている、異国的な顔立ちに長い金茶色の髪を垂らした青年は、コーヒーを飲みながらため息をつく。
「祐耶、お前まだ怪我が完治してへんからって、なんか言いたい放題と違うか?」
「もともとそうだよ」
「まあそれもそうやな」
吉田恭子が鼈甲色の眼鏡の縁を上げながら笑った。
「そろそろ本題に入ってもいい?」
「はい」
吉田と向かい合って舟形テーブルに座る四人のチーム・メンバーたち・・・・筆頭エージェントの酒井、その隣にいる金茶色の髪をした深山祐耶、ひとつあけて和泉、そして板見がそれぞれ背筋を伸ばしてチームリーダーのほうを注目した。
吉田が手元の端末の画面を示す。
「お得意様からのご紹介の後、既に和泉がご本人への営業活動を始めてくれているけれど、今のところまだ良いご回答はない。ご自分だけでやるとおっしゃっている。・・・で、当日は現場に、板見にも行ってもらおうと思う。」
「俺も行きましょうか。」
「酒井はいい。そこまでの案件ではないから。・・・ただし、もうひとり、参加者が増えそう。」
「?」
「庄田のチームの、朝比奈逸希。まだまだ経験値が浅いから、色々な現場を見せたいって彼に頼まれた。」
「なるほど、確かに、ある意味勉強になりそうですな。」
酒井は火を点けないたばこを口の端で弄びながら笑った。
そして吉田は少し目を伏せ、ため息をついた。
「少し出すぎたことではあるけれど、営業先のお客様の安全のためでもあるから、今回盗聴器を使う。」
「はい。」
和泉が応答し頷く。
「緊急事態のときは、和泉が連絡役、そして板見は逸希と二人で営業先のお客様の安全確保に努める。たとえ逮捕されて構わないご様子でも、一度は安全な場所へお連れするよう試みること。ただし、全ては、あくまで我々がリスクを全くとらずにできる範囲でいい。契約前の活動なのだから。そのことを忘れずに。」
「はい。」
「それから、もうひとつ・・・」
吉田は改めて目の前の四人の顔を見た。
「もうひとつ、気をつけてほしいことがある。」
「わかりますよ」
酒井が伏し目がちに微笑した。
カンファレンス・ルームの大きなガラス窓から、鮮やかな月光が降り注いでいた。
翌金曜日は陰鬱な天気となったが、構わず昼休みに外へ食事に出ようとした英一を、斜め前の席から茂が呼び止めた。
「あのさ、三村。」
英一は意外そうな顔で同僚のほうを振り向いた。
「なんだ?」
「・・・・えっと」
「?」
茂は明るい茶色の、絹糸のような髪を右手で居心地悪そうにかき上げた後、ようやく決意したように言った。
「三村、なにか悩みがあるなら素直にこの河合茂に言っていいよ」
「は?」
少しの沈黙があった。
「・・・・って、伝えてって、高原さんがおっしゃってた」
「?」
「昨日の飲み会の後、俺に。」
「そうか」
「俺は全然気付かなかったけどさ」
「友達甲斐がないな」
「友達だっけ?」
「・・・・」
「冗談だよ」
英一は一度うつむき、少しため息をつき、そして顔を上げてもう一度小さくため息をついた。
そして改めて席に座り、同僚の顔を見て、言った。
「見合い話がきた」
「えーっ!」
「驚きすぎだ」
「だってさ」
「だって何だ」
「今の時代、お前の年齢じゃまだまだちょっと身を固めるには若すぎるんじゃないか?」
「俺もそう言ってるんだが、親父が今度こそ逃がさないってしつこい。」
「それなりのすごいやんごとなきお嬢様なんだろうな」
「茶道○○流のお家元の令嬢だって。」
「まあそうだろうね・・・・・だからさ、三村」
「ん?」
「前も言ったけど、お前女性にすごくもてるんだからさ、見合いがイヤなら自分で結婚相手をちゃんと決めてお父さんにご紹介すればいいんだよ。」
「・・・・・・」
「まあ、もてすぎると訳わかんなくなるのもわからなくもないけど・・・・。お前、もしかしてまだ・・・・」
「それはない」
「そうか?」
「いくらなんでも、俺だって大人だから。昔のことは昔のことだ」
「じゃあ、今は好きな人はいないってこと?」
茂の透き通るような琥珀色の両目に見据えられ、一瞬英一は言葉に詰まったが、やがて言った。
「・・・・・・いないことも、ない。」
「・・・・・・・・」
三十秒ほどの沈黙が続いた。
そのまま英一は茂に腕をつかまれて拉致された。
五分後、二人はビルの上層階の展望レストランにいた。値段の割に料理のボリュームも味もそれほどでもないので、いつも空いている。
「誰なんだよ、誰?教えろ三村」
「それも高原さんの伝言か?」
「俺が知りたいだけだけど」
「言っても無駄だ。絶対無理なんだから。」
「お前が絶対無理って、それどういう相手だよ。どこか国の王女さまか?でも相思相愛なんだろう?お前を断る女性って、この世にいないはずだ。」
「いや、俺の片思いだ。」
「・・・・・」
「・・・・・・」
重い空気になった。
「そもそも、告白したのか?」
「してない。しても絶対断られる。」
「なんでさ」
「前のご主人と、離婚されてて・・・」
「・・・・まだその前の旦那さんが忘れられないとか?」
「わからないけど・・・それに、小学校に上がったばかりのお子さんがいる」
「ええっ!」
英一は観念したように、茂の顔を見た。
「・・・俺が児童館で教えている生徒さんの、お母さんなんだ」
「ね、年齢は?」
「俺より四つ上。」
「ふうん。」
「なんだよ」
「年上が好きっていうのは、変わらないんだなー。」
「うるさいな」
「美人か?」
「いや、特にそういうことはないけど。」
「まあ、女性に囲まれすぎて、美人は見あきているもんな、お前。」
「うるさいよ」
「告白する前からあきらめるなよ、三村」
「・・・・・・・」
「今まで、結構大勢の女性とつきあってきたんだろう?」
「そうだけど」
「だけど、何さ」
「その・・・・・一度も、ないんだ」
「え」
「・・・自分から告白した、ことが」
「ええっ!」
再び、三十秒ほどの沈黙が重く流れた。
気を取り直し、茂が息を整え言葉を出した。
「女性の心理はよく分かるお前なんだから。自分からの告白が初めてだって、大丈夫だよ。」
「色々シミュレーションしてみたけど、どう考えても、断られると思う。育児で大変だし、宗家の嫁なんて無理だし、仕事もあるし・・・って。多分。」
「お仕事、やめるわけにいかないんだろうな。」
「お勤め先は小さい会社らしいけど、それだけに、若くても責任ある立場でやっておられるようだからね。転勤もあるらしいし。」
「一人で育児しながら・・・本当にえらいね。」
「そうなんだ。そして人柄もすばらしい。」
「ふうん。」
「なんだよ」
「お前、その人のことすっごく好きなんだな。顔にまるまる出てるし。」
「・・・・・・」
「あのさ、このこと、高原さんにしゃべってもいい?」
「別にかまわないけど」
「葛城さんとか山添さんとか」
「いいよ」
「何か良いアイデアが出るかもしれない」
「そうかな」
「・・・・も、もしかしたら、出るかもしれない」
「・・・・・」
「まあ、出ないかも、しれないけど・・・・・。」
十分後、電話で茂の話を聞き、高原晶生が直ちに同僚へ緊急招集をかけた。
大森パトロール社の事務所の打ち合わせコーナーに、会社最古参の経験豊富な警護員三人が集まった。
葛城怜と一緒に呼ばれた山添崇は、スポーツ好きらしいよく日焼けした肌に、黒目勝ちの両目と少し肉厚の唇が似合う愛らしい童顔の青年だ。
「どうすればいいと思う?何かいいアイデアないか?怜、崇」
「うーん」
「ごめん、怜は最近彼女にふられたばっかりだったな」
「・・・・・」
葛城のこの世ならぬ美貌を囲むように、この世のものとも思えぬ不幸の暗雲が立ち込めていた。
「崇は、新しい彼女ができたばっかりだろ」
「でも同じトライアスロンが趣味なんだよな。大会で出会って。」
「そういう意味ではあんまり参考にならないなあ」
「晶生は前の彼女と別れてから、しばらくずっと独りだしな。」
「でも、警護員と全く住む世界が違うという意味では、昔、三村流じゃないけど日本舞踊の家の娘とつきあってたことがある。」
「へえー」
「でも彼女は、俺と結婚するなら、踊りはやめるって言ってたな。」
「参考にならないなあ」
「もともと、自分には向いてないって思ってたみたいだから」
「そういえば、河合さんはどうなんだろう?」
いきなり葛城が山添の首根っこを掴んだ。
「うううう、くるしいよ、なにするんだよ怜」
「その質問、茂さん本人に絶対するなよ、崇。」
「河合さんだって大人なんだから、過去のことは過去のことだよ」
「そうだけど・・・・・」
高原の顔が少し曇った。
「あいつには、悪いことをしたよな。」
「ああ。」
葛城も表情を暗くしうつむく。
「怜に無理やり迫られて、記憶から消します、とまで言わせられたんだもんな・・・・。」
「うん。反省してる」
「気持ちは分かるよ。やり方がちょっとストレート過ぎたとは思うけど。」
三人は同時に深いため息をついた。
「で、今日の結論だけどさ」
「はい」
「三村さんにアドバイスできるような人間は、やっぱり誰もいなさそうだな」
「・・・・・・」
「それに、思えばさ」
頬杖をつき、高原は苦しそうな顔で深く息をついた。
「河合は、まだ好きなんだろうな。」
「・・・・」
「阪元探偵社の、和泉という女性エージェントのことを。」
「・・・・ああ、たぶん、そうだろうね・・・・・」